「予言の書」としての『1984』

2021-04-27 mardi

『月刊日本』(2021年5月号)に『1984』をめぐるロングインタビューが掲載されたので、転載しておく。

― 内田さんは新訳されたジョージ・オーウェル著『1984』(田内志文訳、角川文庫)の解説を書いています。今や古典的な文学作品ですが、コロナ以後に再注目されています。

内田 『1984』は1948年に発表されたディストピア小説です。ご存じのようにスターリンのソ連をモデルにしています。「ビッグ・ブラザー」という独裁者が君臨する管理国家・監視社会の中で、体制に疑問を抱いた主人公の経験する危機と転落が描かれています。
 最初は半世紀くらい前、高校生の時に読みました。その時は、正直言って、あまりリアリティを感じなかった。もうスターリン批判の後でしたし、世界中で若者たちが叛乱していた時代ですから、いまさら先進国が独裁になることなんてあるはずないと思っていたから です。でも、いま読み返してみたら、小説の世界と現実の日本の境目がわからなくなり、昔読んだときよりもむしろ怖かった。
『1984』的社会はいま世界中に生まれています。米中が先行して、国民監視テクノロジーは急激な進化を遂げており、コロナ禍を機に、国家による国民統制は強化されて、どんどん『1984』に近づいている。
 たとえば『1984』では、各家庭に「テレスクリーン」という巨大テレビが設置されていて、監視すると同時に、プロパガンダやビッグ・ブラザーの映像を四六時中流しています。高校生のときは「こんなテレビがあっても鬱陶しいだけで、効果なんかあるはずない」と思っていましたけれど、そうでもない。社会心理学では、同一人物がテレビ画面に繰り返し登場してくるだけで「単純接触効果」によって好感度が増すということが知られています。だから、政治家たちは実際に政策を成功させることよりも、テレビに繰り返し顔を出して、「政策が成功しているふりをする」方が支持率を上げるためには有効だということに気がついた。現に東京や大阪の首長はそれで高い支持率を達成しています。
 近代市民社会論の前提は「すべての個人は、自己利益の最大化を追求するために合理的に行動する」というものでした。そうであれば、公共に一定の権力を与え、公共財の再分配を委ねる方が、全員がルールを無視して、他人を蹴落としてまでひたすら私利私欲を追求するより、自己利益が安定的に確保される...と推論するはずである。だから、利己的動機に基づけば、私権を部分的に制約されること、私財の一部を公共に供託することを人々は受け入れる、というのがロックやホッブズの立てた論方でした。
 ところが、今の世界を見ていると、どうやら人間は自己利益を減殺させるような政策を行う政治家が相手でも、ひっきりなしにテレビで見たり、声を聞かされたりしているだけで、その人物に親近感を感じて、その政策を支持してしまうらしい。人間というのは、僕たちが思っているよりはるかに愚鈍な存在だった。

―『1984』では、そのまま日本の状況を描いたようなシーンが多く、思わず笑ってしまうほどです。

内田 「単純接触効果」というのは言い換えると「今ここで自分に触れているものに支配される」ということです。それがどういう経緯で今ここにいることになったのか、これから自分にいかなる影響を及ぼすのか、過去と未来にわたる時間の流れの中で考えることを放棄するということです。
 事実、『1984』の世界には過去も未来もなく、現在しかありません。『1984』では「真理省」という役所が権力者のそのつどの都合に合わせて過去の記録を改ざんしています。目先の都合に合わせて歴史を書き換える、いわば「歴史修正を本務とする省庁」です。でも、現在の都合でそのつど書き換えられる過去は「過去」ではありません。いわば「過去形で語られた現在」です。ですから、歴史修正主義者たちというのは「現在」に居着いた状態でしかものを考えられない人たちだということです。「今ここ」という定点に釘付けにされていて、過去を記憶することも、未来を予測することもできない人間たち、それが『1984』的社会の住人ですけれども、それはそのまま現代日本人のことのように思われます。
『1984』には、「二重思考」(ダブルシンキング)という概念が登場します。これは「嘘と知って、意図的に嘘をつくこと、都合の悪くなったあらゆる記憶を忘却すること、それが再び必要となったときには一時的に忘却の彼方から呼び戻すこと」と説明されています。思考を二重底にして、自己都合で「忘却」したり、「想起」したりできる能力のことです。
 森友・加計・桜、東北新社の接待問題などでは、官僚たちが一斉に記憶を喪失し、動かぬ証拠を突き付けられると突然記憶を取り戻すということを繰り返してみせました。「考えていること」と「言っていること」、「前に言ったこと」と「今言っていること」が明らかに矛盾しているのだけれど、それが気にならないらしい。これはまさに「二重思考」です。
「二重思考」では前後に矛盾が生じるので、論理が破綻するはずですけれど、彼らを見ていると、自分の言い分が論理破綻しているという自覚がないように見えます。それも当然で、矛盾というのは「前に言ったことを記憶している」ことが前提ですが、「前に言ったこと」を忘れてしまう人間には矛盾という概念そのものがない。
 公人の口から出た言葉は取り消しができないことを古言で「綸言汗の如し」と言います。一度出た汗は身体に戻せないという意味なのですが、どうも今の政治家や官僚の口から出た言葉は出たそばから汗になって蒸発してしまうらしい。

― 『1984』では独裁政権が人々の精神を支配するために「戦争は平和なり」というスローガンを掲げたり、真実を改ざんする役所を「真理省」と名付けたりして「言語の破壊」に取り組みます。作中では、既存の言語を破壊して「ニュースピーク」という新しい言語まで開発されます。

内田 安倍・菅政権も「ニュースピーク」の運用能力は『1984』といい勝負だと思います。戦争ができるようにする法律のことを「平和安全法制」と呼び、オスプレイの墜落を「不時着」と言い換え、「募っているが、募集はしていない」とか「政治責任の定義はない」とか...安倍・菅二代の政権下で、政治家の語る言語はひたすら軽く、薄く、無意味になった。でも、メディアはこの「ニュースピーク」をそのままに無批判に垂れ流している。国民も政治家の「ニュースピーク」をどんどん真似始めている。「個別の事案についてはお答えを差し控える」とか「仮定の質問には答えられない」とかいう定型句を子どもまでが真似するようになったら、どうするんです。

― コロナ以後、政府の側からも国民の側からも国家統制を強化すべきだという主張が出されていますが、日本が『1984』のような管理国家になる可能性はありますか。

内田 日本が『1984』的な管理国家になる可能性は低いと思います。政府があまりに無能だからです。これまで日本政府はIT関連ではほぼすべての制度設計に失敗しています。マイナンバーで国民の個人情報を管理しようとしましたが、コロナ接触確認アプリ「COCOA」程度のシンプルな仕組みさえ運用できない政府が、そんな複雑な仕組みを運用できるはずがない。
 仮に国民監視システムを作ろうとしても、どうせパソナか電通に丸投げして、そこが中抜きしてどこかに再委託して、そこがまた中抜きして...ということを繰り返して、最終的にはどこかの小さな下請け会社で時給1500円のバイトの兄ちゃんが納期に追われて徹夜続きで作ったバグだらけの国民監視システムを納品する...ということになると思います。
 それより日本が監視社会になるとしたら、昔と同じように「隣組」からの密告に頼るシステムを作ると思います。隣人の私生活を覗き見して、「お上」に訴え出るという市民の相互監視が一番管理コストが安く上がりますし、「横並び」が大好きな日本人向きですから。

― そもそも、なぜ世界的に『1984』化が進んでいるのでしょうか。

内田 国によって事情は異なると思います。『1984』のモデルはスターリンのソ連ですが、スターリンは彼が倒したロシア皇帝の統治スタイルを模倣していたし、プーチンはそのスターリンの統治を模倣している。中国やトルコもそうです。かつて「帝国」だった国々では、表向きの政体が変わっても、独裁的な指導者が強権をふるうという基本のスタイルに変化はない。習近平、プーチン、エルドアンはそれぞれの国の「ビッグブラザー」です。
 欧米の民主主義国家には「ビッグ・ブラザー」はいませんが、それでも『1984』化は進行している。それは「ポストモダンの頽廃」(ミチコ・カクタニ)という欧米独自の文脈から出てきた現象だと僕は思っています。
 西欧は、世界全体の構造を説明できる「大きな物語」を求めてきました。一神教信仰からニュートン力学まで、どのような理説も「ランダムに見える現象の背後には数理的な秩序が存在する」という直観に導かれてきました。それを「摂理」と呼ぼうが、「絶対精神」と呼ぼうが、「歴史を貫く鉄の法則性」と呼ぼうが、どれも起源から未来まで全歴史を「聖なる天蓋」(ピーター・バーガー)が覆い尽くしており、われわれはその天蓋の下から外には出られないのだけれど、その保護の下で安らいでもいられる。それに逆らうにせよ、その恩沢に浴するにせよ、この宇宙を秩序づけている「巨大なもの」、それを精神分析は「父」と呼びました。
 でも、ポストモダニストたちは、この「大きな物語」を否定した。「直線的な物語としての歴史」をわらうべき民族誌的偏見として、歴史のゴミ箱に放り込んだのです。われわれの眼に客観的現実として見えている世界は実は主観的バイアスで歪めれた世界像に過ぎないというポストモダンの知見は非常に刺激的なものでした。ポストモダニストは「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張を僕たちに要求しました。
 その要求そのものは正当なものだったと思います。でも、人間はあまり長期にわたって知的緊張に耐えることはできない。どこかで忍耐力の限界が来る。ポストモダンの緊張に耐えきれなくなった人たちはやがて雪崩打つように「反知性主義者」の群れをかたちづくることになりました。彼らはこんなふうに考えたのです。
(1)人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている(これは正しい)。
(2)人間の知覚から独立して存在する客観的実在などは存在しない(まあ、そうとも言える)。
(3)だから、われわれの抱く世界観はすべて主観的妄想であり、その点で等価である(それは言い過ぎ)。
(4)ゆえに、万人は「客観的実在」のことなど気にかけず、自分のお気に入りの妄想のうちに安らぐ権利がある(これは間違い)。 
「ディープ・ステート」とかQアノンとかいう陰謀論が行き交ういまの「ポスト・トゥルースの世界」とは(4)のテーゼが支配的になった世界です。
 でも、この反知性主義的な世界観はいきなり出現したわけではありません。それなりの歴史的必然性があった。「大きな物語」を否定してしまった以上、「小さな物語」への分裂が帰結することは、実際には十分予想できたはずです。
 80年代~90年代に大学の授業でデリダとかリオタールとか読まされて「なんだかむずかしくてよくわからん」と思っていた連中が、自分たちでもわかるようにポストモダンの哲学をダウングレードしてみせたのが「ポスト・トゥルース」だったというわけです。

― それでは、日本の『1984』化はどこから出てきたのですか。

内田 日本にもディストピアはたしかに実現してしまったわけですけれども、中国やロシアのような「帝国」の伝統から由来するものでもないし、欧米のように「ポストモダン」から由来するものでもありません。身も蓋もない言い方をすると、日本の『1984』化は、統治者も国民も、日本人全体が集団的に「幼児化」「愚鈍化」したことの帰結だと思います。「ビッグブラザー」が作為をもって制度設計したのではなく、日本では『1984』的社会がいわば自然発生した。
 幼児は「単純接触」する者に親しみを感じ、「現在」という狭い時間意識の中に閉じ込められている。過去のことは覚えていないし、未来のことは考えられない。これは現代日本人そのものです。問題は、なぜ日本人はここまで「幼児化」「愚鈍化」したのかです。原因はやはり戦後の日米関係にあると思います。

― 内田さんは村上春樹の『1Q84』についても父権制の問題を指摘した上で、「『父』の存在により、私は今あるような人間になった」と説明する限り、「父」からは自立できないと述べていますが、これは戦後日本にも当てはまると思います。日本人が「幼児化」「愚鈍化」したのは、「父」としてのアメリカに従属し続けているからではないか。

内田 日本の場合はもうちょっと複雑じゃないかと思います。日本の権力構造は邪馬台国のヒメヒコ制から、摂関政治、武家政治を経て戦後の天皇制立憲デモクラシーまで、霊的権威としての天皇と世俗の政治権力の「二焦点」構造です。そして、この二つの権力構造において、天皇は女性ジェンダー化している。その天皇の方がより根源的な権力者です。だから、日本人は権力関係を「父子関係」としてよりむしろ「母子関係」としてとらえる。
 安倍政権がその典型ですけれども、彼は「親疎の距離」で人を査定する政治家でしたね。第一次安倍政権は「お友達内閣」と呼ばれましたし、第二次政権では森友・加計・桜に代表される縁故政治が目に余った。つまり、安倍晋三にとって権力関係とは自分に「甘え」てくる人を「甘やかす」、自分にすり寄ってこない人間を「冷遇する」という以上のものではなかった。
 彼の極右イデオロギーなるものも、すべてを説明できる「父の物語」というよりは、人との親疎を計るための「踏み絵」のようなものだったと思います。ふつうの人なら二の足を踏むような危険な物語を「私は信じます」と自己申告してすり寄ってくる人間を「トモダチ」認定する。安倍も菅も「ビッグ・ブラザー」ではなく、機能的には「おばさん」なんだと思います。
 この母子癒着モデルの権力関係は日米関係にも当てはまると思います。白井聡さんは『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)で、日本国家の本質(国体)は「統治者が国民を愛してくれている」という信憑に支えられていると指摘しています。戦前は「天皇陛下はその赤子たる臣民を愛してくれている」と信じ、戦後は「アメリカ大統領はその属国民たる日本人を愛してくれている」と信じてきた。日本国民のアイデンティティーを支えているのは「母に愛されている」という安心感なんです。
 だから、日本がアメリカに求めているものは「父」ではないと思います。もしアメリカを「父」に見立てるなら、子である日本は、「父」を真似て、「父」が参加しているゲームで自分も一人前のプレイヤーになろうと努力するはずです。でも、日本はそれより日米関係における「親疎の距離」を配慮している。「父」の意図を理解することよりも「母」に愛されることを優先した。
 だから、日米首脳会談では、日本の国益がどれくらい守られたか、日本の意見をどれくらい通したよりも、首相と大統領がゴルフをしたとか、飯を食ったとか、ファーストネームで呼び合ったとかいう情報ばかりがニュースで流されます。日本人にとっては、アメリカに日本の国家意思を伝えることよりも、アメリカに愛されることの方が大事なんです。
 前に朴槿恵韓国大統領が訪米したときに、韓国大統領と日本の首相ではホワイトハウスの「接待」がどう違ったかということがうるさく報道されました。「アメリカは日本と韓国のどちらの方を愛しているのか」ということが気になるんです。日本は韓国と「ワシントンの長女」の座をめぐって姉妹喧嘩をしているつもりでいる。だから、米韓関係がうまくゆかないと聞くと、日本人は嬉々として報道する。
 尖閣問題でも、アメリカが「父」ならば、アメリカの世界戦略をまず理解した上で、日本にとって最適の国防戦略を構想するはずですけれども、実際に尖閣について日本人が気にかけているのは、「アメリカは日本を守ってくれるのか、それとも見捨てるか」だけです。それは連邦議会が決めることですから、日本人がじたばたしても仕方がない。それより、さまざまなシナリオについて日本がなしうることを非情緒的にシミュレートするしかない。でも、たぶん「アメリカが軍を出さない」となったら日本人はマスヒステリーを起こしますよ。そして、「安保条約即時撤廃」とか「米軍基地即時撤去」とか言い出す。「愛されていない」と知ったら、「憎さが百倍」になる。
「アメリカに愛される」ことが最優先の国家戦略であるという前提に立てば、現在の政治状況はよくわかります。菅政権はコロナ対策に失敗して、日本は第四波に突入しつつあります。しかし、それでも菅政権の支持率は40%前後で下げ止まっている。それは国民が「菅首相はアメリカに愛されている」と信じているからです。アメリカはただ「日本の国益よりアメリカの国益を優先的に配慮してくれる政治家」が日本のトップにいると好都合だから「菅でいい」と思っているだけです。それは彼らの側のリアルでクールな計算に基づくわけですけれども、日本人はそれを「アメリカに愛されている」というふうに勘違いしている。
 野党の支持率は全く上がりませんが、それは野党が「アメリカに愛されること」にあまり熱心でないとみなされているからです。「もっとリアリストになれ」という批判がよく野党に対して向けられますけれど、あれは「そんなことを言っているとアメリカに愛してもらえないぞ」という意味なんです。

― 「幼児化」「愚鈍化」の原因は、母子癒着にあるということですか。

内田 そうだと思います。「父」は子どもに「成熟」を要求しますが、「母」は要求しない。「父」の抑圧に服従すべきか反抗すべきかの葛藤の中で子どもは成熟しますけれど、「母」が子どもに求めるのは甘えと懐きだけです。
 日本の場合は、戦前は天皇に、今はアメリカ大統領という「母」に対する甘えと懐きという情緒的なつながりが国民的アイデンティティーを基礎づけている。それが日本人の市民的成熟を妨げていると僕は思います。
 日本の対米従属の特殊性もここにあります。ふつう強国に従属するというのは、繰り返し収奪されて、屈辱感を味わわされる経験のことです。現に、日本は日米地位協定という不平等条約をおしつけられ、国富を収奪され、属国扱いに甘んじている。でも、政治家や官僚たちを見ていると、そのことに屈辱感を感じているようには見えません。それは彼らがアメリカに「服従・隷属」しているのではなく、「甘え・懐いて」いると信じているからでしょう。
 軍事的征服者を「自分を愛してくれる母」だと錯認したというのは、やはり狂気の沙汰としか言いようがない。でも、それはそれだけ敗戦の経験が決定的だったということでしょう。あまりに負け過ぎた。負け過ぎたせいで、日本人自身の手で国を再建することができなかった。自分の手では再建することができず、アメリカが書いたシナリオ通りにするしかなかった。
幼児性とは無力性・受動性のことです。幼児は自分の力では何もできない無力で受動的な存在です。その受動的経験の最たるものは、自分の意志に基づかずに、この世に無理やり「生み落とされた」という原事実です。戦後日本はまさに完全に無力な状態でアメリカから無理やり「生み落とされる」というトラウマ的経験から始まったわけです。だから、「生みの親」であるアメリカにひたすら甘え、アメリカに愛されていると確認することでしか、国家としてのアイデンティティーを維持できなくなってしまった。

― 主権とは、自国の運命を自国で決める自己決定権のことですが、主権を剥奪された状態から生み落とされた戦後日本が、主権国家たりえないのは当然かもしれません。

内田 戦前生まれの人たちはかつて大日本帝国という主権国家の国民だった経験がありました。だから、「主権国家を再建しなければ」という義務感が残ってい。でも、僕たち戦後世代は生まれてから一度も主権者であったことがない。だから自分が主権者でないということについて痛覚がない。

― 心理学的に「子」は「父殺し」によって自立しますが......。

内田 そうなんです。「父殺し」はあっても、「母殺し」ってないんですよね。だから、アメリカを「母」と見立てている限り、日本の対米従属には終わりが来ないと思います。
 そのような痛苦な事実を含めて、現実を直視することが必要だと思います。日本は世界に類を見ないしかたで『1984』的なディストピアに向かっていますが、それを駆動しているのは「甘え」に基づく権力構造だという現実を認識する。でも、これって土井健郎が『甘えの構造』で言っていたことそのままですね。結局またそこに戻るんだ。
 そう考えると、丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)、川島武宜『日本人の法意識』(岩波新書)、岸田秀『ものぐさ精神分析』(中公文庫)、山本七平『「空気」の研究』(文春文庫)といった古典的な日本人論が指摘していたことはほとんど当たっていたということですね。当たっていたのだけれど、それらを読んでも、日本人はおのれの本質的な幼さ、弱さを克服することはできなかった、と。なんだか希望のない結論になってしまいましたね。
(3月29日 聞き手・構成 杉原悠人)