『週刊金曜日』1月12日号に寄稿したもの。
読売新聞大阪本社と大阪府が情報発信で連携協働する「包括連携協定」を結んだ。「府民サービス向上」と「大阪府域の成長・発展」をめざすと謳っているが、一政党が一元的に支配している地方自治体と大新聞が連携するというのは異常な事態だろう。
ジャーナリスト有志の会がただちに抗議声明を発表し、私も賛同人に加わった。大事なことは抗議声明に書かれている。私が付け加えるとすれば、それはこのふるまいが「新聞メディアの終焉」を告知しているということである。
新聞の発行部数は減り続けている。日刊紙の総発行部数は2021年に3065万部。前年比5.5%減である。地区別で見ると、大阪の部数減少幅が大きい。読売新聞は2001年には1000万部だったがこの20年間で部数を約30%減らした。購読者の高齢化が進んでいる以上、新聞メディアがビジネスモデルとして破綻するのはもう時間の問題である。不動産を持っている新聞社はテナント料でしばらくは新聞発行を続けられるだろうが、それを「ジャーナリズム」と呼ぶことはもう難しい。
読売新聞が大阪府との連携に踏み切ったのは、そうすることで報道の質が向上すると思ったからではあるまい。「お金が欲しかった」からだろう。
新聞も私企業である。経営上の必要から「金主」を探してどこが悪いという言い分にも一理はある。だが、ことは一新聞の財務問題ではなく、新聞メディア全体の信頼にかかわる。読売のふるまいは新聞メディアそのものに対する国民の信頼を深く傷つけたと私は思う。
仮にも全国に数百万の読者を有するメディアである以上それなりの社会的責務がある。権力の監視もそうだし、「社会の木鐸」として世論を導くこともそうだ。だが、最も大切なのは国民的な議論と合意形成のための「対話の場」を提供することだと私は思う。
「対話と合意形成の場」の提供という仕事はマイナーなメディアにはできない。その代わり、マイナーなメディアは「同じ意見の人間だけが集まって盛り上がる」排他的な場であることが許される。というか、その特権を享受することの代償に「あるサイズ以上にはなれない」のである。例えばこの『週刊金曜日』は改憲論者や対米従属論者に発言機会を与える義務を免ぜられているが、その代償はサイズの限界として支払わなければならない。
だが、大手メディアは違う。大手メディアは「広く異論に開かれていること」によってはじめてある程度以上のサイズであることを達成している。言論の多様性を痩せ我慢をしてでも守り抜くことによってビジネスモデルとして成立しているのである。
理屈を言うが、メディアは単体として「公正中立」であることはできない。「うちは不偏不党にして公正中立なメディアです」といくら訴えてみても誰も信じない。公正中立とはさまざまな異論が自由に行き交い、時間をかけて「生き残るべき言葉」と「淘汰されるべき言葉」が選別される言論の場を維持するという行為そのもののことである。「公正中立な言論」なるものが自存するわけではない。それは自由な言論が行き交う場は「生き残るべき言葉」と「淘汰されるべき言葉」を識別できるだけの判定力を持っているという信認のことである。対話の場の審判力を信じることを止めれば「公正中立」の居場所はなくなる。
公権力の広報機関になって延命することを経営的には合理的と読売新聞は判断したのだろう。けれど、「さまざまな異論の行き交う場」であろうとする努力を止めた時に、メディアはサイズを失う。読売新聞が経営判断の致命的な過ちに気づくのは、あまり先の話ではないと思う。
(2022-01-28 09:17)