公共と時間について

2020-10-27 mardi

大阪市を廃止することの可否を問う住民投票が近づいてきた。議論のほとんどが「コスト」をめぐっている。しかし、行政システムの改変に際して経済合理性だけを基準にしてものを決めるのはとても危険なことである。それについて考察した部分を『日本習合論』から引用する。

 今の日本と、僕が育った頃の日本を比較して、最も違ったのは、ものごとの価値や、あるいは言動の適否を考量するときの時間の長さだと思います。ある行き方を選択をした場合、それが適切だったかどうかを「いつ」の時点で判断できるか。その適否判断までのタイムラグは歴史的環境によってずいぶん変化します。でも、これほど時間意識が伸縮するものだと知りませんでした。
 今はものごとの理非や適否を判定するまでのタイムラグが非常に短くなっています。せいぜい一年あるいは四半期、場合によってはもっと短い。そこで決着がついてしまう。ある政策決定を下した場合に、それが適切だったか否かが、数週間くらいでわかるはずがありません。結果が出るまでに数か月、数年、場合によっては数十年かかることだってある。でも、みんなそんな先のことについてはもう考えるのを止めてしまった。五年先というような未来において、どう評価されるかなんていうことは誰も気にしない。五年前に選択した政策が、適切だったのかどうかも、誰も吟味しない。
 いまの日本社会は「誰も責任をとらない」仕組みになりつつありますけれど、これは人間の質が変ったということではなくて、過去においてなされた選択の適否について論じる習慣そのものを失ったからではないかと思います。「済んだこと」を蒸し返してもしょうがない。それより「これから」のことを考えようという言い方があらゆる場面で口にされる。一週間前に「プランAしかない」と言った人が、一月後に「プランAなんてありない」と言い放っても、誰も食言を咎めない。いまはそういう時代です。そもそも、「食言」という単語そのものがもう死語になった。
「言葉を守る」を英語ではkeep one's word と言います。「キープ」というのは「ある程度の時間」持続することです。あくまで「ある程度の時間」であって、数値的に明示してあるわけではありません。それでも「だいたいこれくらい」という暗黙の了解があった。一月や二月後に覆されるようでは「言葉を守った」とは言われなかった。でも、いまは「言葉を守る」ということ自体に人々は特段の価値を置かなくなった。だから「あなた、一月前にこう言ったじゃないか」といきり立っても、「そんな昔のことは忘れたよ」と鼻先で笑われておしまいです。
 たしかに、それが現実なんです。一月前なんて「大昔」なんです。いま株の取引きは人間ではなくて、機械がやっています。アルゴリズムが1000分の1秒単位で金融商品の売り買いをしています。「一月前の株価」なんて情報としてまったく無価値です。ゼロです。企業だって、明日はどうなるか誰にもわからない。AppleだってGoogleだってAmazonだってFacebookだって、果たして10年後に存在するかどうかわかりません。株式会社の平均寿命は5年なんですから。それ以上先のことを考えてもしかたがない。そんな平均寿命の短い組織体が「百年後の会社のかたち」や「百年後の従業員の幸福」なんか考えるはずがない。考えても無意味だからです。今期の売り上げが落ちて、株価が下がったら、それで会社は「はい、おしまい」です。十年後どころか来年もない。だから、今期の利害損得に一○○パーセント集中するしかない。それが「当期利益最優先」という株式会社的な時間意識です。そして、現代人はもうほとんどがこの株式会社的発想に骨の髄まで冒されてしまっている。
 でも、そういう短いタイムスパンで判断をしてはいけない領域があります。
 それなしには人間が集団的に生きてゆけない資源のことを経済学の用語では「社会的共通資本」といいます。これには三種類のものがあります。自然環境、社会的インフラ、そして社会的な制度です。
 自然環境というのは山河のことです。大気、海洋、河川、湖沼、森林・・・そういうものです。その豊かな恵みの上に僕たちの社会制度は存立している。社会的インフラというのは、上下水道、交通網、通信網、電気ガス水道のようなライフラインのことです。制度資本というのは、行政、司法、医療、教育などの制度のことです。
 社会的共通資本は集団が存続するために絶対に必要なものです。だから、安定的に、継続的に、専門家によって、専門的な知見と技術に基づいて管理維持されなければならない。とにかく急激に変えてはならない。だから、社会的共通資本の管理運営に政治とマーケットは関与してはならない。
 それは別に政治家や市場が下す判断がつねに間違っているからではありません(そんなはずがない)。そうではなくて、政治過程も経済活動も複雑過ぎて、次に何が起きるか予測不能だからです。そういう予測不能なシステムのことを「複雑系」と呼びます。わずかな入力差が劇的な出力差をもたらすからです。「ブラジルの一羽の蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を起こすことはありうるか?」というのは予測可能性についての有名なフレーズですが、複雑系ではそういうことが起こる。だからこそ人々は政治や経済に熱中するわけです。
 でも、空気がなくなるとか、海が干上がるとか、森が消滅するとか、ライフラインが止まるとか、学校がなくなるとか、病院がなくなるということがあってはならない。当然ですね。それでは人間が生きてゆけないから。だから、社会的共通資本を複雑系とはリンクさせてはならないということになります。
 政治は「よりよき世界」をめざした活動です。経済は「より豊かな世界」をめざした活動です。たぶん主観的にはそうだと思います。初発の動機は、いずれも向上心や善意や冒険心です。悪くない。ぜんぜん悪くない。でも、歴史が教えるように、めざした目標がどれほど立派でも、複雑系においては、予測もしない結果が出て来る。必ず予測もしなかった結果が出てきてしまう。よりよき世界をめざした政治活動が戦争やテロや民族浄化をもたらしたことも、より豊かな世界をめざした経済活動が恐慌や階層分化や環境破壊をもたらしたことも、ともに歴史上枚挙に暇がありません。
 それでもいい、何か劇的な変化が欲しい。それがないと退屈で死んでしまう・・・というのがたぶん人間の「業」なのでしょう。僕にだって、その気持ちはわかります。だから「止めろ」とは言いません。でも、お願いだから、社会的共通資本にだけはできるだけ手を付けないで欲しい。
 政権交代したら電気が止まったとか、株価が下がったので医療機関がなくなったとかいうことでは困る。そういうものはとにかく定常的に維持されなければならない。だから、政治とも市場ともリンクさせない。
 私人は変化を求めるが、公共的なものは安定を求める。そういう命題に言い換えてもよいかも知れません。政治活動も経済活動も、それを駆動しているのは「私念」です。「私の考える政治的に正しい社会」や「私の考える豊かな社会」を実現しようとして、人は政治や経済にかかわる。でも、その人の頭の中に描かれた「正しさ」や「豊かさ」はあくまで私念に過ぎません。だって、人を激しく衝き動かすものは他の人と違うアイディアに決まっているからです。他の人も自分と同じことを考えているだろうと思ったら、「お願いだからオレの話を聞いてくれ」と懇願したりはしません。道行く人に向かって大音量で「オレね、結局、世の中って、色と欲だと思うんですよ!」と叫んでみても、誰も足を止めてくれない。何の新味もないから。「こんなことを考えているのはオレだけじゃないか」と思うから人は熱くなるし、「はじめて聞く話だな」と思うから人は足を止める。そういうものです。私念だけが「ブラジルの蝶の一撃」的なインパクトを持つ。それだけが複雑系に予測不能の変化をもたらす。
 複雑系を駆動するのは私念ですでも、社会的共通資本を動かすのは私念ではあってはなりません。社会的共通資本を動かすのはたった一つだけで、それは「公共的なものへの配慮」です。そこにはオリジナルな要素がまったくありません。当然ですよね。「空気はあった方がいい」とか「水道の水はきれいな方がいい」とか「法体系は合理的な方がいい」とかいうことに対して異を唱える人はふつういないからです。
 社会的共通資本は専門家が専門的知見に基づいて管理配慮すべきであるというのは「そういうこと」です。そこに私念をまじえてはいけない。「海とかなくてもいいよ、オレ海嫌いだから」とか「学校いらねえよ、オレ勉強嫌いだから」というような私的な見解は、それが主観的にはどれほど切実なものであっても、社会的共通資本の管理運営には決して持ち込んではならない。
 だから、そこでは「政治的正しさ」も「経済合理性」も配慮してはならないのです。だって、何が「ほんとうに政治的に正しい」のか、何が「ほんとうに経済的に合理的なのか」についてのわれわれの間には意見の一致がないからです。
 社会的共通資本というのは「それがなくなると、集団としての人間が生き延びられないリスクがある資源」のことです。だから、それはとりあえずわきにのけておく。人間たちが日々熱心に売ったり買ったり、作ったり壊したり、手に入れたり失ったりする領域からは隔離しておく。