佐藤学・上野千鶴子のお二人と共編で『学問の自由が危ない』という本を出した。菅政権による日本学術会議の新会員任命拒否問題を論じたもので、多くの学者、ジャーナリストが快く寄稿依頼に応じてくれた。
すでに1400の学会が抗議声明を発表しており、この件については、このあと、どれほど長期戦になろうとも、どのような政治的恫喝が加えられても、日本の学者たちは一歩も譲らないだろうと私は思っている。
だから、問題はどうして官邸はただでさえコロナ対策で忙しいさなかにこんな面倒なトラブルを進んで引き起こしたのかということである。
推理することはそれほどむずかしくない。
彼らは「この程度のこと」が面倒なトラブルになるはずがないと高をくくっていたのである。
6人の新会員はいずれも過去に安倍政権に批判的な発言をした人たちである。菅政権は、その発足時点で「政権批判をする学者にはいかなる公的支援も与えない」ということを宣言して、日本の学者たちに「誰がボスか」を教え込んでやろうとしたのである。政治的に何の緊急性もない任命拒否を政権発足直後にわざわざ行ったのはそれが効果的な「マウンティング」になると思ったからである。安いコストで宣伝効果抜群の政治的な「打ち上げ花火」を仕掛けたつもりだったのである。
学者は一喝すれば縮み上がり、金をやると言えば尻尾を振る。これは安倍政権での「成功体験」から導かれた彼らの経験知である。まことに遺憾なことだが、これはかなりの程度までは正しい。事実、過去四半世紀、教育行政は大学教員に屈辱感を与えることについてはきわめて熱心だったが、それに対して教員たちはほとんど何の抵抗も示さずに、黙って従ってきたからである。
90年代からあとの大学の「株式会社化」圧力はすさまじいものがあった。大学設置基準大綱化に伴う市場原理の導入、評価による研究教育資源の傾斜配分、相互評価(これは「どうすれば研究教育のアウトカムが向上するか」を議論するために研究教育のための時間と労力を犠牲にするというきわめて倒錯的なタスクだった)、国立大学の独法化などなど・・・きわめつけは2015年の大学のガバナンスに関する学校教育法改正だった。
これによって大学教授会は決定機関としての権限を奪われ、単なる学長の諮問機関に格下げされた。入試判定、卒業判定の形式的なセレモニーを許されたくらいで、学長が「必要ない」と判断した案件については教授会にはもう諮問されることさえなくなった。一片の政令によって大学自治の基幹である教授会民主主義が破壊されたのであるが、このとき、日本の大学人は抵抗しなかった。18万人の大学教員はデモもストもせず、黙ってこの屈辱的な権限剥奪を受け入れた。それを見た政治家たちが、大学教員というのはほんとうに性根のないやつらだと思っても不思議はない。
日本の学者たちは大学教員全員にとって死活的価値を持つ自治権を奪われたときにさえ何の抵抗もしなかった。だとしたら、わずか6人の学者からその公的資格の一部を剥奪する程度のことに抵抗するはずがない、官邸はそう信じた。それは過去の「成功体験」から帰納的に推論すれば当然のことだった。
しかし、意外にも、学者たちは猛然と官邸に牙を剥いた。このような激しい反抗を官邸は予測していなかったはずである。どうして予測を誤ったのか?
それは官邸が学者は「組織人」であると同時に「職人」でもあるという二面性を持つという事実を見落としていたからである。
組織人としての大学人は黙って上位者の命令に従う。その点では、ふつうのサラリーマンと同じである。会社では、CEOのアジェンダに賛同するイエスマンが重用され、反対する者は左遷され、排除される。当たり前のことだ。トップの経営方針の適否について判断を下すのは従業員ではない。マーケットである。全従業員が反対した事業でも、CEOが断行した結果、マーケットが好感して、売り上げが伸び、収益が増え、株価が上がるなら、それは「正しかった」ことになる。
大学でも同じロジックが適用された。行政の適否を判断する「マーケット」は日本社会では国政選挙であると考えられている。選挙で政権政党が多数を制したら、それはこれまでの教育政策が正しかったと「マーケット」が判断を下した、そう解釈される。だから、教育行政の長に忠誠を誓う学者が重用され、反対する学者は馘首されることに何の不思議もない。
そんなふうに株式会社のロジックに準拠して大学のあり方を考えることに慣れ切った教員たちが気がつけばすでにどこの大学でも過半数を超えた。過去四半世紀にわたって「大学の株式会社化」を推進してきたのである。それが奏功したのである。
だから、おそらく菅首相は自分は会社の社長で、日本学術会議は別館の片隅に置かれた「社史編纂室」のようなものだと思いなしていたのだろうと思う。捨扶持で養ってやっている部署とはいえ、こちらが給料を払って食わせているのである。そこにわざわざトップに逆らう人間を登用する必要はない。そう考えた。
官邸が見落としていたのは、学者は一方で、上位者に頤使されることに慣れ切っている組織人であると同時に、他方では、おのれの専門的職能に誇りを持つ独立性の高い職人でもあるということである。
組織人としての大学教員は一片の政令の前に黙って頭を垂れる。でも、職人は違う。職人としての学者は前近代的な徒弟制の中で育てられる。師の謦咳に接し、長い修業を通じて師の方法を学び、その学統を継ぐ。その点では武道家や刀鍛冶や能楽師と変わらない。
だから大学教員は、自分の大学の学長を非民主的な手続きで「上」の誰かが決めても、黙って受け入れるが、自分の職能団体のメンバーシップの査定に非専門家が口を出すことは許さない。素人が刀鍛冶の作品を査定したり、能楽師の芸に評点をつけたりすることが許されないのと同じである。
日本学術会議は学者の「ギルド」である。誰がギルドの「親方」に任用されるかを決めるのは職人たちの専管事項であって、採否の決定には職能以外の基準は適用されない。ところが、菅首相は職人たちに向かって、ギルド入会の基準として「官邸への忠誠度」を適用すると言い出したのである。あり得ない要求である。絶対に受け入れることはできない。時の権力者にへつらう者が大学内で出世することを「当然のこと」として黙って受け入れてきた大学教員たちも、どの職人の「腕」が確かかを判定する権限を素人である政治家に委ねることは決してしない。そんなことを受け入れたらもう学問は終わりだからである。それは彼らの「矜持」の問題であるという以上に、おのれの職業の存在理由を、自分たちが刻苦勉励してきたことの意味を否定することに等しいからだ。それゆえ、「職人としての学者」はこの件については一歩も譲るわけにはゆかない。
今回の日本学術会議の問題でも1400にのぼる学会がかなり烈しい言葉で抗議声明を発した。だが、大学として公式に抗議声明を出したところは一つもない(抗議声明の主体はいずれも「有志の会」である)。その事実が、学者が「職人」としてふるまうときの毅然とした構えと、「大学人」として組織的にふるまうときの弱腰の対比をみごとに表していたと私は思う。
官邸に私から提言するのは、何の警戒心も持たずに始めてしまったこの「マウンティング」は失敗だった。だから、いさぎよく失敗を認めた方がいいということである。日本学術会議の新会員については原案通りに任命をして、一件落着を計った方がよい。その方が傷が浅くて済む。いくら無理押ししても、これから後も学者たちから譲歩を引き出すことはできないと思う。もう一度繰り返すけれど、恫喝や利益誘導は「大学人」相手には有効だけれど、「学者」相手には効かない。
(2021-01-22 12:15)