『アウトサイダー』についての個人的な思い出とささやかな感想

2021-12-06 lundi

 私が『アウトサイダー』を手に取ったのは、1966年の秋のことである。そのときのことは半世紀近く経った今でもはっきり記憶している。この本の導きによって、私は知的成熟の一つの階段を上ることができたからである。その話をしよう。
 その年、私は都立日比谷高校という進学校の雑誌部という超絶ナマイキ高校生たちのたまり場のようなクラブの1年生部員だった。上級生たちはヘーゲルとかマルクスとかフロイトとかサルトルとか、そういう固有名をまるで隣のクラスの友人たちについて語るかのように親しげに口にしていた。私はそこで言及されている人たちについて、かろうじて人名辞典レベルの知識があるのみで、手に取ったこともなかった。ましてやその一節を適切なタイミングで議論の中で引用するというような知的離れ業は夢のまた夢であった。
 この圧倒的な知的ビハインドをどう克服すればいいのか、15歳の私はその手立てがわからぬまま呆然としていた。なにしろ私の中学時代の愛読書は山田風太郎の忍法帖とフレドリック・ブラウンのショートショートと『足ながおじさん』だったのである。今思えば、中学生としてはなかなかバランスのよい選書だったと思うが、それはクラブの先輩たちに「こんなのを読んできました」とカミングアウトできるようなラインナップではなかった。雲の上を行き交うような高踏的対話を横で立ち聞きしながら、自分のこれまでの読書が知的成熟とまるで無縁なものであったのかと私は深く嘆じたのである。
 とはいえ、当時の私は(信じがたいことに)向上心にあふれる少年であったので、とりあえず上級生たちの会話に出てくる難語のうち最も言及頻度の高い「弁証法」についてだけは、それがどういうものか知ろうと思った。そして、昼休みに3年生のイトウさんが部室で所在なげにしているのを好機に、勇を鼓して質問してみた。
「先輩、『弁証法』とはどういうものなんですか?」
 イトウさんはにこやかに笑って、「うん、それはいい質問だ。ウチダくんがキャッチボールをしているとするね。キミが投げた球がうっかり隣の家に飛び込んで、ガラスを割ってしまった。さあ、どうする?」
 私は意味がわからず、ぼおっと立っていたが、そのうち血の気が引いて、黙って部室を立ち去った。背中にイトウさんの甲高い笑い声が聞こえた。そのとき、二度と先輩たちの前で自分の無知をさらすことはすまいと心を決めた。
 まず柳田謙十郎の『弁証法十講』という文庫本を買ってみた。弁証法の辞書的な定義はわかったが、どう使っていいのかはわからない。やむなく続いて、マルクスの『共産党宣言』とさらにサルトルの『実存主義とは何か』を買った。こちらも意地である。
 だが、七転八倒してそのような本を読み通してみても、彼らが何が言いたいのかはやっぱりよくわからない。
「ヨーロッパに幽霊が出る。共産主義という幽霊である」といきなり言われても困る。ヨーロッパは行ったことがないし、共産主義はソ連や中共(と当時は略称されていた。今ではATOKでも変換されない)の国是と聞いているが、それがどうしてヨーロッパで幽霊になっているのか文脈がわからない。誰を相手にしてこの人たちはこんなに怒っているのか、それがわからない。「ブルーノ・バウアー」とか「ラロック中佐」って誰?
 何冊か本を読めば、先輩たちが何の話をしているのかわかるようになると思っていたが、こと志に反して、しだいに知識が身につくどころか、読むほどに知らない書名、知らない人命のリストが幾何級数的に増えてゆくばかりである。
 これではとても間に合わない。自分が何を知っていて、何をまだ知らないのかについての鳥瞰図を手に入れないと話にならない。
 いかにも受験生の考えそうなことである。「出題範囲」をまず確定してもらいさえすれば、その上で一マスごとに塗りつぶすように暗記してゆくことならできる。哀れな話ではあるが、15歳の私はそのような勉強法しか知らなかった。だから、哲学に向き合うときも、その方法しか思いつかなかった。そしてこう考えた。問題は「現代哲学の出題範囲」というか「現代哲学の学習指導要領」というか、そういう「哲学についてのトピックはだいたいここから出題されます」という大枠を示す情報がどこにもみつからないいことである。さて、そのような情報はどこにゆけば手に入るのか。
 そんなある日、同じ雑誌部1年生のM田君が、一篇のエッセイを書いて編集会議に持参してきた。エッセイは1年生全員に課された宿題で、そのとき、私はジャズ喫茶についてのルポを書いていた(新宿のDIGとか銀座の69とかいう店の様子はどんなふうであるかをジャーナリスティックなタッチでレポートしたのである)。ところが同時に提出されたM田君のレポートには、サルトルとかカミュとかニーチェとかキェルケゴールといった名前がすらすらと引用されており、彼らは「アウトサイダー」という共通傾向によってカテゴライズされるのが妥当ではないかというようなことが書いてあった。
 私たちは驚倒して絶句した。ふだん温顔でおとなしいM田君にこれほどの教養があるとは思いも寄らなかったからである。上級生たちも「哲学がわかる1年生」の突然の出現にいささか気色ばんでいた。
 でも、なんか変だ、と私は思った。どうも、ふだんの彼の話題とエッセイの中身に隔たりがありすぎる。それに「アウトサイダー」という言葉は高校生が普通名詞として使うにはあまりに鮮やか過ぎた。
 私は頭上に疑問符を点じたまま下校した。当時、私の家は目蒲線の下丸子というところにあった。多摩川沿いのぱっとしない工場街である。町には一軒だけ本屋があり、その大衆小説と雑誌しか置いていない間口一間奥行き二間くらいの店に私は駅から家に戻る途中に、なぜか寄り道した。目的もなく書棚の背表紙を目で追っているうちに、『アウトサイダー』という書名が目に飛び込んできた。私は雷撃に打たれた。
 手に取って、ぱらぱらとめくると「アウトサイダーは、事物を見とおすことのできる孤独者なのだ」「盲人の国では片眼の人間が王者である。が、この王権は、何ものをも支配しない」というようなポエティックな断言がちりばめられている。
 これだ、と私は確信した。M田君はこれを読んだのだ。私はその茶色の土偶のようなものが表紙に描かれた『アウトサイダー』を不機嫌な顔の店主からひったくるように買い求め、そのまま払暁に至るまでむさぼるように読んだ。最後まで読み終えるまでに三日とかからなかったと思う。そして、読み終えたときに、私は深い満足感と、一抹の寂しさを感じていた。
 うれしかったのは、この本が私の久しく待望していた「現代哲学の学習指導要領」(それもきわめて出来のよい)だったからである。寂しかったのは、おそらくはあの先輩たちもこれに類した「参考書」をひそかに自分用に持っており、(誰にも教えずに)哲学者たちの名前と引用句をそこから拝借して読んだような顔をしているのではないかという疑念にとらえられたからである(事実、一年後に私自身が新入生たちに先輩風を吹かせるようになったとき、私は「読んでもない本を読んだような顔をする」技術にすっかり習熟していた)。
 これは「教科書」として読むべき本だろう。私はそう思った。ただし、きわめて強い個人的バイアスのかかった教科書である。
 バイアスがかかっていることは知識を得る上では少しも障害にならない。現に、山川出版の『詳説世界史』は唯物史観に貫かれているがゆえに、歴史事実を「価値中立的に」記述した世界史の教科書よりはるかに読みやすく、それゆえ歴史の知識を得る上で効率的であるではないか。

「アウトサイダー」という補助線を引くことで、コリン・ウィルソンはニーチェからドストエフスキーまで、ニジンスキーからブレイクまでを「同じ一つの籠」に入れてみせた。これは偉業という他ないと思う。
 たぶんこの書物を最も熱狂的に歓迎したのは、本国イギリスでもその他の国でも(15歳の私がそうであったように)「哲学の出題範囲」の確定を切望していた「知識人予備軍」の若者たちだったろうと思う。この本が1956年の英国でどのような人たちからどのような評価を受けたのかについて、私は出版史的知識を持たないが、おそらく誰よりもまず若者たちの支持を得たのではないかと思う。
 年代的に言ってそうである。当時のイギリスは「若者文化」の勃興期であった。文学・演劇の領域ではジョン・オズボーンやアラン・シリトーら「怒れる若者たち」が登場してきていた。アメリカからエルヴィスやバディ・ホリー、チャック・ベリーのロックンロールが入ってきたのはこの頃のことだ。16歳のジョン・レノンがポール・マッカートニーに出会うのが『アウトサイダー』の出た翌年だと言えば、その時期のイギリスの若者たちの気分がどんなものだったかわかる人にはわかるだろう。
 彼らは自分たちの新しい価値観に従って、万象をデジタルな境界線で二分割する作法に熱中していた。「ヒップかスクエアか」、「インかアウトか」、「コマーシャルかアートか」「ロックかロックじゃないか」、そういったいささか乱雑だが、爽快感あふれる斬り捌き方が若者文化を席巻しようとしているまさにそのタイミングにコリン・ウィルソンは登場したのである。
 素晴らしいことに、この青年はどんなアカデミックな教育とも無縁な独学者であった。昼間は英図書館で万巻の書物を読み、夜は公園で野宿していたこの「ホームレス哲学者」がなんと凡庸なアカデミシャンをはるかに凌駕する恐るべき博覧強記によって哲学史を一刀両断してみせたのである(「ロック」だ)。私がイギリスでの『アウトサイダー』のリアルタイムでの読者だったら、喜びのあまり手の舞い足の踏むところを知らなかったであろう。
 でも、若者たちだけではない。もう少し年長の知識人たちもコリン・ウィルソンの中に「イギリスの知的未来」についての希望を見たのではないかと思う。
 もしかするとコリン・ウィルソンは「イギリスのアルベール・カミュ」になるのではないか。そういう夢を見た批評家たちがきっといたはずである。というのは、二人の間にはたしかにいくつかの共通点が見出せるからだ。
『アウトサイダー』の出る15年前にカミュは『異邦人』という小説と『シーシュポスの神話』という近現代哲学を一刀両断する「哲学書」を携えてフランスの文壇に華々しく登場した。『シーシュポスの神話』はこんな言葉で始まっていた。
「真に深刻な哲学的問題はただ一つしか存在しない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否か。それは哲学の根本的な問いに答えることである。自余のことは、世界に三つの次元があるかどうかとか、精神は九つのカテゴリーを持つか十二のカテゴリーを持つかといったことはその後の話である。そんなのはたわごとに過ぎない。」
 同時代の哲学者たちが論じている問題のほとんどは「たわごと」である。だから、「それを否認すれば生かしてやるが、それを主張し続ければ殺す」という究極の選択を前にしたときにそれに殉じる覚悟の哲学者は一人もいるまいとカミュは憎々しげに言い放った。この本が出たとき、カミュは弱冠29歳。のちにサルトルに揶揄されるように、彼もまた哲学についてのアカデミックな教育とは無縁の人であった。
 1956年、コリン・ウィルソンが『アウトサイダー』で劇的なデビューを果たしたまさにその年、アルベール・カミュは史上最年少でノーベル文学賞を受賞し、ヨーロッパ中のメディアを賑わしていた。英国の少なからぬ数のジャーナリストや批評家たちが『アウトサイダー』のうちに『シーシュポスの神話』とのスタイル上の近似を認めたがったとしても、誰がそれを責められよう。
 現に、独学者には固有の「書き癖」があり、カミュにもウィルソンにも、それは共通していた。それはただ一つの鍵概念(カミュの場合は「不条理」、コリン・ウィルソンの場合は「アウトサイダー」)を手にして、古今東西の文学者・哲学者の仕事を「一つのものさし」でざっくりと類別してしまうという豪快な手法である。
 多くの人が指摘しているように、『アウトサイダー』はカミュの『異邦人』の英訳タイトルをそのまま借りている。そのことを勘案しても、コリン・ウィルソンがカミュを「ロールモデル」に擬していたということは十分吟味するに値する仮説だろう。二人とも下層階級の出身で、野心と反骨精神にあふれた貧しい若者である。それが大学教授たちの講壇哲学をおのれの拳ひとつで叩き壊そうとしている。
 だが、『シーシュポスの神話』と『アウトサイダー』の相似点はそこまでである。
 まず、カミュの本は残念ながら「現代哲学の学習指導要領」には使えないからである。引用が少なすぎるのである。カミュは自説の傍証として何か他人の言葉が必要なときには、書棚から適当な哲学書を選んで取り出し、ぱらりと開けばそこに自分がまさに読むべきことが書かれているはずだと思っていた(それくらいに自分の直感力を信じていた)。カミュはノートをとりながら哲学書を読むタイプではない。
 でも、コリン・ウィルソンは逆だった。彼は本職のアカデミシャンを知識量で圧倒する道を選んだ。やり方としてはウィルソンの方が手堅い。結果的にコリン・ウィルソンの本は引用の宝庫となった。
「アウトサイダーをめぐる」中心的な命題だけをまとめれば50頁で終わったはずの書物がその十倍の量になったのは、彼が実に多くの書物から大量の引用を行ったからである。それだけではない、コリン・ウィルソンは小説についてはそのあらすじを、人物についてはその伝記を実に細かく記してくれた(複雑な小説のあらすじをさらさらとまとめる技術と印象的なエピソードをつなげて立体感のある略伝を書き上げる技術においてコリン・ウィルソンは紛れもなく例外的才能の持ち主である)。おそらく彼は図書館で読んだ本の重要箇所をこまめに「抜き書き」したノートを作り、それを蔵書に代えていたのだと思う。その膨大な抜き書き作業に投じた時間に対する愛着が彼の書物を「引用の宝庫」にしてしまった。
 おかげで、『アウトサイダー』は「その一節を引用しさえすれば、その本全部を読んだことになるくらいに著者の思想とスタイルのエッセンスの詰め込まれた選び抜かれたフレーズ」で埋め尽くされることになった。そのことが、私たちのような、その本を全部読むだけの暇も根気もないが、何が書いてあるかは知っておきたい気ぜわしい若者たちにとってどれほどの恩恵であったかは贅言を要すまい。
 いずれにせよ、『アウトサイダー』は1950-60年代における最高のブックガイドだったと私は思う。私はコリン・ウィルソンの案内によって、その後ニーチェを読み、キェルケゴールを読み、ドストエフスキーを読むようになった。私の同世代の友人たちのあるものはT・E・ロレンスを読み、あるものはニジンスキーを読み、あるものはブレイクを読むようになった。彼らは自分がなぜそのような本を読み始めたのか、理由を告げなかったが、私は彼らの書棚には必ずや『アウトサイダー』があったろうと確信している。

 それから45年経って、文庫版の解説のために『アウトサイダー』を再読した。そして、この本から後もコリン・ウィルソンの著作を長く追い続けた結果、彼が網羅的に情報を集めることは好きだが、それらを分析し考察を深めるという仕事には同じほどの情熱を示さない書き手であることを知ってしまった私としては、このデビュー作の完成度の高さにむしろ驚かされた。最初にこれほどのものを書いたのか、と。そして、セールス的にも、文学史的評価においても、ついにデビュー作を超えることができなかった多作な書き手のために一掬の涙を注ぐのである。
 残念ながら、『アウトサイダー』は『シーシュポスの神話』のように「現代思想の殿堂」入りを果たすことはできなかった。けれども、1950-60年代の世界の若者たちに、「哲学もロックすることができる」という心躍る思いを与えた。そのことだけでも、一冊の書物が知性の歴史に残した足跡としては十分語り継ぐに値する業績ではないかと私は思う。