これは『晩春』が配本の時に書いたもの。
小津安二郎の映画はどれも「大人」はどのような場合に、どのようにふるまうのかについての豊かな実践事例を含んでいる。小津映画は私にとって紛れもなく成熟のための「教科書」であった。私はそこから男たちの考え方、話し方、酒の頼み方、祝儀の渡し方などなどを学んだのである。
私がもっともつよい影響を受けたのは『晩春』である。二十歳をいくつか過ぎた頃に、私はこの映画をはじめて見た。それからどれほど繰り返し見たか覚えていない。そして、四十歳をいくつか過ぎた頃に、ふと気づいたら、私は海を見下ろす緑の多い街に娘と二人で暮らし、大学に行かない日は机に向かってヨーロッパの学者の書きものを読んだり訳したりし、ときどき友人たちを招いては清談しかつ痛飲し、日曜日には能楽堂に行くような中年の大学教師になっていた。私はおそらく人生のさまざまな岐路に立つ度に、選択肢のうちでより「曾宮教授的」なるものを選好しているうちに、今あるような人間になったのである。
もちろん私の言葉づかいも「曾宮教授的」なものになった。「曾宮教授的」というのは、「定型的」ということである。曾宮のみならず小津映画に出てくる(私がロールモデルとして見上げてきた)「大人たち」はいずれも「常套句の達人」たちであった。
『晩春』の中で曾宮(笠智衆)が紀子(原節子)に告げるもっとも決定的な言葉は次のようなものである。
「お前もいつまでもこのままじゃいられまいし。いずれはお嫁にいってもらわなきゃならないんだ。」
もう一つ、嫁入り前の最後の家族旅行の途次、曾宮と旧友小野寺(三島雅夫)と竜安寺の石庭でのやりとり。
「持つんなら、やっぱり男の子だね。女の子はつまらんよ。せっかく育てると嫁にやるんだから。行かなきゃ行かないで、心配だし。いざ行くとなると、やっぱりなんだか、つまらないよ。」
「そりゃあしょうがないさ。われわれだって育ったのを貰ったんだから。」
若い人の中には、このような言葉を「因習的である」とか「非主体的である」とか感じて、苛立つ方もおられるかも知れない。だいいち、結婚のことが話題になっているにもかかわらず、どうして誰も「愛」については語らないのか、と。
けれども、私は今でも画面からこの台詞が聞こえてくると、思わず背筋を正したいような気分になる。おそらく、ここには数万年前から営まれてきた「親族」という制度の本質についての根源的な真理が語られている。そして、そのような真理は「常套句」のかたちをとって語る以外に、個人によっては担いきれぬほどに重いのである。
もう一つだけ常套句について。
『彼岸花』は結婚披露宴の場面から始まる。来賓として祝辞を述べる平山(佐分利信)のまるで畳み込むような常套句の羅列は私にめまいに似た陶酔感を与える。もし「常套句だけで書かれた詩」というものがあったとすれば(ないが)、それはこのときの平山の祝辞を形容するのにふさわしいだろう。彼に倣って、「うたた感慨に堪えぬのであります」というフレーズをいつか私も祝辞で使ってみたいと思っているのだが果たせないでいる。成熟への道はまことに遠い。
(2020-08-08 17:23)