天皇制についてのインタビュー『月刊日本』

2022-01-24 lundi

『月刊日本』の2月号に天皇制についてのインタビューが掲載された。

―― 現在、皇室は皇族数の減少等により存続が危ぶまれ、皇位継承の在り方について議論が行われています。内田さんは『街場の天皇論』(文春文庫)で、象徴天皇制への支持を表明していますが、皇室や皇位継承の在り方についてどう考えていますか。

内田 象徴天皇制は戦後70年以上にわたる皇室の努力によって形作られてきたものです。天皇制は僕のような戦後世代にとっては必ずしも存在することが自明の制度ではありませんでした。子どもの頃は周りの大人たちの中に「天皇制廃止」を公言する人も少なくありませんでした。ですから、子どもの頃に天皇制の存否について意見を求められたら、僕は「必要ない」と答えたんじゃないかと思います。
 でも、皇室と国民の関係は、敗戦直後がおそらく一番危機的で、そのあとはしだいに安定的なものになっていったように思います。大きな貢献を果たしたのは、59年の皇太子と美智子さまのご成婚です。国民は民間出身の聡明な皇太子妃を歓迎して、ご成婚を祝福しました。これを機に皇室への親しみは一気に深まったと思います。
 もう一つは、皇室が政治的中立性を保ち続けたことです。60~70年代は、全共闘運動や安保闘争などで国論が深刻に分裂した時代でした。しかし、皇室は一方に与することを避けて政治的中立を貫いた。僕は過激派学生の側にいましたけれど、天皇から敵視されているという感覚を持ったことはありません。後から思うと、あの時に政治的立場の違いを超えてすべての国民の平和と安寧を願うという立場を維持したことによって、左翼も含めて全国民が天皇を「国民統合の象徴」と認めるという機運がゆっくりと醸成されたのだと思います。
 今の皇室と国民の安定的で穏やかな関係を創り出したのは主として皇室側の努力によるものです。国民は皇室についての興味はあったものの、「皇室はこうあるべきだ」ということについてビジョンを提示し、合意をめざすという動きはほとんど見られなかったからです。憲法に条文を掲げただけで、「立憲デモクラシーと天皇制をどう両立させるか?」という実践的な問題については、真剣に取り組むことなしに75年を過ごしてきた。
 しかし、上皇陛下は2016年の「おことば」を通じて、象徴天皇の具体的な責務が何であるかを明らかにされました。それは先の大戦で斃れた人々の霊を鎮めるために祈ること、もう一つはさまざまな災害の被災者を訪れ、「傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うこと」です。いずれも陛下は死者たちが息絶えた現場、国民が被災した現場に赴き、その場に膝をついて祈り、慰めの言葉をかけられました。
 憲法第七条には「天皇の国事行為」として、法律の公布、国会の召集、大臣や大使の認証などに続いて、最後に「儀式を行ふこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのだと思います。それは宮中で行う宗教的な儀礼に限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り添うことでした。それが飛行機に乗り、電車や自動車に長時間乗って移動する具体的な旅である以上、身体的な負荷がかかります。だからこそ、高齢となった陛下は「全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくこと」が困難になったと考えられたのだと思います。
 天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願することであるのは古代から変わりませんが、上皇陛下はさらに一歩を進めて、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむものの慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです
 確かに立憲デモクラシーと世襲天皇制は「氷炭相容れざるもの」です。しかし、私たちはこれを折り合わせてゆくしかない。どちらかを選び、どちらかを捨てるということはできない。他国に例がない以上、よその成功事例を参考にすることもできない。自力で何とかするしかない。
 現在の皇室内部では、天皇の責務は国民の安寧と幸せを祈り、国民に寄り添い苦楽を分かち合う存在であるという解釈が「家風」として定着していると思います。ですから、重要なのは、男系の「血統」が継承されるかどうかよりもこの「家風」が継承されるかどうかだと僕は思います。「家風」を継承するについて性別は関係がありません。今の皇室の「家風」が継承されるなら、女性天皇でも女系天皇でも構わないと僕は思います。その点を優先するなら、幼いころから天皇皇后陛下の薫陶を受けてこられた愛子さまが次世代の天皇に即位されるのが最も自然です。
 そもそも今の日本がここまで衰退しているのはあらゆる領域で女性の登用が遅れているからです。21世紀の世界にはもはや家父長制の生き延びる余地はありません。

―― 政府の有識者会議は、旧宮家子孫の男系男子を皇族にすることを提案しています。

内田 大事なのは「家風」の継承です。単に「皇統に生物学的に連なる男性だから」という理由で皇族の数を増やしても、その人たちが今皇室が果たしている機能が担えるとは思いませんし、国民からの自然な敬意や親愛の気持ちが醸成されるとも思いません。
 リチャード・ドーキンスは『利己的遺伝子』で生物学的な「遺伝子(gene)
」に対して文化的な遺伝子である「ミーム(meme)」という概念を提唱したことがあります。社会的生物である人間の思考やふるまいは遺伝子によってよりむしろ脳から脳へコピーされる社会的・文化的な情報によって決定されるという学説です。僕が「家風」と呼んでいるのは皇室で継承されるミームのことです。

―― 天皇の存在は歴史的に「天皇は天照大神の子孫である」という建国神話と、「皇統は永遠である」(天皇は万世一系である)という血統の物語に基づいてきたように思います。

内田 その物語にはもう説得力がないと思います。いま日本国民が皇室を支持している第一の理由は、象徴天皇制という現実の政治制度が適切に機能しているからでしょう。「天照大神の子孫だから」とか「万世一系の皇統を受け継いでいるから」という理由で天皇制を支持している人はきわめて少数だと思います。
 記紀神話に類した起源神話、建国神話はどんな共同体にもあります。朝鮮は5000年前に檀君が建国したことになっているし、フランスはローマ帝国の文化を受け継いだ「ガリア」から発祥したことになっている。アメリカ合衆国の独立宣言だって、建国の正統性の保証人には「創造主」が呼び出されています。でも、それがファンタジーであることはみんな知っています。知っているけれど、そういう物語があった方が国民的な統合に役立つと思うから活用している。
「万世一系」という語の初出は岩倉具視です。明治維新を正当化するための採択された近代的な概念です。武烈から継体への皇位継承に無理があることや、南北朝の分裂は日本史の教科書を読んだ人なら誰でも知っています。
 帝国憲法は「天皇は神聖にして侵すべからず」とも定めていますが、実際には歴代天皇は時の権力者に利用され続けてきました。たくさんの天皇が権力者の恣意で退位させられたり、流罪にされてきたことは誰でも知っています。
 共同体の物語は時代の要請に基づいて形成されるものですから、その形成には歴史的必然性があります。でも、ある特定の時代に採用された物語を超歴史的真理であるかのように語ることはできません。

―― ただ歴代の皇位は近代以前から例外なく男系で継承されてきました。「万世一系」という血統の物語には、何か意味があるのではありませんか。

内田 能「花筐(はながたみ)」は、越前に住む大迹部(おおあとべの)皇子(おうじ)(継体天皇)の下に都の使者が来て、突然「皇位に就いてくれ」と懇請されて上洛した後、一人取り残される愛妃照日(てるひ)の前の嘆きの場面から始まります。「帝位を践(ふ)む身にあらざれども」という詞章が示すように、室町時代の人たちにとっては「これほど遠い血筋の人が皇位に就けるはずがない」というのが前提だった。そこにこのドラマの「意外性」があります。戦時中は『大原御幸(おはらごこう)』『蝉丸(せみまる)』『船弁慶』などの曲が不敬に当たるということ上演禁止になりましたから、おそらく『花筐』も上演禁止だったと思います。「帝位を践む身にあらざる」人が皇位に就いたという話なんですから。でも、何世紀も語り継がれてきて、日本人の天皇観を形成してきた物語群をたまたまその時点で支配的だったイデオロギーに禁止するというのは絶対にしてはいけないことです。
 それでも、明治政府が天皇を「万世一系」「神聖不可侵」と定義したことには歴史的必然性があることは僕も認めます。幕末にアジア諸国を次々と植民地化してきた欧米帝国主義列強の圧倒的な経済力・軍事力の背景には白人種を人類の頂点とみなすキリスト教的コスモロジーがありました。だから、日本が列強に対抗するには、黒船だけではなくキリスト教にも対抗しなければならなかった。
 明治政府は神仏分離令で江戸時代の民間信仰を徹底的に解体して、新たに天皇と伊勢神宮(天照大神)を頂点とする国家神道を作り上げました。民衆の信仰心を土俗的で多様な神仏から回収して、霊的エネルギーを現人神に一点集中しようとしたのです。いわば、天皇を「イエス」、伊勢神宮を「バチカン」に擬した「日本型一神教」を技巧的に作り上げた。
 僕は神仏分離による日本の伝統的な宗教文化の破壊を悲しむものですけれども、「一神教文化に対抗する霊的な物語を創造しないと列強に対抗できない」という政治判断自体にはそれなりの合理性があったと思います。

―― キリスト教との戦いは今も続いていると思います。

内田 僕は天皇制への支持を表明してから様々なメディアから取材を受けましたが、「なぜ内田は天皇制を支持するのか」と最も厳しく質問してきたのはプロテンスタント系のメディアでした。『赤旗』のような左翼系メディアからも取材されましたけれど、それほど厳しい質問は来なかった。その時に、共産主義よりもキリスト教のほうが天皇制とは相容れないのだと実感しました。
 キリスト教と天皇制が相容れないのは、おそらく「物語」の構造が似ているからだと思います。キリスト教は、神の一人子であるイエス・キリストの受難によって人類全体が救済されるという物語です。一方、天皇制は象徴たる天皇の犠牲的献身によって国民の統合が保たれ、四海に平和が訪れるという物語です。一人の「選ばれたもの」が「私」を犠牲に供することで「公」を立ち上げて、共同体を守護するという物語は世界中に存在します。マルクスが「類的存在」と呼んだものもある意味ではそれに近い。日本の場合はその「受苦する義務」が個人ではなく、皇室という特定の家系に世襲されている。
 それを「人権の侵害」だと言って非とする人がいますけれども、程度の差はあれ家伝の世襲が義務化されている家は現にいくらでもあります。能楽の宗家でも、日舞の家元でも、造り酒屋でも、網元でも、家の子は「家伝」の継承のために職業選択の自由を制約されている。政治家だってそうでしょう。三世四世の議員たちにとって議員であることは逃れられない「家業」ではないんですか。皇室に比べると、「私」を犠牲にして救済すべき「公」の範囲がきわめて限定的であるというところが違いますけれど。

―― 日本では天皇がイエスの役割を担っているから、キリスト教の需要がないわけですね。

内田 キリスト教徒の人口は中国が7%、韓国が30%ですが、日本はどうしても1%の壁を超えることができません。同じ東アジアの儒教圏の国と比べて、日本のキリスト教人口は圧倒的に少ない。それは天皇制があることがかかわっていると推理して過たないと思います。天皇制キリスト教はストーリーのかたちが似ている。だから、図らずもゼロサムの関係になったということではないかと思います。
 それに、戦後の象徴天皇制はそれ以前に比べてあきらかにキリスト教の世界観に近づいているように見えます。上皇陛下は皇太子時代にクウェーカー教徒のヴァイニング夫人を家庭教師に迎えられましたし、美智子さまも学生時代にカトリック教の修道女と交わられていた。ですから「苦しむ人々のために祈り、寄り添う」ことが天皇の本務であるという「象徴的行為」のアイディアにキリスト教の発想と近いものがあったとしても僕は不思議はないと思います。

―― 天皇とイエスは似て非なるものだと思いますが、両者の違いはどこにあるのでしょうか。天皇は日本のメシア(救世主)なのですか。

内田 天皇はメシアではありません。メシアは「終末」に到来して、人々を決定的に救うわけですけれども、天皇制ではそういうユダヤ=キリスト教的な、創造から終末に至る直線的な時間は流れていません。季節の変化のように、繰り返し再帰する円環的な時間の中に天皇制はあります。

―― 「受難の物語」は象徴天皇制に限らず、歴史的な天皇の在り方に通じると思います。

内田 仁徳天皇が民の暮らしを助けるために税を免除して、あえて極貧生活に耐えたという「民のかまどは賑わいにけり」というエピソードはよく知られています。この場合でも、天皇の受難は身体的苦痛を伴っていました。
 三島由紀夫は東大全共闘と討論した時、昭和天皇が東京帝国大学の卒業式で3時間もの間、微動だにせず座り続けていたエピソードを熱をこめて語っていました。昭和天皇はその身体的な苦しみに表情を変えずに耐える意志によって三島に強い印象を残したのです。
 上皇陛下も新嘗祭の時に夕方から深夜まで神嘉殿で儀式をされ、出て来られると顔面蒼白で疲労困憊されているという話を宮内庁楽部の伶人安倍季昌さんからお聞きしたことがあります。上皇陛下がその任務を果たすためにどれほど身体的な苦しみに黙って耐えているかという話をしながら安倍さんはほとんど涙ぐんでいました。
 身体的な苦痛に耐えて公務を果たす姿が国民を感動させ、統合を果たす。だから、上皇陛下は生前退位を望まれた時に「全身全霊をもって」つとめを果たすことが困難になったという言い方をされたのだと思います。

―― 昭和天皇はマッカーサーに面会した時、自分の身はどうなってもいいから国民を助けてほしいと頼んだと言われています。

内田 昭和天皇はおそらく本当にそう言われたと思います。自らの受難と引き換えに民を救うという選択はおそらく昭和天皇にとっても天皇として「つきづきしい」ふるまいだと思われたはずです。そして、それが象徴天皇制の原点になった。

―― しかし、こうした天皇の「受難の物語」は、キリスト教に由来する人権思想と矛盾します。上皇陛下が生前退位のご意向を示した時も、内親王が恋人と結婚する意思を示した時も、一部の国民は当惑したり反発したりしました。これは天皇や皇族が「受難の物語」から外れて人権を行使しようと受け止められたからだと思います。キリスト教との戦いは、天皇と人権をめぐる問題として続いているのではありませんか。

内田 たしかに天皇制は人権概念とも相性がよくありません。皇族は生まれながらに「受難する立場」を制度的に強制されている。しかし、本来受難はあくまでも主体的に自ら引き受けるものであって、他人が強制してよいものではありません。それでは「人柱」になってしまう。ですから、天皇制の生命線は皇族たちが自分たちの社会的役割を理解し、それを主体的に決然と引き受けているという「フィクション」に存します。現実には、皇族の方たちの中には、その役割を重荷と感じる人がいるとは思いますけれど、このフィクションが維持できなくなれば、天皇制は持ちません。
 重要なのは「折り合いをつける」ことです。立憲デモクラシーと象徴天皇制の折り合いは「おことば」でいったん定式化された。次はヨーロッパ的な人権思想と天皇制をどう折り合わせるかということが問題になります。だから、「皇族に人権はない」という主張にも「皇族にも100パーセントの人権を認めるべきだ」という主張にも、どちらも僕は受け入れることができない。その中ほどのどこかに常識的な「落としどころ」を探る他ないと思います。
 現に、「家業を継げ」とか「親の果たせなかった夢を代わって果たしてくれ」というような圧力と「自由に生きたい」という思いの間で引き裂かれている人たちはたくさんいるわけです。みんな必死で「落としどころ」を探している。天皇はそういう人たちのロールモデルになるだろうと思います。

―― 三島由紀夫は昭和天皇の「人間宣言」を「などてすめろぎは人となりたまいし」(英霊の聲)と批判しましたが、これも同じ文脈の問題だと思います。

内田 個人が抱く理想の天皇像と現実の天皇の間にはつねに齟齬があります。あって当然です。でも、そういう場合に、現実の天皇より自分の脳内で作り上げた理想の天皇像を優先する人たちは、結局は「誰よりも自分が大事」な人なんだと思います。
 事実、戦前の日本では、「あるべき天皇像」を権威として背負った政治家や軍人たちが「畏れ多くも畏きあたりにおかれては」という呪文を唱えて、国民を思考停止させ、自分の欲望を天皇を迂回することで実現しようとして、国を滅ぼした。

―― 戦前の天皇は国民の「上」や為政者、軍人の「後ろ」にいましたが、戦後の象徴天皇はどこにいると思いますか。

内田 現在の天皇は国民の「前」にいる対話の相手であり、国民の「横」にいてともに歩む「同伴者」だと僕は思っています。「雲の上」にいるわけではありません。ですから、僕たちは国民の仕事は何よりも象徴天皇制が適切に機能し、皇族の方たちができるだけ自由かつ愉快に生きられるように支援することだと思います。
(1月2日 聞き手・構成 杉原悠人)