今年度の寺子屋ゼミの開講のメッセージを書くために参考に昔書いたものをHDから掘り起こしてみたら、4年前2017年のものがみつかりました。読んで一驚。まずそれを採録してみますね。
「2016年は激動の1年でした。パリの同時多発テロが2015年の12月。それ以後、イギリスのEU離脱、トルコのクーデタ未遂、パナマ文書の漏洩、シリア内戦の泥沼化、トランプの勝利と・・・数え切れないほどの事件がありました。
日本でも政治、経済、メディア、学術どの分野でも制度疲労とエリートの質的劣化が進行しています。森友学園事件は長期政権下でどういうかたちで『権益分配システム』が完成したのかを白日の下にさらしました。制度への負荷はもう受忍限界を超えていますから、どこかでもちこたえられなくなって『総崩れ』になる。でも、いつ、どこのセクションで、どのような破局的事態が生じるのかはわからない。日本だけでなく、世界どこも先の見えない時代になってきました。2017年についても何が起こるかも、あちこちで訊かれるんですけど、ぜんぜん予測が立ちません。わかるのは『思いがけないときに、思いがけないところで、予想もしていなかったこと起きて、世界のありようが一変する』ということだけです。それに備えて心の準備だけはしておく。僕にできるのはそのくらいです。」
あれから4年経ったわけですけれども、まさに世界は「予想もしていなかったこと」を前に立ち尽くしているわけです。この文章はさらにこう続きます。
「寺子屋ゼミはそういう『心の準備』のための場としたいと思います。
みなさんに僕からお願いしたいのは、できるだけ正確に現実を見ること、できるだけ『誰でもそういうふうに見る』のとは違う視点から現実を見ること、その動きの中に何らかの傾向とか文脈のようなものが(その断片でも、その「尻尾」でも)発見されたら、それを手がかりに『これから起きるかもしれないこと』を予測すること。こまめに驚いておくと、どかんと驚かされることを回避できる。これは僕が身銭を切って手に入れた経験則の一つです。
寺子屋ゼミが『こまめに驚く』ための機会になったらいいなと思います。」
ゼミの趣旨は4年前も今も変わりません。
実際に、人獣共通感染症について言えば、2002年のSARS、2009年の新型インフルエンザ、2012年のMERSと数年おきにアウトブレイクが起きました。ですから、さらに毒性の強い、感染力の高いウイルスが出現することは2017年時点でも高い確率で予測されていたはずです。
でも、僕の知る限り、いまから4年前にそのことについて警鐘を乱打して、感染症の備えて十分な医療資源の備蓄やワクチン開発のための予算配分を訴えていた人はほとんどいませんでした。
例外的にビル・ゲイツが「今後世界が直面する出来事の中で、最も多くの死者を出す恐れのあるものは戦争ではなく、感染症のパンデミックである」と2015年に警告していました。ゲイツはワクチン開発や疫病追跡システムの開発に私費を投じ、世界の指導者に対し感染症への国家的防衛体制を構築するよう求めてきました。でも、この時点でビル・ゲイツの警告をまじめに受け止めていた政治指導者はほとんどいなかったと思います。僕はビル・ゲイツは「えらい」と思います。彼は「これから起こるかもしれない最悪の事態」をただしく想定していたからです。こういう知性の使い方に僕は敬意を表したいと思います。
2021年度の寺子屋ゼミでも引き続き同じ目標を掲げておきたいと思います。
「できるだけ正確に現実を見ること。できるだけ普通の人たちとは違う視点から現実を見ること。その動きの中に何らかの傾向とか文脈のようなものを発見すること、それを手がかりに『これから起きるかもしれないこと』を予測すること」これです。
(1) データの収集
(2) その分析
(3) パターンの発見
(4) 仮説の提示
この手順は自然科学の場合と変わりません。
(1)が基礎にある作業であることは当然ですけれども、本を読んだり、ネットをスクロールして「これだけ調べました。終わり」というのではゼミになりません。それでは高校生の自由研究です。寺子屋ゼミは大学院の社会人ゼミの延長ですから、やはり大学院レベルの発表をめざしてほしいと思います。「仮説の提示」だと学会発表レベルですから、そこまでは要求しません。でも、できたら「パターンの発見」までは手を伸ばして欲しいと思います。
数学者のポアンカレによると、数学的な洞察とは「長いあいだ知られてはいたが、たがいに無関係であると考えられていた他の事実のあいだに、思ってもみなかった共通点をわれわれに示してくれる」働きのことだそうです。そして、そうやって結びつけられた二つの事実のつながりが遠ければ遠いほどその洞察のもたらす知的果実は豊かなものになる。
一見するとまったく無関係に生起しているように見えるさまざまな事象の背後に繰り返し現れるパターンがあります。それを発見するのが「洞察」です。
パターンというのは必ずしも同じレベルで起きるものではありません。「フラクタル」という現象があります。全体と部分が自己相似的に再帰するものです。フラクタルな図形は自然界でも社会現象でも検出されます(海岸線、雪の結晶、植生、株価の動向などなど)。全体のかたちがその内部において局所的に再帰する、このフラクタル的なパターンは同レベルで再帰するパターンに比べると検出がむずかしい。でも、そういう仕方でのパターンの再帰もあり得るということは頭の片隅に置いておいてください。
ゼミの「現実的」なメリットは、そこで提示された仮説が適切であれば、未来に起きることについて、ある程度の予測が立つことです。これから起きることについての「心の準備」ができる。
そのために必要なのは2017年度のオリエンテーションにも書いている通り、こまめに驚くことです。こまめに驚いていると驚かされることがない。ロラン・バルトは「批評的な知性の本質とは驚く能力のことである」と書いています。ほんとうにその通りだと思います。
僕たちが驚くのは二つの場合があります。「これまでなかったものが出現した場合」と「これまであったものが消失した場合」です。この二つの様態のうちでは後者の方が検出がむずかしい。それは僕たちは現実の現実性を過大評価する傾向があるからです。何かが目の前にあると、それは存在する必然性があったのだと信じ込む。でも、僕たちを取り囲む現実のうちには「存在する必然性があったので現実化した重い現実」と「もののはずみで現実化しただけの軽い現実」があります。
世の「リアリスト」たちはこの二つの現実の軽重を考量するという知的習慣を持ちません。むしろ彼らはしばしば「軽い現実」を「重い現実」と取り違える。だから、わずかな「ボタンの掛け違え」で出現した偶発的な出来事をまるで「天の配剤」であるかのように思いなして、その由来を尋ねたり、分析したりして無駄な時間を過ごします。「リアリスト」のピットフォールです。
「リアリスト」というのは現実の現実性を過大評価する人たちのことですから、彼らは「これまでになかったものが出現した場合」には大騒ぎしますけれど、「これまであったものが消失した場合」には何の関心も寄せません。でも、システムに生じる巨大な変化はしばしば「それまであった何かがなくなった」ことによってもたらされるのです。そして、そのタイプの変化を「リアリスト」たちは制度的に見落とす。「リアリスト」たちの現状分析や未来予測がたいていの場合当てにならないのはそのせいです。
僕たちはその語の正しい意味で「リアリスト」にならなければならないと僕は思います。
「重い現実」と「軽い現実」を識別すること、「あらたに出現したもの」と同じように「いつの間にか消えたもの」にも注視を怠らないこと。
それを2021年度の寺子屋ゼミの課題としたいと思います。
一年間どうぞよろしくお願い致します。
(2021-04-28 10:10)