ある集まりで「コロナ後の世界」という演題で1時間ほど講演をした。その文字起こしが届いた。一般の人の目につかない媒体なので、ここに再録する。
はじめに
せっかくですから、今日はなるべくあまり他の人が言わないようなことを言ってみたいと思います。タイトルは「コロナ後の世界」です。この「コロナ後の世界」というタイトルはニュートラルなものに思われますが、実は幾分は論争的なものです。
コロナが流行し始めてから1年半が経ちましたが、世の中には「コロナ後の世界」という枠組みでものごとを語ることを拒絶している人たちがずいぶんたくさんいます。「コロナはただの風邪だ。罹かる人は罹る。死ぬ人は死ぬ。それによって世界は変わるわけではないし変わるべきでもない」と言う人たちです。僕はこういう人たちのことを「コロナ・マッチョの人」と呼んでいます。彼らは「コロナ後の世界」は「コロナ前の世界」と基本的には同じものであるし、同じものでなければならないと考えています。ですから、「コロナ後の世界」というトピックでものを考えることを受け入れません。僕があえて「コロナ後の世界」という演題を掲げるというのは、その人たちとは見通しが違うということを意味しています。このパンデミックによって、世界はいくつかの点で、不可逆的な変化をこうむった。そして、それはこの感染症が終息した後も、もう元には戻らない。僕はそう考えています。
僕は武道家ですので、「驚かされること」が嫌いです。「驚かされない」ためには、どうしたらよいのか。何が起きても全く反応しないで鈍感になっているということはあり得ません。逆です。「驚かされない」ためのコツは、「こまめに驚いておくこと」です。
「驚かされる」というのは受動態です。「驚く」は能動態です。自分から進んで、わずかな変化を感知するように努める。「風の音にぞ驚かれぬる」です。「目にはさやかに見えねども」「人こそ見えね」の段階で、他の人が気付かないような微細な変化の兆候に気づく。そうやってこまめに驚いていると、地殻変動的な変化を見逃すことはありません。だから、いつも驚いていると、驚かされるということがない。
そういう心がけで、去年の夏前から「コロナによって世界はどう変わるのか?」という問題意識を持って出来事を眺めてきてました。わずかな変化も見落とさないようにしようと思ってきました。変化に過敏でしたから、「コロナ後の世界はこう変わる」という僕の予測は全体に変化を過大評価する傾向があると思います。そのことはあらかじめお断りしておきます。しばらく経ってから「内田はいくらなんでも取り越し苦労で騒ぎすぎだったよ。実際にはコロナで大した変化はなかったじゃないか」と総括されるリスクもあります。それでも、僕としては「大きな変化を見落とす」リスクを避けるために、思いつく限りの変化の兆候を列挙しておきたいと思います。
コロナ後の世界では色々な領域で変化が起きます。国際政治、経済、医療、教育、軍事などなど様々なレベルで大きな変化がある。
まずこれからの議論の前提として、一つだけ全体で共有しておきたいことがあります。それは、今後も世界的なパンデミックが間欠的に繰り返すということです。
野生獣の体内にいるウイルスが人間に感染して、変異して、それがパンデミックを引き起こすということは、これからも短い間隔を置いて繰り返されます。新型コロナの感染が終息したら、それで「おしまい」というわけではありません。
人獣共通感染症は21世紀に入って新型コロナで4回目です。SARS、新型インフルエンザ、MERS、そして新型コロナ。5年に1回のペースで、新しいウイルスによる人獣共通感染症が世界的なパンデミックを引き起こしている。SARSでは日本の感染者は出ませんでしたが、東アジアではたくさんの感染者・死者を出しました。
ウイルスを媒介する野生獣は鳥、コウモリ、豚、ラクダとさまざまですが、本来は人間と接触する機会の少ない野生獣と人間が接触して、野生獣のウイルスが人間に感染して体内で変異することでパンデミックがもたらされるというパターンは同じです。そして、人類が自然破壊を続け、野生獣の生息地がどんどん狭くなり、人間と野生獣の接触機会が増える限り、人獣共通感染症はこれから先も繰り返し発生する。それは専門家が警告しています。アフリカ、南米、アジアがこれからも感染症の発生地になると思われます。
人獣共通感染症の原因は人間による自然破壊ですが、もう一つ、自然による文明破壊が起きる場合でも、野生獣と人間の接触機会は増えます。野生の自然と都市文明の「緩衝帯」がやせ細れば、そうなります。日本でこれから懸念されるのは、このタイプの「人獣接触」です。
野生から文明を守る戦い
野生の自然が「人間の領域」を侵略するというケースは、今のところはまだ日本のメディアでは大きく取り上げられていませんが、僕はこれから先、非常にシリアスな問題になるだろうと思っています。急激な人口減を迎えている地方では、これまで「文明のエリア」と「野生のエリア」の間にあって、緩衝帯として機能していた里山が無くなりつつあり、里山に無住の集落が発生してきています。無住の集落は短期間に廃村となり、山に飲み込まれます。
21世紀の終わりの日本の人口は厚労省の中位推計で4850万人です。今の人口が1億2600万ですから、80年間に7000万人以上減る勘定です。年間90万人というペースです。日本政府はこの人口減少に対して、国としての基本方針を示しておりません。シナリオは「資源を地方に分散する」か「都市に集中するか」の二つしかありません。
本来なら、政府はこの二つのシナリオを国民の前に提示して、それぞれのメリット、デメリットを列挙した上で、合意形成をはかるべきなのですが、それをしていない。国策についての国民的議論を回避したまま、「都市一極集中」というシナリオを無言で実践している。これは民主国家においてあってはならないことだと思います。国民の同意を取り付けないままに、「地方切り捨て」を黙って続けて、ある時点でもう地方再生が不可能というポイント・オブ・ノーリターンを過ぎてから、「やはり都市集中しかない」となし崩しに持って行く。政官財はそういう計画でいます。しかし、黙って政策を実行しているので、地方が切り捨てられた場合に「何が起こるか?」ということは議論のテーブルに上がってこない。その話はしない約束になっている。そして、「人口の少ないところに暮している国民は、都市に暮している国民と同等の行政サービスを受ける資格がない」という主張だけが、一部の政治家やメディアを通じて、拡散されています。すでに、JRは赤字路線を次々と廃線にしています。その時のロジックは、「人口の少ないところに住んでいる人たちは、そこに住むことを自己決定しているわけだから、自己責任で不便に耐えなければならない」というものです。自分の好きで過疎地に住んでいる人間が「便利な暮らし」を求めて、税金の支出を求めるのはフェアではない、と。
実際に、そのようなロジックに基づいて、公共交通機関は廃止されています。行政機関も統廃合されている。そして、過疎地では、医療機関もない、学校もない、警察も消防もないという状態になりつつある。そういう不便なところに住むことを自己決定している人間は、その不便に耐えるべきだという意見はもう既に日本国民のマジョリティを占めていると思います。
しかし、この言い分に一度頷いてしまうと、後もどりが効きません。この後、人々が里山を捨てて、地方の中核都市に移動したとしても、遠からずそこも「過疎の都市」になります。そうしたら、同じロジックで、「不便なところに自分の意思で住んでいる人間は、その不便を甘受すべきで、税金を投じて都市と同じサービスを享受する権利はない」と切り捨てられる。そんなことが二、三回続けば、日本国内に文明的な生活が出来る圏域は太平洋ベルト地帯の都市部だけになります。
現在の日本政府はそういうシナリオを描いていると思います。それを国民に開示して、議論したり、同意を求めたりということをしないのは、「地方を捨てます」と宣言した途端に地方の選挙区で自民党が惨敗して、政権から転落することが確実だからです。だから、人口急減という危機的局面を迎えながら、それについては「何も言わない」という任務放棄が公然と行われている。
しかし、すでに過疎地での「野生の侵略」はかなりのスピードで進行しています。僕の友人の話ですが、先祖のお墓が西日本の過疎地にあります。お墓の管理はいとこがしてくれている。祖父母のお墓参りに行こうと思って、そのいとこに連絡したところ、「もう無理」という返事があったそうです。お墓のある集落が無人になり、「山に呑まれて」しまったというのです。集落へ行く道も藪に覆われて、通れない。獣も出るし、蛇もいるので、怖くて、かつて祖父母のいた集落にはもう入ることができないと言われたそうです。これに類したことは、急激な人口減を迎えている日本中の土地で今同時多発的に起きていると思います。
日本はいま世界で最も早く人口減超フェーズを迎えています。ですから、「野生の侵略」によって文明圏が狭められているという経験は、今のところ日本だけで見られる現象だと思います。
先日、千葉でもシカやイノシシの獣害が増えているというニュースを先日読みました。つい先日は、芦屋の城山というところでもハイカーがクマと遭遇しました。芦屋ではこれまでもイノシシとはよく出会いましたが、さすがに住宅地でクマが出たという話ははじめて聞きました。
今のところはイノシシもシカも、農作物への被害にとどまっていて人的被害はごく稀にしか報告されていませんが、これからは無人化した里山で野生獣が繁殖した場合に、人的被害のリスクが高まります。ふつうであれば出会うことがない野生獣と人間が接触する機会が増せば、そこから新しい人獣共通感染症が発生するリスクもあります。
日本に続いて、次は中国が急激な人口減と高齢化を迎えます。その場合、中国の人たちがどういうシナリオを採用するかは分かりません。経済成長を続けようとするならば、人口を都市部に集中させて、過疎地を捨てるという選択肢を採る可能性は高いと思います。北京、上海、広州など沿海部に人間が集まり、貧しい内陸部は放棄されて、無人化・無住地化する。そういう政策を日本とは比較にならないスケールで実施する可能性があります。その場合政策的に野生に戻された内陸部の生態系がどうなるのか、僕にはうまく想像がつきません。
東アジアで忘れてはならないリスクファクターは破綻国家になったミャンマーです。ミャンマーは広い熱帯雨林を抱えていますが、そこは野生獣の宝庫です。これまでもミャンマーは野生獣の密猟と密輸がアンダーグラウンドのビジネスでしたが、統治機構が機能不全に陥ってしまったために、野生獣の密輸がこれまで以上の規模で行われているそうです。
ダスティン・ホフマンが主演した『アウトブレイク』という映画は、密輸された一匹のサルがウイルスのスプレッダーとなり、サルの唾液の飛沫を浴びた密輸ビジネスの船員をはじめ、サルに接触した人たちが次々感染して、ついに都市封鎖に至るという話でした。サル1匹で都市封鎖ですから、密輸ビジネスが野放しになった場合に、何が起こるか予測がつきません。
有史以来、日本列島の住民たちは列島の自然を破壊しながら生息地を拡大してきました。ですから、自然破壊と自然保護についてはそれなりのノウハウを持っていますが、野生の自然に侵略されて、じりじりと後退しながら文明を守るというタイプの戦いはかつてしたことがありません。でも、どうやら今後はそうした戦いをしなければならなそうです。
こんな後退戦を経験するのは日本が世界で初めてです。ですから、先行する成功事例がありません。日本人が自分の頭で考えて、自分で対策を手作りしなければならない。でも、そういう「パイオニアの緊張感」を今の政官財メディアからは全く感じることができません。この点については、日本のエスタブリッシュメントは総じて想像力の行使を怠っています。ですから、いずれ日本各地が「山に呑み込まれる」という事態に遭遇して、驚かされることになると思います。
グローバル経済から国民経済へ
コロナ後の世界でも、パンデミックが間歇的に起きるということを前提にした上で、何が起きるかについて予測をしてみたいと思います。第一は皆さんがすでに見通している通り、グローバル経済の停滞です。
グローバル資本主義の時代では、ヒト・商品・資本・情報が国民国家の国境線とかかわりなく、クロスボーダーに超高速で行き来するということが自明のこととされていました。しかし、コロナを経験したことによって、国民国家の国境線は思いの外ハードなものであることが再確認されました。
去年の1月に最初に医療崩壊を経験したイタリアでは、マスクとか防護服とか人工呼吸器といった基礎的な感染症対策の医療資源の備蓄がありませんでした。イタリアはすぐにフランスとドイツに緊急輸出を要請しましたが、両国ともこれを拒否しました。自国民の生命を優先的に配慮するので、他国には送れないということでした。そのせいで、イタリアは医療崩壊に陥り、多くの国民が死にました。EUでは国境線は有名無実であるとされていましたが、実際には国民国家の国境線は堅牢な「疫学上の壁」として排他的に機能しました。
「必要なものは、必要な時に、必要な量だけ、マーケットから調達できる」ということがグローバル資本主義の前提条件でしたが、この条件が覆されました。必要なものが、必要な時にマーケットでは調達できないことがある。考えれば当たり前のことですが、それが明らかになった。国民国家が、自国民の生命と健康を守ろうとするなら、必要なものは自国内で調達できる仕組みを整備すべきであって、「要る時になったら、金を出して買えばいい」というわけには行かない。そのことを世界は学習したのです。
でも、国民国家の排他性の強化という傾向は実はコロナの前から始まっていました。トランプは移民を入れないために、メキシコとの間に壁を作ろうとしました。イギリスはEUから抜けて、「英国ファースト」のブレグジットを選択しました。国民国家というのは17世紀のウェストファリア条約によって人為的に作られた政治的擬制ですから、歴史的条件が変われば、変質し、必然性を失えば消えてゆく。そういうものだと思われていました。しかし、われわれは「国民国家は意外にしぶとい」ということを学んだ。
資本主義の本家であるアメリカは、必要なものはそのつど市場で調達し、在庫は持たないという経営が評価される風土でしたから、感染症の医療資源についても、ほとんど在庫がありませんでした。医療資源は別に国産である必要はない。一番製造コストの安い途上国にアウトソースすればいい。経営者たちはそういう考えでした。ですから、感染初期にマスクや防護服といった最もベーシックでシンプルな医療品(つまり、製造コストの安い途上国にアウトソースできる商品)の戦略的備蓄がほとんどありませんでした。その結果、多数の感染者・死者を出した。別に高度医療が足りなかったのではなく、最低の製造コストで製造すればよいと思っていたものが手元になくて、たくさんの人が死んだのです。
感染症対策のためにはば医療資源に「スラック(余力、遊び)」が必要です。でも、感染症のための医療資源を大量に在庫として抱えておくと、感染症が流行しなければ、それはすべて「不良在庫」として扱われます。感染症はいつ来るか分からない。もしかしたら、この新型コロナがだってある日いきなり終息して、それから何年も「次のパンデミック」が来ないかも知れない。その間は、感染症のための病棟も医療器具も薬剤も、感染症専門の医師や看護師も「不良在庫」扱いされることになります。専門家に伺うと、感染症という診療科は大学病院でも「不要不急の診療科」という扱いを受けるんだそうです。病院経営者が「病床稼働率100パーセント」を目標に掲げ、「不良在庫一掃」を指示するような病院では感染症のための戦略的備蓄の余地がありません。
事実、日本ではこれまで保健所を減らしたり、病床数を減らしたり、ということをずっとやってきました。医療費をなんとか削減しなければならないということが国家的課題として掲げられていたからです。だから、医療機関を統廃合して、「スラックのない医療」をめざしてきた。だから、パンデミックに対応できずに医療崩壊を起こした。
アメリカは「スラックの戦略的必要性」ということをすぐに学習して、すでにトランプ在任中から、主要な医薬品と医療資源に関しては外国にアウトソースせず、国産に切り替えるという方向を示しました。もちろん製造コストははるかに高くなるわけですけれども、「金より命が大事」だという基本的なことは学習した。これから先は、米中の経済的な「デカップリング」もあって、サプライチェーンを他国に依存しないという動きが出てくると思います。でも、エネルギー、食料、医療などを国産に切り替えるというのはグローバル資本主義から逆行する方向です。
グローバル資本主義では、企業はどこかの国民国家に安定的に帰属するということはありません。最も賃金が低く、製造コストが安いところに工場を建て、公害規制の緩い国で廃棄物を棄て、政治が腐敗していて役人が簡単に買収できる国で法律の網の目をくぐり、租税回避地に本社を移して、税金を払わない、というのがグローバル企業の常識です。
だから、グローバル企業は21世紀に入ってから国民国家の国境線が強化されるというようなことは想像だにしていなかったと思います。でも、パンデミックのせいで今起きているのは、いかなる企業も、国民国家の国家内部的存在であって、その国に対して帰属感を抱き、同胞たる国民のために雇用を創出し、国庫に多額の税金を納める「べき」だという国民経済への回帰の心理です。まさか、21世紀になって「国民経済への回帰」起きるとは思ってもいませんでしたが、もしかすると、これは不可逆的なプロセスであるかも知れません。
気象変動で分かる通り、グローバル資本主義はいかなる国民国家に対しても帰属意識も忠誠心も持たないばかりか、地球に対しても愛着がなく、人類に対して同胞意識を抱かない存在です。国連が始めたSDGsもそうですけれど、この十年ほどは「グローバル資本主義を抑制して、国民国家単位で、自国民の利益を優先するように行動する」という動きを各国政府がするようになりました。グローバル企業が大儲けすれば、「トリクルダウン」があって、国民は恩沢に浴するのだから、政府は企業が経済活動しやすいように支援していればよくて、国民への公的支援は要らないというタイプの、バケツの底の抜けたような「新自由主義」政策はもう命脈尽きたということです。
ノマドからセダンテールへ
もう一つパンデミックが終わらせたと思われるのが「遊牧的生活」です。
フランス語に「ノマド(nomade)」と「セダンテール(sédentaire)」という単語があります。「ノマド」は遊牧民、「セダンテール」は定住民のことです。グローバル資本主義におけるビジネスプレイヤーはノマドであることが基本でした。企業もそうですし、ビジネスマンも、株主も、みんなノマドです。ビジネスチャンスを求めて遊牧的に動く。定住しないし、いかなる「ホームランド」にも帰属しないし、いかなる国民国家に対しても忠誠心を抱かない。それがデフォルトでした。
日本でも、この30年、エリートであることの条件は「日本列島内に居着かない」ということでした。海外で学位を取り、海外に拠点を持ち、複数の外国語を操り、海外のビジネスパートナーたちとコラボレーションして、グローバルなネットワークを足場に活動する。日本には家もないし、日本に帰属感もないし、日本文化に愛着もない、という人たちが日本はいかにあるべきかについての政策決定権を握っていた。まことに奇妙な話です。日本に別段の愛着もない人たち、日本の未来に責任を感じない人たちが、日本はどうあるべきかを決定してきたのです。そういう人が「一番えらい」ということになっていたからです。
グローバル企業の採用条件は「辞令が出たら明日にでも海外に赴任して、そのまま一生日本に戻らなくても平気な人」ということでした。「日本以外のところで暮らせる人間しか採用しない」と豪語した経営者さえいました。「日本国内にいなくても平気な人、日本語で話せなくても平気な人、日本の食文化や伝統文化にアクセスできなくても平気な人」が日本国内のドメスティックな格付けにおいて一番高い評価を受けた。ですから、ある時点からエリートたちは自分たちが「いかに日本が嫌いか」、「日本はいかにダメか」を広言するようになりました。そうすると喝采を浴びた。これはいくらなんでも倒錯していると思います。
でも、パンデミックで、「ノマド的な生き方」をする人を最も高く評価するというこれまでの人事考課にはブレーキがかかるだろうと思います。
それよりも、政策の優先課題は、日本列島から出られない人たちをどうやって食わせるか、この人たちの雇用をどう確保するか。どうやってこの人たちに健康で文化的な生活を保障するか、ということになります。これは池田内閣の時に大蔵官僚だった下村治の言葉です。日本列島から出られない、日本語しか話せない、日本食しか食べられない、日本の宗教文化や生活文化の中にいないと「生きた心地がしない」という定住民が何千万といます。まずこの人たちの生活を保障する。完全雇用を実現する。それが国民経済という考え方です。
これまでは定住民たちは二級国民という扱いを受けてきました。日本にとどまって、遊牧的な生活を回避したのは自己決定された生き方である。そのせいで社会的な評価が下がっているのであるから、その低評価は自己責任である。だから定住民は公的支援の対象にならないというのが新自由主義イデオロギーにおける支配的な言説でした。でも、それはそろそろ賞味期限が切れて、説得力を失ってきた。パンデミックはある地域に住むすべての住民が等しく良質の医療を受けられる体制を整備しない限り、収束しませんし、国境線を越えて活発に移動する「ノマド」は、疫学的には「スプレッダー」というネガティヴな存在とみなされるようになったからです。
教育システムの再国産化
教育システムもコロナ後の世界では変化をこうむる可能性があると僕は考えています。この30年近く、日本の学校教育は「グローバル化」をめざして再編されてきました。しかし、日本のいまの学術的発信力の低下は目を覆わんばかりです。さまざまな指標が日本の学校教育が失敗していることを示していますが、それは「日本の学校はレベルが低くても別に構わない」という考え方をする人が、実際には教育の制度設計に強い発言力を持っているからではないかと僕は考えています。学校教育を通じて、「世界に通じる日本人」を育成しようとしているという大義名分を掲げながら、「世界に通じる日本人」の育成を海外の教育機関にアウトソースしようとしているように僕には見えるのです。
実際に良質な学校教育を受けたかったら、アメリカやヨーロッパに行けばいいということを平然と言う人がいます。日本の大学を世界レベルのものにするために手間をかけたり、予算をつけたりする必要はない。そんなところに無駄なリソースを使うよりは、すでに世界的な人材を輩出しているレベルの高い学校に送り込めば済む。ほんとうに良質な教育を受けたかったら、ハーバードに行け、ケンブリッジに行け、北京大学に行けばいい。そういうところに行くだけの資金力や学力の足りない人間は日本の大学で我慢しろというようなことを平然と言い放つ人がいます。
現に、今の日本のエスタブリッシュメントでは、子どもたちを中等教育の段階から海外の学校に送り込むことがステータスの証になっています。「教育のアウトソーシング」です。 でも、必要な教育は自前で整備する必要はない、金がある者は金で教育を買えばいいという発想をすれば、日本の学校教育は空洞化して当然です。
1年間の海外留学を保障するという大学はいま受験生には非常に人気があります。志願者も大学もともにこれを喜んでいる。大学にしてみたら25%の教育コストをカットできるわけですからありがたい話です。教職員の人件費も、光熱費も、トイレットペーパーの消費量まで4分の1減らせる。授業料は満額もらっておいて、留学生受け入れ先の海外の学校に払った後は「中抜き」ができる。教育を何もしないでお金が入って来る。でも、これは大学の存在理由を掘り崩しかねない制度だという危機感が感じられません。
そのうち、誰かが留学期間を1年間ではなく2年間にしたらどうだと言い出すでしょう。そうすれば教育コストは50%カットできる。教職員も半分に減らせる。校舎校地も半分で済む。そのうち「いっそ4年間海外留学させたらどうか」と誰かが言い出す。そうしたらもうキャンパスも要らないし、教職員も要らない。サーバーが一個あれば済む。もう大学そのものが要らなくなる。教育をアウトソースするということはそういうことなんです。学生の「ニーズ」にお応えして、教育コストをカットすることを優先していると、最終的な結論は「じゃあ、大学なんか要らないじゃないか」ということになる。今の日本で起きているのは、そういうことです。
近代学制は明治時代に制度設計されましたけれど、それは「日本人教員が、日本語で、世界水準の教育を行える環境を創り上げる」ことを目指していました。最初は外国人の「お雇い教員」が英語やフランス語やドイツ語で授業を行いましたが、わずか一世代後には日本人教員が日本語で同程度の授業をできる体制を作り出した。「教育の国産化」を果たしたのです。もし、明治初期に「自前で世界レベルの高等教育機関を作るのはコストがかかるから、中等教育までは国内でやるにしても、高等教育は欧米に留学させればいい。アウトソースできるものはアウトソースするのが合理的だ」と言い立てる人たちが政策決定をしていたら、日本はそのあとも先進国の仲間入りすることはできていなかったでしょう。
明治人は世界レベルの高等教育を日本国内で行える環境を整えるためにたいへんな努力をしました。当時の人たちが今の日本の高等教育を見たら愕然とすると思います。国内の大学で育てるのは「普通のサラリーマン」だけでいい。いずれ日本の指導層を形成するエリートは海外の一流の高等教育機関で育ててもらえばいいということを考えている人たちが日本の指導層を形成しているんですから。
パンデミックのせいで、この1年半の間、留学生たちが行き来できなくなりました。そして、「教育のアウトソーシング」というのはいつでも好きな時にできるわけではないという当たり前のことを日本人は学習しました。金さえ出せば、どこにでも好きなところに移動できるという前提そのものがいかに危ういものであるかが分かった。もし「日本には高等教育機関は要らない。要る人は海外に出て行けばいい」という考えに基づいて教育制度が設計されていたら、国境線が「疫学的な壁」になってしまった時に、日本人は高等教育へのアクセス機会を失うことになります。それが長期的に日本の国力をどれほど損なうことになるのか。そのリスクをまったく勘定に入れてこないで教育を論じてきたことを彼らはもう少し恥じてもいいと思います。
医療も教育も、エネルギーも食料も、国が存続するために不可欠のものは、一定程度の戦略的備蓄は必要です。「アウトソースした方がコストが安い」という人たちは「アウトソースできない時がある」ということを考えていないのです。国境線が「疫学的な壁」になってクロスボーダーな行き来が一定期間止まってしまった場合でも、自前で何とかできるように備えるのが「リスクヘッジ」ということです。そのことのたいせつさをパンデミックは教えてくれたと僕は思います。
軍事の変容
あともう一つ、これは僕が知る限り、指摘している人があまりいないトピックですが、パンデミックと軍事の関係です。
去年の3月にアメリカの空母セオドア・ルーズベルト号の艦内でコロナ患者が発生したために、感染者を下船させるために、作戦行動を中断して港に戻ったことがありました。その前にはダイヤモンド・プリンセス号での集団感染がありました。
その時に、船舶というものが非常に感染症に弱いということが分かった。たくさんの人が狭い空間に閉じ込められていて、斉一的な行動をとらされるわけですから当然です。同時に軍隊が感染症に対して脆弱な組織だということも明らかになった。軍隊もたくさんの人を狭い空間に閉じ込めて、斉一的な行動をとらせます。同じ時間に起きて、同じ時間に寝て、同じ場所で、同じものを食べる。感染症防止には最悪の条件です。
感染拡大を防ぐ効果的な予防方法は「ニッチをずらす」ということです。同一環境内にいる生物が、生息地をずらし、食性をずらし、行動パターンをずらすことで、リスクを分散する。軍隊はそれができません。軍隊は、特定の狭いニッチの中に大量の人々をまとめることで成立する組織です。
だから、パンデミックが始まってから後、世界では大規模な軍事行動は行われていません。「起きてもよかったのだが、起きなかったこと」は気がつきにくいものですが、そうなんです。この1年半に起きた大規模な戦闘と言えば、アゼルバイジャンとアルメニアの間の領土紛争と、アフガニスタンのタリバンと政府軍の戦闘だけです。アフガニスタンでは米軍も政府軍もほとんど戦闘をしないまま撤兵しました。それは通常兵器による長期的な戦闘ができにくくなっているからだと僕は思います。
ふつうは紛争地近くの海域にまで空母を送り、そこから爆撃機やヘリコプターを出動させる、潜水艦からミサイルを発射するという作戦行動をとるわけですけれども、艦船は感染症に弱いことが分かった。特に潜水艦は、狭い空間に兵員を詰め込んで、同じ空気を吸うわけですから、感染症にきわめて脆弱です。だから、パンデミックによって軍事的なフリーハンドは大幅な制約を受けることになりました。
それは同時に軍のAI化を推進させる理由ともなりました。もちろん、パンデミック以前から軍備のAI化は進行していましたが、パンデミックのせいで、ドローンやAIが制御するロボットに戦争を任せるという方向への切り替えが加速することになりました。機械はウイルスに感染しませんから。
AI軍拡はアメリカと中国が突出しています。アメリカの外交専門誌を読む限りでは、アメリカの方が軍拡競争に若干出遅れているようです。アメリカの軍人たちは「いま中国と戦争をしたら勝てない」ということを言っていますが、これはあまりそのまま真に受けるわけにはゆきません。軍人は「もっと国防予算を増やさないと、このままではたいへんなことになる」と言い立てるのが仕事ですから、彼らの危機論はたしょう割り引いて聴かなければならない。ただ、軍関係者はほぼ一様に「中国の方が軍のAI化ではアドバンテージがある」ということは認めています。決定的な差ではないでしょうけれど、いまのところは中国に分がある。
アメリカは技術的には進んでいますが、AI化の阻害要素があります。軍産複合体と彼らに操作されている議員たちです。軍需産業は巨大な在庫を抱えています。空母や戦闘機やミサイルの大量在庫があります。これが全部「はける」まで、次世代テクノロジーへの切り替えはできない。国防上の理由ではなく、企業の利益のためです。
今回アフガニスタンで、米軍は大量の兵器を惜しげもなく捨ててゆきましたが、あれはある意味で「不良在庫の一掃」という意味があったのだと思います。あの兵器が貴重な資源だったら、全部回収したはずです。兵器の無駄遣いを求めるのは軍需産業としては当然のことです。兵器をたいせつに使って長持ちさせられては利益が出ませんから。
安倍政権の時に、日本は一機100億円のF35戦闘機を大量に購入しましたけれど、軍事のAI化に予算を集中したいアメリカには、もう空母や戦闘機は要らないのです。あれは日本に「在庫処理」を押し付けたのだと僕は思っています。
中国のアドバンテージは、軍需産業の都合を配慮する必要がないということです。軍拡に市場の理論が入り込む余地がない。党中央が「軍備をAI化しろ」と命令したら、軍も、兵器産業も、学者も、技術者も、一斉にAI化に集中する。
ただ、中国も実は軍事上のシリアスな問題を抱えています。
中国のリスクファクター
一つは人口動態です。中国の国防費の総額は年々増えています。しかし、そのすべてが兵器の開発や充実に用いられているわけではありません。世界のどこの国でも国防費の相当部分は人件費です。中国の国防費に占める人件費の割合は予測ですが、おそらく30%から40%だと思われます。現役の軍人の給料であれば、それは軍事費としてカウントできますが、人件費には退役軍人の年金も含まれています。これは国防上には積極的な意味はありません。そして、この年金支出が国防費に占める割合が年々高まっている。
中国の人口は2027年にピークアウトして、それから急激な高齢化と人口減局面を迎えて、以後一年に500万人のペースで人口が減ります。特に生産年齢人口の減少が顕著で、2040年までに30%の減が見込まれています。一方高齢者は激増して、2040年には65歳以上が3億5000万人以上になります。それに、「一人っ子政策」が1979年から2015年まで採用されていたせいで、この世代には男性が女性よりずっと多い。ですから、男性たち、それも低学歴・低収入の男性が生涯未婚で老後を迎えます。彼らは親が死んでしまうと、兄弟姉妹も配偶者も子どももいない天涯孤独の身になります。中国では経済リスクを抱えた個人の救済のためには親族ネットワークがありましたが、親族がいない人にはこのセーフティネットがありません。中国はこの何千万もの高齢者を支える社会保障システムをいまは持っていません。これから構築しなければならない。
ですから、中国としてはもう大型固定基地とか、巨大空母とか、巨大な軍隊を持つより、早くAI軍拡へ舵を切りたいのだと思います。初期経費はかかりますが、長期的な管理コストはAIの方が圧倒的に安いからです。ドローンやロボットには給料を払う必要もないし、年金受給も要求しませんから。ですから、中国の人口動態はAI化推進へのインセンティブになると思います。
中国にはもう一つの懸念材料があります。それは治安維持コストの高騰です。すでにだいぶ前から治安維持コストは国防費を越えています。2019年中国は治安部隊、警察、監視システムなど国内治安に2100億ドルを投じていますが、これは10年前の5倍、国防予算を越えました。つまり、中国政府は予算配分上は「海外からの軍事的侵略リスク」よりも「国内における内乱リスク」の方を高く見積もっているということです。政府は膨大な予算を投じて国民を監視しています。顔認証、虹彩認証、声紋認証など、中国の国民監視テクノロジーは世界一です。この監視テクノロジーは中国の「特産品」としてシンガポールやアフリカの独裁国家へと輸出されています。
香港や新疆ウイグルの統治問題もありますから、これから先、中国の国家予算に占める国民監視コストは増大することはあっても、減少することはないと思います。これも先行きは中国政府のフリーハンドをかなり制約する要因になるでしょう。
うちの門人に台湾の方がいます。日本企業の社員で、いま上海に出向しています。先日彼が一時帰国した時に挨拶に来てくれたので、最近の上海の様子を伺いました。ショックだったのは、彼が会社で中国人の同僚と会話しているときに、彼が台湾出身だと知りながら、「台湾への軍事侵攻」の話題が日常会話で出てきたという話でした。「もうすぐ台湾は中国に併合されるだろう」というようなことを中国の一般市民が日常会話で平然と口にしている。
中国政府が台湾侵攻の計画をほんとうに練っているのかどうかは分かりませんが、国民に対して、「いつでも台湾を軍事侵攻する用意がある」というアナウンスをしていて、いざそういうことが起きた時にも批判的な世論が出てこないように世論操作を始めていることはたしかです。
中国の台湾への軍事侵攻は果たしてあるのでしょうか。『フォーリン・アフェアーズ・レポート』の6月号にショッキングな論文が出ていました。それはもし中国軍が台湾に侵攻しても、アメリカ軍は出動すべきではないと主張したものです。その場合には、気の毒だが台湾を見捨てよう。台湾を守るために出動すれば米中の全面戦争になってしまう。それは回避すべきだというのです。
台湾への軍事侵攻を座視していた場合の最大のリスクは、韓国と日本がアメリカに対する信頼を失って、同盟関係に傷がつくことだけれど、これについては心配する必要がない。アメリカが台湾を見捨てた場合、日本と韓国はアメリカに対して不信感を抱くよりはむしろ中国に対する恐怖心をつのらせ、一層アメリカとの同盟関係を強固なものにしようとするだろうという予測でした。
中国国内では台湾を侵攻するかもしれないという世論形成がなされ、アメリカ国内では台湾がもし中国に攻められたら、見捨てようということを公然と言う人が出てきている。そういうことを日本のメディアはほとんど報道しませんし、冷静な分析記事を読むこともありません。
でも、いまパンデミックをきっかけに世界の軍事状況が変化しつつあることは間違いありません。AI化が進行すれば、これから大型固定基地は不要になります。広いエリアに大量の武器弾薬を備蓄して、何万人も兵隊たちを住まわせておくというタイプの大型固定基地は時代遅れのものになる。
そうなった時に米軍は日本国内の米軍基地を返還するでしょうか。僕はかりに米政府が在外基地の撤収を検討し始めても、日本の場合は米軍が強硬に反対するだろうと思います。大型固定基地と、そこに付属している諸設備を米軍は「既得権」であり、「私有財産」だと思っています。ですから、軍略上の必要性がなくなったあとも、手離さないだろうと思います。
アメリカはキューバのグァンタナモ基地を返還していません。100年以上前の米西戦争の時に租借して、いまも年額4,000$で借り上げています。当然、キューバ政府は以前から返還を要求し続けていますが、米軍は返す気がありません。
グァンタナモ基地にはアメリカ国内法もキューバの法律も適用されません。ですから、米軍はその基地内では米軍のレギュレーションだけに従って、好きなことができる。一種の治外法権空間です。キューバは返還をつよく要求しているのにアメリカは返還しない。日本は返還要求さえしていないのですから、返還されるわけがない。地政学的環境や軍備のありようがこの先大きく変わった場合でも、おそらく日本国内の米軍基地は未来永劫「米軍の資産」として残されるでしょう。
野蛮なトライバリズムから健全なナショナリズムへ
パンデミックでグローバル資本主義が停滞して、国民国家の再強化が始まりました。グローバル経済から国民経済へのシフトが始まる。これまでアウトソースしていたもののうち、集団の存続に必須のものは国産化されるようになる。SDGsや気象変動に対するトランスナショナルな行動は、グローバル資本主義の暴走を止めて、政治単位としての国民国家の力を強めようとする動きですから、これも平仄が合っています。「グローバルからナショナルへ」という流れはこのあとしばらく続くでしょう。
問題は国民国家の再強化がどのような形のナショナリズムを生み出すかということです。パンデミックで露呈したのは、どの国も、結局一番大事なのは自国民を守ることだったということです。
菅政権が短命に終わったのは、「国民国家の最重要の任務は自国民の健康と生命を守ることだ」という世界の常識を過少評価したことです。安倍―菅政権は、「すべての国民の利害を代表する」のではなく、身内や縁故者や支持者の利益を優先的に配慮しました。反対者を含めて全国民の利益を代表する気がありませんでした。国民を分断して、一部の身内の利益を配慮する方が、国民を統合して、全体の利益を配慮するよりも政権維持には有利だということを学習した。
でも、その成功体験がかえって感染症対策の足をひっぱっることになりました。感染症は国民の政治的立場にもその他の属性にもかかわらず、国内の全住民に等しく良質な医療機会を提供することなしには抑制できません。でも、「その政治的立場にかかわらず、全国民の利益を配慮する」ということを政権は過去9年間本気で取り組んだことがなかった。だから、やり方がわからなかった。それが感染症対策の失敗の原因だと思います。
国境線の外側に関しては国境線の壁を守って、かなり排他的ではあるけれども、国内については、その属性にかかわりなく、全住民の権利を等しく配慮するというタイプの為政者がこれから世界では「あるべき政治家」となることでしょう。少なくともそれが「疫学的に望ましい統治者」です。
そのような趨勢が「健全なナショナリズム」の形成に結びつけばよいのですが、排外主義イデオロギーに転化するリスクが高い。ですから、ナショナリズムが過激化することなく、国民国家の同胞たち、「有縁の人たち」をまず配慮するけれども、過度に排外主義的にならないような「穏やかなナショナリズム」がこれからめざすべきイデオロギー的な着地点だと思います。
しかし、いまの日本で「ナショナリズム」と呼ばれているものは、その語の本来の意味での「ナショナリズム」ではありません。国民を敵味方に分断して、味方の利害だけを配慮するというのは「ナショナリズム(nationalism)」ではありません。それは「トライバリズム(traibalism)」、部族主義です。
ナショナリズムというのは、その属性にかかわらず、性別や信教や出自や政治的立場にかかわらず、「日本人であればみな同胞」として温かく包摂することです。国民を政治的立場で色分けして、反対者には権利を認めず、資源の分配から遠ざけるというような政治家は「ナショナリスト」とは呼ばれません。それはただの「トライバリスト」です。彼は「自分の部族」を代表しているのであって、「国民」を代表しているわけではない。
このトライバリストたちによる政治がこの10年間日本をこれだけ衰微させてきたのです。トライバリストは国民を分断することによって長期政権を保つことには成功しましたけれど、敵や反対者の活動を封殺し、公的セクターから排除したために、国力は著しく低下しました。当然のことです。国民の一部しか国家的な事業に参加する資格を認められないのなら、国力は衰微します。多くの場合、イノベーションは学術的なものも、ビジネスモデルでも、メインストリームの外側にいる人たちが起こすものです。でも、トライバリストたちは自分たちの「部族」に属している人間にしか公的支援を行わないできた。日本学術会議の会員任命拒否が典型的ですけれども、政府は「政権に反対する学者には公的支援を行わない」という姿勢を明らかにしました。「部族」外のイノベーターには機会を与えないということを10年間続ければ、経済力も、文化的発信力も、国際社会におけるプレゼンスも劇的に低下して当然です。
かつて帝国主義国家が植民地を支配するときに活用した「分断統治(divide and rule)」によってたしかに政権基盤は安定しましたけれど、国力は失われた。植民地の場合はそれでもよかったのです。植民地は宗主国にとっての収奪の対象であって、むさぼるだけむさぼって、収奪する資源が尽きたら棄てればいいからです。でも、独立国が自国の統治に「植民地主義」を適用するということはあり得ないことです。その「あり得ないこと」を過去10年間安倍ー菅政権は行ってきた。この致命的な失策をどこかで補正しなければなりません。どこかで、トライバリズムを棄てて「ふつうのナショナリズム」に立ち戻る必要があります。その道筋はまだ見えていませんが、それ以外に日本再生のチャンスはありません。
(2021-10-15 09:21)