今日は10月26日。総選挙の投開票の5日前である。ここで選挙結果について予測した。笑っても泣いても5日後には結果がわかる。外れたら不明を笑って欲しい。
自民党は単独過半数233議席には届かない。公明との連立でようやく過半数。今回は立憲民主党、共産党、国民民主党、れいわ新選組の4党による野党共闘が奏功して、与野党伯仲という議席構成になる。残念ながら政権交代はならず。
自民党には今回の選挙では追い風になる条件が何もない。
本来の目算では、五輪でお祭り気分を盛り上げておいて、総選挙に雪崩れ込むはずだったのだが、果たせなかった。たしかにメディアを利用して、開催中は疑似的な熱狂を作り出しはしたが、終わったところにコロナの第五波の感染爆発が来て、国民はみんな五輪のことなんか忘れしまった。
安倍―菅政権のコロナ対策は「後手後手」で、医療崩壊、自宅放置での死者が続出するに及んで、政権への怒りが高まり、結局菅政権の支持率暴落を招いた。
この低支持率のまま総選挙を迎えては大敗必至なので、選挙用に「看板の付け替え」をすることにした。総裁選に世間の耳目を集め、候補者をテレビに露出させて「単純接触効果」を高めて、「ご祝儀支持率」が高いうちに総選挙に雪崩れ込む...というシナリオそのものは合理的だった。しかし、意外にも岸田新内閣の支持率が菅政権のスタート時点よりも10ポイント以上低い40%台。これは自民党としても大きな読み違いだったと思う。
それだけ過去9年間の安倍-菅政権に対する国民の膨満感が増していたのだ。せっかく看板を付け替えたのだが、有権者の印象は「かわりばえがしない」というものだった。
かわりばえがしないのは、自民党国会議員の中に、「次の世代」が育っていないからである。この9年間、自民党は党執行部の命令に従順に従う「イエスマン」しか候補者に選定してこなかった。支援者たちを自力で組織し、地域での声望を高め、仮に党の公認がなくても当選できるくらいに力のある政治家は、党執行部からすると「めざわり」である。そういう力のある政治家を育てることをこの9年間自民党は拒否してきた。そして、自力で国会議員になるような能力はないが、上位者におもねるのだけは上手な「おべっか使い」たちが選択的に公認され、比例区の上位を与えられてきた。そのツケが回って来て、自民党はいま深刻な「人材不足」に直面している。
それに有権者たちもだいぶ目が肥えてきた。
今回、自民党は総裁選を総選挙直前にぶつけて、候補者たちがテレビに出ずっぱりになって、与党への注目度を高めるという戦術を採った。アンフェアだが、効果的な方法である。しかし、これが期待したほどの効果をもたらさなかった。それは今回の自民党のメディア利用は「メディアジャック」だという見かたがネットユーザーを中心に広まったからである。
「メディアジャック」というのはコンテンツの良否に直接かかわる評言ではない。そうではなくて、メディアの成り立ちそのものについてのコメントである。つまり、人々は報道内容そのものについてではなく、「このようなものを報道することによって、メディアはいったい何をしようとしているのか?」という報道意図について問いを発したのである。問いの次数が一つ上がったわけである。
「見切れる」というテレビ用語がある。カメラを定位置より少し引くとセットが見切れる。スタジオのコンクリート壁やワイヤーが見えて、スタッフが行き来する姿が見える。すると「ああ、これは作り物なのだ」ということがわかる。どういう効果を狙って、どういう仕掛けを組んでいるのかがわかる。
「メディアジャック」という言葉が出てきたということは、総裁選報道については、視聴者たちが「候補者たちはいかなる公約を語っているのか」よりも「彼らはメディアをどう利用しようとしているのか」の方に関心の軸足を移したということを意味している。これは以前にはあまり見ることのなかった態度である。
どんな報道についても「こう報道することによって、このメディアはほんとうは何をしようとしているのか?」という「底意」について考える態度、どんなニュースを見ても「もしかしたら、伝えられるべきなのに伝えられないニュースが他にあるのではないか?」と疑う態度、こういう態度が市民の間にかなり定着してきたような気がする。
それくらいにはメディア・リテラシーが向上したと考えてよいのだろう。少なくとも過去の選挙においては、総選挙と総裁選の時期設定や、メディアジャックによる「単純接触効果」について、与党の仕掛けたマヌーヴァーがここまで「見切れた」例はなかった。やっていることは変わらないのだけれど、有権者たちは簡単にはひっかからなくなったのである。
自民党が匿名アカウントのDappiを使って世論操作をしていた疑惑をテレビも新聞も今のところはほとんど報道していない。しかし、「テレビや新聞が報道しない事件がある」というニュースはネット上ではむしろニュースバリューがある。当然、ネットユーザーは食いつく。
私はDappiの事件は政権にとって致命傷になる可能性があると思う。もちろん自民党もそう考えているからこそ全力を使って報道させないようにしているわけである。だが、そのおかげで、この事件が自民党政権の生き死ににかかわるものだということが「事件が報道されない」という当の事実から推し量ることができる。そういう「メディアの使い方」を日本人は学びつつあると思う。こういう情報の読み方の練度は4年前の選挙のときと比べるとずいぶん向上したように思う。この変化は侮れない。
今度の総選挙の特徴は「争点がない」ということだった。
本来ならコロナ対策が最優先の争点になるはずだったが、8月中旬にピークを迎えた新規感染者数は以後激減して、第五波は収束した。政府は「感染症対策が成功した」と自賛して総括を終えるつもりでいる。「自分たちが提案するような対策をしていたら被害はもっと少なかったはずだ」という野党側の批判は「実現しなかった政策の成果」を論拠にするわけだから、いささか説得力に欠ける。だから、感染症対策の適否は論点にならない。
外交では「戦狼外交」を展開する中国にどう対処するかが最大の問題だが、日本政府は中国政府の政策決定過程に関与する手立てを持っていない。中国を動かせる「切り札」もないし、党中央に信頼できる「パイプ」も持っていない。だから、中国についての議論は「敵基地攻撃能力」といったような「床屋政談」の域を出ない。そんなものは選挙の争点にはならない。
前政権のさまざまな不祥事、森友・加計・桜、五輪、日本学術会議、どれも与党は争点にする気はない。選挙が終わって過半数が取れたら「『すべて決着済みである』という民意を得た」と言って逃げ出すつもりでいる。これらの事案については最後まで一言も触れずに頬かむりで通すつもりであるから、これも争点にならない。
「成長か分配か」という論争も、財政規律とか財源とかいう話になると、どの党の言っていることが信じられるのか、有権者にはそもそもそれを判断できるだけの知識も情報もない。だから、これも何を言ってもすぐには当否の検証ができない以上、言いっぱなしの「ファンタジー」の域を出ることがない。
最終的に自民党の手元に残るのは、「共産党が政権に入ってくると日本が共産化する」というなんとも古めかしい治安維持法時代のような「反共」スローガンだけになる。「みなさん、日本が共産化してもいいんですか?天皇制がなくなり、自衛隊がなくなるんですよ。日米同盟は終わるんですよ。それでもいいんですか?」というタイプの「脅し」が選挙戦末期には声高に口にされるだろう。だが、「反共」宣伝にどれほどの効果があるのか?
21世紀の世界の若者たちには社会主義に対するアレルギーは希薄である。
アメリカでは2016年の民主党の予備選では17歳から29歳の有権者の72パーセントが「民主社会主義者」のバーニー・サンダースに投票した。2018年の調査では、米民主党支持の22歳から37歳の48パーセントが自らを「社会主義者」あるいは「民主社会主義者」と自認しているという結果が示された。
さすがに日本ではここまでの数字は出ないだろうが、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』や白井聡氏の『武器としての「資本論」』が若い世代に熱心に読まれている現状を見ると、「こいつらは"主義者"ですよ」というような古びたラベリングが「スティグマ」として有効だとは思われない。
だから、この争点なき選挙戦では、最終的には与党の最後のよりどころは「野党には政権担当能力がない」ということになるであろう。
ただし、彼らの言う「政権担当能力」というのは「アメリカに愛されている」ということであって、それ以上の意味はない。アメリカから「君たちが政権を担当し続けてくれると、われわれとしてはたいへん好都合だ(なにしろ、日本の国益よりアメリカの国益を優先的に配慮してくれるのだから)」と言われる政治家が国政を担うべきだとなぜか多くの日本人は今も信じている。だが、「属国民としての屈辱的地位を甘受できる能力」を「政権担当能力」と呼んだり、「リアリズム」と呼んだりするのは一種の民族誌的「奇習」である。
果たして日本人がこの「奇習」を縁を切る日は到来するのであろうか。
今度の総選挙がその一歩になってくれることを私は切望している。
(2021-10-26 11:56)