小津安二郎断想(1)「通過儀礼としての小津映画」

2020-08-08 samedi

来年度の大学のリカレント講義で映画論を講ずることになった。1本映画を観て、それについて小一時間語るという講義を3回。『秋刀魚の味』はすぐに決まったのだが、あとの2本が決まらない。結局岡本喜八『独立愚連隊西へ』とスタンリー・キューブリック『博士の異常な愛情』の3本を選んで、「映画における戦争と軍隊」というテーマでまとめることにした。
 小津について以前書いたものを読もうと思って筐底を探っていたら、10年ほど前に小津安二郎のDVDBooksが刊行された時にライナーに書いたものが出て来た。それきり単行本にも出ることがなかった文章なので、記念に掲載しておく。全部で10本。まずは第一回から。『東京物語』に添付した文章であるが、『東京物語』のことは一行も書いていない。

 小津安二郎の映画を集中的に見始めたのは1975年からで、それまで小津映画は一度も見たことがなかった。
 75年のお正月に、家でごろごろしているときに、テレビで『お早よう』が放映された。例の「布地」のバックに「お早よう」というタイトルが出て、脱力系のテーマ音楽が流れたときに、とりあえずチャンネルを換えようと思った。だが、当時のテレビは手動のチャンネル式で、立ち上がってテレビのところまで行ってがちゃがちゃ操作しなければならない。起き上がってチャンネルを換えるのが面倒なくらいに怠惰な気分だったので、私は寝ころんだままぼんやり画面を見続けた。
 だが、始まって数分して(いや、数秒だったかも)、これが私の想像していた「ホームドラマ」の定型とまったく異質の、ほとんど異次元のものであることに気づいた。気がつくと、私はブラウン管に顔がつくほどテレビに近づき、胸をどきどきさせ、ときどき間歇的に転げ回って笑っていた。
 こんなに面白い映画を見たのは生まれてはじめてだ、と思った。その翌日から小津の映画を探して東京中の映画館を歩き回った。そして三年ほどでほぼすべての小津映画を見尽くした。
 私はその頃、大学は出たけれど、定職もなく、ときどき単発のバイトをし、午後は麻雀をし、夜はジャズを聴いてお酒を飲んで日々を過ごしていた。そんな先の見えない二十代なかばの青年にとって、小津映画を観ている時間は例外的な「至福のとき」であった。小津映画はそのような非生産的な生き方のせいで赤剥けになっていた私の神経に、他の誰もしないようなしかたで「やさしく」触れたのである。
 別に小津映画では非生産的な青年が肯定的に描かれていたからではない。むしろ小津映画に出て来る人々はみな勤勉であった(私が知る限りもっとも怠惰なのは『早春』の高橋貞二であるが、彼だって昼間は丸ノ内のちゃんとした会社に勤めていた)。サラリーマンもバーテンも割烹の女将もパチンコ屋の親父も、みんなそれぞれの職場できちんと仕事をしていた。小津の映画の中に「不労所得」を得ている人間はひとりも出てこない(『お早よう』の押し売りでさえ「9時5時」シフトで働いていた)。
 勤労の一日を終えた人々の達成感と解放感、それは小津がもっとも愛した主題の一つだったと思う。一日の仕事を終えて、寿司屋のカウンターやトンカツ屋の座敷で「今日最初のビール」を美味しそうに飲み干す場面を私たちはほぼすべての小津映画に見出す。
 二十代なかばの私はそれを見て、ふと「働こう」と思った。別に誰かに急かされたわけでも、将来への不安が募ったからでもない。こんなふうに美味しいビールを飲んでみたいと思ったからである。
「大人になれよ」と小津安二郎は言う。小津の全作品にそのメッセージは伏流している。それを小津は威圧的でも教化的でもない口調で告げる。「大人は愉しいぞ」。
 思えば、小津映画は私の「通過儀礼」であった。私は24歳から27歳にかけて、小津安二郎を集中的に見ることによって、「子ども時代」からの離陸を果たした。そのことについて小津安二郎への感謝を私は生涯忘れないだろう。