『若者よマルクスを読もう2』中国語版への序文

2021-03-15 lundi

 中国のみなさん、こんにちは。内田樹です。
『若者よマルクスを読もう』第二巻の中国語訳が出ることになりました。翻訳出版の労をとってくださった方々にまずお礼を申し上げます。ありがとうございました。
 このシリーズはマルクスの代表的なテクストを『共産党宣言』から『資本論』までを選んで、経済学者の石川康宏先生と僕があれこれと解説するもので、全4巻で完結する予定です(いま、僕と石川さんは第四巻のために『資本論』をめぐって書簡をやりとりしているところです)。
 この本がどういう企図で書かれることになったのかについては、第一巻にかなり詳しく書いてあります。たいせつなことだけ、もう一度確認しておきたいと思います。
 この本は日本の高校生を想定読者に書かれました。ぜひ日本の高校生たちにマルクスを読んで欲しかったからです。
 半世紀ほど前までは、マルクスを読むことは日本の「知的であろうとする若者」にとっては一種の「義務」のようなものでした。その知的習慣がいつのまにか失われました。その伝統の消滅を石川先生と僕はとても残念に思っていました。ですから、ぜひもう一度若者たちにマルクスを手に取って欲しいと思ってこのシリーズを書き始めました。
 ただ、僕たちがいくら頑張っても、もう一度日本の若者たちが「知的義務」としてマルクスを読む時代が戻るかどうか、それについてあまり楽観的にはなれません。というのは、過去に日本の若者たちが基礎的教養としてマルクスを読んだのには、それなりの歴史的条件があったからです。
 
 マルクスを読まなければならないという歴史的な要請があり、それに応えて青年たちはマルクスを読んだ。でも、ある時期から、そのような歴史的条件が失われた。だから、読まなくなった。別に日本の若者たちが知的に怠惰になったとか、読解力を失ったということではないと思います。時代が変わったのです。でも、時代が変わったというのは、いったい何がどう変わったということなのか? 中国語版序文として、それについての僕なりの仮説を書いてみたいと思います。

 明治時代から昭和時代まで、約1世紀にわたって、マルクスを読むことは日本の青年たちにとって一種の知的な通過儀礼であり、一種の義務でした。マルクスを読んでいないと「一人前の大人」としては認知されなかった。
 ただし、これはいささか変わった「義務」でした。それは「マルクスを読んで理解する」義務であって、「マルクス主義者になる義務」ではなかったからです。
 その意味で、日本におけるマルクス受容は聖書の受容と似ていたように思えます。
 明治維新以後の日本の近代化の過程で、知的青年たちにとってまっさきに「読む義務」が課された図書は新約聖書でした。それまでは四書五経が若き読書人たちの必読文献だったわけですから、これはまことに大きな転換でした。それは日本人にとって自己造形のロールモデルが中国から西洋にシフトしたということを意味していました。
 でも、明治の青年たちにとって、聖書を読むことは、キリスト教徒になるための訓練ではありませんでした。どんな宗教でも、聖典を読むだけで人は信者になることはできません。信仰を持つとは儀礼を守ることです。祈りを捧げ、服飾や食事の儀礼を守り、聖務日課を実修することです。でも、明治時代の知的青年に求められたのは、そういうことではありませんでした。求められたのは、あくまで聖書を読み、その教えの内容を理解することでした。信仰を持つことではなく、何より学習することでした西洋人たちがいったいどのような死生観や倫理規範でおのれを律しているのか、それを知ることが、後進国の知識人青年にとっては喫緊の課題だったのです。
 ですから、聖書とほぼ同時に必読文献として推奨されたのが、J.S.ミルの『自由論』やハーバード・スペンサーの社会進化論であったのも当然なのです。これらはまったく宗教性のない書物でした。けれども、聖書と同じように読書が義務づけられました。それは、欧米の政治指導者たちがどのような統治理念に基づいて判断し行動しているのか、彼らがアジア諸国に対してこれからどうふるまうつもりなのかを知る必要があったからです。国際社会に「新参者」として登場する明治の日本人にとって、それは必須の情報でした。
 そして、その次にマルクスを読むことが推奨される時代が到来しました。「支配する者たち」が何を考えて、何をしようとしているのかを学習したら、次は「支配されている民衆たち」が何を考え、何をしようとしているのかを知る必要があります。論理的には当然です。もし、欧米の民衆の間に、現行の統治システムの安定を脅かして、いずれ大きなうねりとなりそうな理論と運動が存在するとしたら、それがどのようなものであるかも知っておく必要があります。それは間接的には日本の運命にもかかわる可能性があるからです。だとすれば、それも学習しておかなければならない。
 明治の日本人はおおむねそういう順番で欧米列強の「国のかたち」を知ろうとした。僕はそんなふうに推論します。
 まずキリスト教を学習した。それが欧米諸国の判断と行動のもっとも根底にあるものだと思われたからです。宗教によって構築された世界観。これがそれぞれの文化圏における「定数」に当たります。長い歴史的時間をかけてゆっくりと熟成したものですから容易には変化することがありません。それが諸国民の心性の深層を形成します。
 そして、その歴史的・文化的「定数」という軌道の上を、今度はさまざまな「変数」が遷移してゆきます。政治・経済のシステムや科学技術や学問や芸術がその「変数」に当たります。歴史が教えるのは、これらの「変数」のうちで、その「国のかたち」に決定的な変化をもたらすことができるものは、「定数」の軌道上を走るものに限られるということです。ある国について、そのつどの外交や財政や国防についての政策上の推移だけを追いかけても、その国の本質的な傾向はわかりません。僕たちの眼に見えている政策群は、複数のファクターの関与でくるくる変わる「変数」に過ぎません。ある国のふるまいを記述し、理解し、とりわけ予測するためには、どうしてもそれらの国々の「定数」を見出す必要があります。
 19世紀末に国際社会に登場した後進国日本が欧米列強による植民地化を逃れて、生き延びるためには、できるだけ早く欧米諸国の「定数」を発見することが急務でした。明治日本の「近代化」と呼ばれるものは、その努力のあとを示していたと僕は思います。

 マルクス主義は欧米諸国の未来を予測するための必須の情報として日本人に受容されました。欧米諸国でこれから先にもし劇的な政治経済システムの変動があるとすれば、それを領導する思想はマルクス主義以外にはないだろうという見通しとともにマルクス主義は受容されたのです。
 このような歴史的条件を踏まえるならば、どうして、日本におけるマルクス受容が「実践」よりもむしろ「学習」に軸足を置いて進められたのか、その理由が理解できるはずです。欧米と違うのは、研究の深度や広がりの違いではありません。マルクス読解が実践のためだったのか、学習のためだったのか、その違いです。
 欧米では、労働者であれ、知識人であれ、マルクスを「知的義務」として読むという人はまず存在しないと思います。労働者がマルクスを手に取るとき、それは何よりもまず自分自身の現実を記述し、説明してくれるものとして、です。そこに自分がなすべき行動の指針を求めて読む。そういうすぐれて実践的な読み方をする。そこに「自分のこと」が書いてあると思う労働者がマルクスを読む。そこには「自分のこと」が書かれていないと思う人は、サン=シモンでも、クロポトキンでも、バクーニンでも、マルクス以外の人の書物を読む。労働者たちはそこに「自分のこと」が書かれている本を手に取る。「自分のこと」が書かれていない本は手に取らない。簡単な話です。別に道徳的義務としてマルクスを読まねばならないとか、知的通過儀礼としてマルクスを読まねばならないというような心理的圧力は欧米には存在しなかった。マルクスを手に取った労働者は、その時点ですでに先駆的にマルクス主義者であり、マルクス主義者としてマルクスを読んだ。それは山上の垂訓に耳を傾けていたユダヤ人たちは、その時点ですでに先駆的にキリスト教徒であり、キリスト教徒としてイエスの話を聴いていたというのと同じ構造です。
 逆に、資本家やブルジョワにとってマルクスは蛇蝎の如く忌まわしいものです。彼らの頭上に「鉄槌」が下ることの歴史的必然性が述べられているわけですから、手に取るどころか、できればその名前さえ口にしたくはない。ブルジョワ知識人の書架にマルクスの書物が並んでいたら、それはきわめてシニカルなふるまいであり、紳士に許されざる「マナー違反」と見なされたはずです。
 つまり、自分の人生と直接関係はないけれども、一体どんなことが書いてあるのか、純粋に知的興味に惹かれてマルクスを読むという人は、欧米諸国にはほとんどいなかったということです。仮にいても、例外的な少数にとどまっていたと思います。欧米の19世紀、20世紀の小説の中で、おのれの階級性とまったく無関係に、純粋に知的関心からマルクスであれクロポトキンであれ、革命家の書物を読んでいるという登場人物を僕自身は、管見の及ぶ限り、読んだ記憶がありません。
 日本におけるマルクス受容はそこが違います。日本では、マルクスを手に取るに先立って、自分は先駆的にマルクス主義者であるのか、先駆的に反マルクス主義者であるのか、立場を決する必要がありません。それは階級闘争が、日本ではとりあえず「他人ごと」だったからです。
『共産党宣言』は「ヨーロッパには幽霊が出る―共産主義という幽霊が」という有名な一句から始まります。幽霊が出るのはヨーロッパであって、日本列島ではありません。だから、マルクスを「自分ごと」として読むという切迫感は読者にはなかった。
 それゆえ明治大正昭和を通じて、知的な若者たちは聖書を読み、ミルやスペンサーやベンサムやロックやルソーを読み、同じ文脈で、つまり欧米諸国はこれからどうなるのかという地政学的関心に基づいて、マルクスやクロポトキンを読んだ。欧米諸国の深層にひそむ「定数」を見出し、その「軌道」の上に展開するはずの次の行動を予測するために。それは第一義的には、日本における革命理論であるより先に、日本が生き延びるための情報だったのです。
 ですから、戦前の日本の場合、青年期にはマルクスボーイであったけれども、そのあと資本家になったり、リベラリストになったり、仏教徒になったり、天皇主義者になったり・・・というふうに多彩な履歴にばらけてゆくということが当然のようにありました。
 1925年から45年までの間施行された治安維持法下で、多くのマルクス主義者が逮捕され、獄中で「転向」をしました。「転向」というのは拷問の苦痛に耐えかねて政治的信念を棄てるというパセティックな決断のことではありません。そうではなくて、マルクス主義の理論的な正否はさておき、この政治理論は日本社会にはうまく適用できないと認める静観的で知的な態度のことです。「転向」者に求められたのは、マルクス主義は所詮「他人ごと」であるとカミングアウトすることでした。ですから、政治的に誠実な活動家にとっても、転向は決してそれほど心理的には困難な事業ではなかった。
 転向したマルクス主義者たちは、そのあと深刻な葛藤を経ずに、あるいは天皇主義者になり、あるいは仏教に帰依し、あるいは日本古典や古代史の研究に沈潜し、そして、その多くは日本のアジア諸国への帝国主義的侵略の(控えめな、あるいは積極的な)支持者になりました。
 戦前の日本共産党の指導者であった佐野学・鍋山貞親は1933年、獄中転向に当たり、コミンテルンの指揮を離れて、「日本独自の一国社会主義革命を成し遂げる」ことへの路線変更を同志に訴えました。日本における革命は他国のそれとは違い、「日本的に、独創的に、個性的に、かつ極めて秩序的に開拓する」ものでなければならないというこの声明は驚くべき効果を発揮しました。ただちに多くの幹部党員や同伴知識人がこれに応じて雪崩打って転向を表明したからです。
「雪崩打って」転向できたのは、それが深刻な内的葛藤を求めないものだったからです。転向者たちが、別にことさらに不徳義で、意志の弱い人間であったと僕は思いません。彼らはマルクス主義者であったときも、そうでなくなったときも、本質的には同じ人間でした。政治的目標もそれほど変わってはいない。日本社会をもっと公正で、自由なものにしたい、そう願っていた。でも、検察官に「それよりも国として生き延びることの方が優先するんじゃないか? 国が滅びてしまったら、公正も自由もないだろう」と言い立てられると、言い返せなかった。
 明治時代以来、日本の知的青年たちが欧米の宗教や思想や学術を必死で学んだのは、欧米諸国の「定数」を理解しないと、日本は生き延びることができないという前提があったからです。たいせつなのは、まず日本が生き延びることでした。日本における社会矛盾を解決するのは「その次」の話です。転向者たちはその順序を確認させられたに過ぎなかったのです。まず優先するのは「戦争に勝って生き延びることである」という言い分に頷いたときに彼らはマルクス主義者であることを止めて、愛国者に「戻った」のです。
 戦後も事情は同じです。敗戦の瓦礫の中に立ち尽くした日本人たちが、アメリカの「属国」身分に堕した日本にこのあと主権国家として再生するチャンスはあるのかと自らに問うたとき、人々は再びマルクスを手に取りました。世界最大の資本主義国家アメリカに対抗しうる社会理論があるとすればマルクスのそれしかないと思ったからです。とりわけ、1960年代の終わり、日本がベトナム戦争でアメリカの後方支援基地となり、ベトナム特需で経済的に潤っているとき、属国民としてアジアの農民の虐殺に加担させられていることの屈辱感と疚しさに苦しんだ高校生、大学生たちはむさぼるようにマルクスを読みました。  
 でも、それが最後でした。そのあと、驚異の高度成長を経て、世界第二位の経済太刀国に成り上がり、「宗主国」アメリカの地位を脅かすまでになったときに日本人はマルクスを読む習慣を失いました。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』がベストセラーになったということは、これからは日本人は「学習する」側から「学習される」側にポジションが移ったということだと日本人たちは考えました。欧米の「定数」を学ぶ必要はもうないのだと日本人が思い上がったときに、日本人にとってマルクスを読む必然性はなくなったのでした。
 そして四半世紀ほどの歳月が経ち、いままたマルクスを読む若者たちが出てきました。それは身もふたもない言い方をすれば、日本がふたたび貧しくなったからです。マルクスが『資本論』で活写したような労働者の絶対的な貧困化、階層の二極化、支配層であるブルジョワジーの倫理的退廃が目に余るようになってきたからです。なぜこのような不条理な社会が出現したのか。それをみごとに説明し切ってくれる理説としてはさしあたり手元にマルクスのものしかないことに若者たちが気づき始めたのです。

 以上、日本におけるマルクス受容の歴史的条件について、速足で私見を述べてみました。ややこしい話でしたので、だいぶ予定の紙数を超えてしまいました。どうぞご容赦ください。
 日本には100年にわたる豊かで、厚みのあるマルクス研究の学的蓄積があります。にもかかわらず、日本におけるマルクス主義運動はついにある程度以上の社会的影響力を持ち得ませんでした。この二つの事実の間にはあきらかに齟齬があると僕は思います。それは中国においてマルクス主義がたどった軌跡とまったく違うものです。ですから、この齟齬こそが日本におけるマルクス受容の固有の歴史的条件をかたちづくっているというのが僕の仮説です。
 日本の読者は他のどの国の読者とも違う立場からマルクスを読むことができます。それは一つの利点です。同時に、日本人の読み方でしかマルクスを読むことができません。それは一つの制約です。でも、そういうものだと思います。あらゆる国の人々はそういうふうにして、ひとりひとりの持ち分を手にして、他の国の人々とともに、世界史的な事業に参加する。そういうものだと思います。
 僕たちのマルクス読解が中国の読者のマルクス理解に少しでも資することがあれば、幸いです。

2021年3月
内田樹