大瀧詠一さんを悼んで

2021-12-30 jeudi

 大瀧詠一さんがいなくなってしまった。ずっといてくれると思っていた人が不意にいなくなってしまった。「喪失感」という言葉には今の自分の気持ちを十分には託すことができない。だから、追悼文の寄稿を依頼されたけれど、何をどう書いていいかわからない。
 これまでも、大瀧さんについては何度も書いてきた。でも、それはいつも「これを大瀧さんが読む」ということがわかっていた書いたものである。大瀧さんについて僕が書いてきたものは、すべて大瀧さんを想定読者にして書かれている。大瀧さんについてよくご存じでない読者層に向けて、大瀧さんを紹介するような文章を書くときも、「大瀧さんはこれを読むに違いない」と思っていた。「うっかりしたことは書けない」という緊張感がいつもあった。
 僕は自分について書かれたものをほとんど読まない。別に意図して避けているわけではなく、ぼんやりしているだけなのだが、大瀧さんは自分について書かれたことを絶対に見落とさない。それについては確信がある。以前、「新春放談」で山下達郎さんも言っていたけれど、大瀧さんは「自分に関係がある」と思ったことについては一分以内くらいにメールをよこす人なのである。「いったいいつ寝てるんですか?」とそのときには山下さんがあきれたように嘆息していたけれど、ほんとうにそうなのだ。大瀧詠一さんは僕たち"ナイアガラー"にとってはまさに「遍在するまなざし」だったのである。
 何を大仰なと思う人がいるかもしれないけれど、まさにそうとしか思えない個人的経験がいくつもあったからこそ、僕らはそう信じ込んでしまったのである。僕たちにとって、大瀧さんはほとんど「神」に等しい存在だったのである。
 信仰を持つ者たちの前から「神」がいなくなるというのがどういうことか想像してほしい。それを「喪失感」とか「虚脱感」とか呼ぶことは無理だと思う。今僕は大瀧さんについて書いているわけだけれど、これは僕が生まれてはじめて書く「大瀧さんについて僕が書いたもので、大瀧さんがもう決して読んではくれない文章」なのである。
 大瀧さんは「あらゆるところに目配りをしている人」だった。とりあえず、僕ら"ナイアガラー"はそう思っていた。だから、「あらゆるものを見ている人」は当然ながら「いつまでもいる人」だと僕たちは無根拠に信じ込んでいた。もちろん、そんなはずがない。不意の病が大瀧さんを彼岸に拉致してしまった。
 僕たちは「遍在するまなざし」を失った。いくつかの領域(とりあえずはアメリカン・ポップスと日本映画、もちろん、それだけではない)における現代日本で最も信頼できる「めきき」を失ってしまった。僕はこれから一体に誰を基準にものごとの良否を判断したらいいのか途方に暮れている。同じような人たちがたぶん日本国内には数千人規模で存在する。

 僕が大瀧詠一さんの音楽を最初に聴いたのは1976年の春のことだった。野沢温泉にスキー旅行に学生仲間で行ったときに、さあ麻雀をやろうというときに、一人がカセットデッキを持ち出して「麻雀を始めるなら、大瀧詠一をかけるぞ」と宣言して『楽しい夜更し』をかけた。それが僕の最初の「大瀧詠一経験」だった。その前も深夜放送ラジオで、はっぴいえんどは何度も聴いていたはずだし、岡林信康のアルバムにはっぴいえんどがバックバンドで参加したカセットテープは兄が持っていて車の中で何度も聴いていた。でも、そこからは『ナイアガラムーン』に類する衝撃は受けなかった。たぶん、音楽そのものより、僕はその批評性の鋭さと深さに反応したのだと思う。
『ナイアガラムーン』に収録されたナンバーは1950年代から60年代にかけて、大瀧さんが小学生から高校生だったころに、それこそ浴びるように聴いたアメリカン・ポップスをドメスティックに解釈したものである。コピーではないし、パロディでもない。膨大な音楽的記憶が大瀧詠一という個人の身体を通過してしみ出した何かである。
 あるいは「歌枕」という文学上の現象に近いのかも知れない。歌人俳人は名所旧跡やいわくありげな場所を通りかかると、そこで一首一句詠む。そのようにして同じ場所で歌われた歌が蓄積する。だから、一番あとに来た詠み手は、そこでそれまでに読まれた全ての先行作品をふまえて自分の歌を詠むことになる。自分のオリジナルな一節を「歌枕」に置いて、次に来る詠み手に託す。そうやって先行世代に対する敬意と感謝を表現するのである。気が遠くなるほど長い歌の歴史の連鎖の中で、先行者から受け取ったものに、自分の味を付け加えて、後継者に手渡す。音楽というのは、そういう「パスワーク」だという自覚を大瀧さんははっきりと持っていた(今僕は「一番あとに来た詠み手」という文字を記していて、それが大瀧さんが「栄一」という本名を「詠一」と表記を改めたときに一瞬脳裏に去来したイメージではないかという気がした。「気がした」だけで何の根拠もないけれど)。
 1976年時点では、自分がどうして大瀧さんの音楽にこれほどつよく惹きつけられるのか、まだ理由がわからなかった。とにかくもっと聴きたかった。とりあえずスキー場から戻るとすぐに『ナイアガラ・ムーン』を買った。それからあとも新譜が出るたびにレコード店に走って、家ですり切れるほど聴いた。ラジオ関東で大瀧さんのDJ番組「Go! Go! Niagara」を放送していることを知ると、毎週深夜ラジオの前にみじろぎもしないで聴き入った。
 当時の僕はそのラジオ番組で大瀧さんがかける楽曲も、そこで言及されるアーティスト名もほとんど知らなかった。でも、これが「自分のための番組だ」ということについてはなぜか深い確信があった。大瀧さんは僕(とあと何人かの「選ばれたリスナー」)のためにこの放送をしているのだと僕は思い込んでいた。そして、大瀧さんから「これらの音楽を愛し、これらの音楽について私が語っていることを理解できるリスナーになるように」というはっきり教化的なメッセージを僕は受け取っていた。
 山下達郎さんとの『新春放談』、NHKFMでのDJ『日本ポップス伝』、『アメリカン・ポップス伝』。『スピーチバルーン』などの間欠的に行われるラジオ放送を録音したものを僕は車を運転しながらこの四半世紀ほとんどエンドレスで聴き続けた。聴いた時間はおそらく延べ数千時間には達しているだろう。だから、「その人の話を聴いている」時間数でいうと、過去の人も同時代人も含めて、大瀧さんを越える人は存在しない。
 耳から入った言葉は眼で読んだ文字と違って、身体に深く食い込む。だから、何かのはずみで大瀧さんがラジオで話していたのと「まったく同じ言葉づかい」で自分がしゃべっていることに気づくことがある。僕の話し方や、ロジックの立て方や、ある種の諧謔のかたちには、40年間聴き続けてきた大瀧詠一さんの「ヴォイス」が深々に刻み込まれているのだと思う(あまりに血肉化してしまっているので、自分ではもうどこまでが自分でどこから大瀧さんなのか、識別しようがない)。
 大瀧さんからの影響のほとんどはラジオの音声を介したものである。僕にとって大瀧さんは音楽家であるより以上にDJなのである(遺作となった「アメリカンポップス伝」で、「ロックンロールの時代はスターDJの時代でもありました」と語った大瀧さんの声が少しだけ感傷的に響いたのは、大瀧さんが自分自身を「歴史的使命を終えて舞台から消えてゆくDJ」に重ね合わせていたからではないかと思う)。

 はじめてお会いしたのは2005年の夏だった。その前年に『ユリイカ』で「はっぴいえんど特集」が組まれた。そのときに、メンバー四人それぞれのロングインタビューが企画され、僕が大瀧さんの対談相手にという話が出た。震えるほどうれしいオッファーだったけれど、大瀧さんサイドからは「インタビューは受けない」と断られた。そこでロングインタビューの代わりに「大瀧詠一の系譜学」という長文の大瀧詠一論を寄稿させてもらった。そこで僕はラジオ放送で大瀧さんが語ったこと(誰も文字起こししていないので、放送と同時に消えたはずの音声)を引用して、大瀧さんの音楽理論を祖述してみた。
 CDでも、書籍でもなく、ほとんどラジオで聴いた大瀧さんの言葉だけを素材にして書き上げた僕のスタイルがたぶん大瀧さんの琴線のどこかに触れたのだろう、その次に同じ担当編集者が『文藝』で大瀧詠一特集を企画してもう一度ロングインタビューの相手に僕を推してくれたときには、大瀧さんからOKが出た。それが2005年の8月のことである。僕以上の熱狂的なナイアガラーである石川茂樹君とふたりで山の上ホテルに大瀧さんをお迎えして、8時間半にわたってお話しをうかがった。石川君にとっても僕にとっても、生涯でもっとも幸福な8時間半だった。
 それがきっかけになって大瀧さんに定期的にお会いするようになった。友人の平川克美君がやっているラジオ番組の収録に一年に一度お招きして、石川君と三人で大瀧さんを囲んで、思う存分おしゃべりをするという番組企画を大瀧さんが快諾してくださったのである。それが6年続いた。6年目の2012年暮れには大瀧さんの福生のスタジオを訪問して、そこで収録した。
 数々の名作を生み出した大瀧さんのスタジオはナイアガラーにとっては「聖地」である。そこで大瀧さんの恐るべきコレクションを前にして(当然、そうなると思っていたけれど)全員が絶句した。「絶句する」以外にリアクションのしようがない「天文学的」なコレクションだった。平川君が「大瀧さん、これだけ情報を集めて、どうするつもりですか」と修辞的な問いを発したのに、大瀧さんは「CIAに負けられないから」と笑って答えた。あれはなかば本気だったのだろうと思う。いくつかの分野については、政府情報機関を超えるくらいに「世界で一番詳しい」人間であろうとする気持ちが大瀧さんにはあったし、事実そうだった。
 去年の暮れに7回目の収録のための日程調整のメールを平川君が送ったときに大瀧さんから「去年が最後のつもりだった。だからスタジオにお出で頂いたのである」という返事が来た。「始まりのあるものは、いつか終わる」という言葉が書き記してあったそうである。いかにも大瀧さんらしいと思った。僕は大瀧さんに定期的に会えなくなったせいでがっかりするより、なんだかうれしくなってしまった。先ほども書いたとおり、大瀧さんは「あらゆるものを見ている」わけで、僕にしてみたら、そばにいてもいなくても、いるのである。
 僕が大瀧さんから生涯に受け取ったメールは数えてみたらちょうど20通だった。わずか20通。それでも、大瀧さんはいつでもすぐ横にいるような気がしていた。
 大瀧さんは僕がツイッターやブログに書いたものをずっと読んでくれていて、「日本でこんなことを知っているのは大瀧さんくらいしかいないだろうな・・・」と思うトピックに言及すると、ほんとうに数分以内にメールが来た。だから、ナイアガラーにとっての最大の名誉は、「日本でこんなことを知っているのは大瀧さんくらいしかいない」ことを自力で発見して、大瀧さんからのメール認知を得ることである。僕は二度その栄誉に浴した。
 ひとつは2年前。ニール・ヤングの"Till the morning comes" は僕の耳にはどう聴いても「死んだはずだよお富さん」という春日八郎の『お富さん』のフレーズそのままに聞こえる。果たしてニール・ヤングが春日八郎を聴いた可能性ってあるのだろうかとそのときブログに書いた(そう思ったのは1970年のことなのだが、言葉にするまで33年逡巡の時があったのである)。そのときは大瀧さんからすぐにメールが来て、アーサー・ライマン・バンドの演奏するOtomi sanの映像がYoutube上にあると教えてくれた。見ると、たしかに『お富さん』を日本語まじりで長々と演奏していた。だが、大瀧さんはどうして半世紀も前のアメリカの売れないバンドのテレビ演奏画像の存在を知っていたのか。もしかすると、大瀧さんもあるとき「ニール・ヤングのあれは、もしかすると・・・」と思って、1945年カナダ生まれのロック歌手が9歳のときに日本で大ヒットした『お富さん』をどこかで聴いていた可能性について網羅的な調査を行ったのではないだろうか。大瀧さんが「網羅的」に調べるということは、その語の辞書的な意味において「網羅的」ということである。取りこぼしなしに、ということである。そして、このフレーズをニール・ヤングが知るためには、テレビでアーサー・ライマン・バンドの演奏を見る以外には可能性がないという結論に達したのである(その結論に達するまでにどれほどの時間を要したか、僕には想像もつかない)。でも、それだからこそ、僕が「もしかして・・・」と書いたときに文字通り電光石火の速さで「ニール・ヤングがこのテレビ放送を見ていた、という証言が得られれば、内田説にも信憑性が・・・。(笑)」というメールを送ってくれたのだと思う。大瀧さんがここで「内田説」と書いたのは、大瀧さんが一度仮説を立てて、その後放棄した膨大な「大瀧説」のひとつに僕が触れたことへの「ごほうび」だったのだと思う。
 もうひとつは、仕事をしながらBGMにデイブ・クラーク・ファイブを流していたら、『ワイルド・ウィークエンド』のイントロ部分に聞き覚えがあった。顔を上げて、もう一度聴いてみたら、大瀧さんが作曲した『うなずきマーチ』の冒頭のビートきよしの音程のいささか甘い独唱部分とそっくりなフレーズだった。二つの音源をYoutube で探してきてツイッターに貼り付けたら、大瀧さんからすぐにメールが来た。「この二つを結びつけられたのは内田さんが地球上で最初の人です。」
 つまり、大瀧さんは『ワイルド・ウィークエンド』を自作の「歌枕」にカウントしていなかったのである。それを知らされて、ちょっと残念ですと書いたら、すぐにまた返事が来た。
「"残念"ではなく、本当に見事な"新解釈"なのですよ!あの曲の元ネタはThe Rivingtonsというグループの『papa-wom-mow-mow』です。これはポップス系のナイアガラーは周知のネタですが、作る際にメロディーが全く同じではマズイので"変奏"したわけですね。それがまさかDC5の"ワイルド・ウイークイエンド"と同じになっているとは!今日の今日まで気がつきませんでした。確かに同じですね!こりゃ大笑い!DC5は何万回と聞いているのでどこかにそれがあったのかもしれません。しかしそれにしても"ビートきよし"が"マイク・スミス"とは!!!これは内田さん以外に提唱できない"超解釈"です。」
 大瀧さんからもらったメールの中でこれほどうれしかったものはない。そのとき、一瞬だけ、大瀧さんと同じ「歌枕」に立って、同じ方向を見ているような気がした。
 ご冥福をお祈りします。
(2014年『東京人』)