ある全国紙から大阪の維新の人気についてアンケートを受けた。説明が要るので長い回答を書いたが、紙面に載るのはこの10分の1くらいなので、オリジナルを掲載しておく。
Q1:大阪維新の会は立ち上げから10年を迎えました。当初は橋下徹氏の人気頼みの面が否めませんでしたが、15年に橋下氏が去った後も、高い支持を誇っています。平松市長時代に大阪市の特別顧問も務めた内田様からご覧になって、橋下氏が不在でも維新がこれだけの支持を得続けているのはなぜだと思われますか。
大阪の人に訊くと、とにかく維新の議員たちは「どぶ板選挙」に徹して、地域住民の声を汲み上げる点で他党に優れているそうです。でも、「どぶ板」は自民党はじめ他党もやってきていることですから、そこに決定的な差があるとは思いません。やはり維新のイデオロギーが大阪の人たちに広く好感されているのだと思います。
僕はそれは一種の「リバタリアニズム」ではないかと思います。
大阪人は他の地域に比べると、「リバタリアン」気質が濃厚のように見えます。「親方日の丸」的な発想をしない。「お上に何かしてもらう」という考え方が希薄です。
大阪は発生的にも、武士の街ではなく、町人の街でしたし、船場の経済力で大都市になった。懐徳堂も適塾も町人たちが自力で立ち上げたし、文楽も上方舞も民衆芸能です。「自分のことは自分で始末するから、お上は口を出さないで欲しい。自分の欲しいものは自分で手に入れるから、公共の支援など要らない」という考え方が伝統的に根づいている。
だから当然「小さい政府」主義になります。「公務員削減」には無条件に賛成します。大学や病院や図書館や美術館のような、市民自身が受益者である公共的なサービスについてさえ「税金の無駄遣いだ」と言われると、すぐに賛成する。
維新が熱心にやってきたのは、この大阪人のリバタリアン的気質に乗じた「公共財の取り崩し」「公共財の民間への付け替え」だったと思います。
共同体が存続するために必要な公共財を「社会的共通資本」と呼びます。上下水道、交通網、通信網、ライフライン、教育、医療、司法などがそれにあたりますが、これは本来公共的なもので、専門家が、専門的知見に基づいて、政治イデオロギーとも市場ともかかわりなく、管理すべきものです。でも、維新はこの社会的共通資本を民間に移管することにきわめて熱心でした。
もちろん、資本主義がそれを要請するからです。
公共財というのは人々を共同的に益するものですから、営利には役立ちません。人間が生きるために必要なもの(例えば水とか医療とか教育とか)はできるだけ質の良いものを、できるだけ安価で(できれば無償で)提供するというのが社会的共通資本の考え方です。専門家が管理するわけですからコスト意識なんかほとんどない。ですから、公共的なセクターを見ると、その機構や提供されるサービスにはあきらかな無駄やオーバースペックやコスト意識の欠如があちこちでみられる。「収益の最大化」とか「コストの削減」とかいうことを優先的に配慮する人たちはそれにすごく腹が立つ。だから、「そういう公共的な事業は民間に移管した方が無駄がなく、効率的に運用されて、コストも下がる」と思う。
そして、この推論自体は間違っていないのです。
別に今に始まった話ではなく、16~19世紀のイングランドの「囲い込み(enclosure)」から「公共財の私財化」は資本主義の基本です。
それまで住民たちが共同的に利用して、のんびり牛や羊に草を食わせたり、食材を栽培したりしていた「入会地(common)」を資本家が買い上げて、私有化したのです。買った方は土地に投資したわけですから、その土地からどう利益を上げるか考えます。当然、生産技術も向上するし、生産性も上がる。そうして農業革命が起きた(そのせいで自営農たちは没落して、都市の低賃金労働者になり、産業革命の労働力を提供したわけですから、資本主義的には「狙い通り」です)。つまり、資本主義のロジックに従えば、「公共財は公共的に管理しないで、私有化する方が生産性が上がり、利益が出る」というのは永遠の真理なのです。
維新がやっているのは、そう言ってよければ、「現代の"囲い込み"」です。
これまで住民たちが共同的に所有し、管理していた公共財を私有化することで「利益を出す」仕組にした。ただし、そこで言う「利益」というのは、公共財を手に入れた資本家の利益であって、「入会地」のもともとの共同所有者たちの利益ではありません。彼らは自分たちの財を奪われたのですから。
けれども、多くの人はそれに抗わなかった。世の中、そういうものだろうとおとなしく受け入れた。「誰の所有であれ財が利益を生み出すのは端的によいことである」という資本主義のイデオロギーをすでに人々は内面化していたのでした。自分が貧乏になっても、収奪されても、資本主義が繁栄するなら、それは歴史的必然であろうと思うようになった。
「囲い込み」を指をくわえて眺めているうちにプロレタリアに没落したイングランドの自営農のマインドと、大阪の人たちのマインドには共通するものがあるように見えます。
大阪の有権者たちも資本主義イデオロギーを深く内面化している。だから、公共的なものが私有化されることに反対するロジックを持たない。それが自分自身にとってどういう利益や被害があるかどうかはとりあえず脇に措いて、生産性の低い使われ方をしていた財が生産性の高い使われ方をすることは「端的によいこと」だと信じている。
でも、「生産性が上がる」というのは、例えば、それまで10人でやっていた仕事を1人でやるようになるということです。たしかに人件費コストは削減できる。でも、それまで働いていた9人は失業するわけです。その9人の中に自分が含まれていたら・・・ということを「生産性向上主義者」たちは想像しない。
もともとの「お上が嫌い」という大阪のリバタリアン的エートスは「公共財は私物化すべきだ」という新自由主義イデオロギーと妙に相性がよかった。そのせいで維新的なものが好感されている・・・そういうことじゃないかと思います。長い説明になってすみません。
Q2:私たちの仮説は、維新とは自民党から派生した存在であり、自民党的な選挙手法(中選挙区で党内の候補者同士が競い合う)という足腰の強さがあったのではないかということです。とくに、橋下氏が去ったことで自民党的なものへの回帰が進んだ面もあるのではないかと考えています。このような仮説は成り立つでしょうか。
僕はそうは考えません。もともと自民党の中には福田派的な流れと田中派的な流れの二大潮流がありました。1970年から87年まで続いた「角福戦争」と呼ばれた自民党の派閥抗争はこの二派閥の戦いですが、日本近代政治史において「戦争」とまで呼ばれたような党内闘争は後にも先にもこれしかありません。この二つの政治潮流がいかに「氷炭相容れざるもの」であったかはその一事から知れると思います。おおざっぱに言うと、福田派が都市型・新自由主義的・リバタリアン的で、越山会が田園型・農本主義的・コミュニタリアン的です。この二つのまったく肌合いの違う派閥のきびしい拮抗関係からエネルギーを備給されていたのが高度成長期からバブル期にかけての自民党でした。
しかし、田中派はのちに「分党」して、最終的に民主党に流れ込むことになりました。乱暴な言い方をすれば、民主党は「自民党田中派」が独立した作った政党です。「竹下派七奉行」のうち4人(羽田孜、奥田敬和、渡部恒三、小沢一郎)は民主党の結党に参加しましたし、鳩山由紀夫も岡田克也も自民党田中派から初出馬したのでした。
つまり、今の自民党はかつての自民党から「田中派的なもの」を抜き去った政党だということです。国民生活を底上げしてゆく、弱者に配慮する、中産階級を厚みのあるものにして階層格差をなくすという志向が乏しいのはそのせいです。だからもし、いま「自民党的なもの」と言われたのが、55年体制の自民党のような「国民政党的性格」のことを指すのであれば、維新がこれからかつての「自民党的なもの」へ回帰することがあるという見通しに僕は与しません。維新は清和会をさらに社会ダーウィニズム的に純化した政党ですから。
Q3:もう一つの私たちの仮説は、東京の政権党とは異なる「大阪の政党」を、大阪の有権者が求めていたのではないか、そこに維新という存在がうまくマッチしたのではないかということです。東京への対抗心と言ってもいいかもしれません。維新が大阪で非常に高い支持を誇る一方、他の地域では支持の広がりを欠くこともそう考える一因です。大阪の有権者にそのような気質はあるでしょうか。
それはQ1で答えた通りです。大阪的リバタリアニズムには「反公共」「反東京」「反権力」「反良識」など、いろいろな「反」がくっつきやすいんです。
Q4:ただ、先の質問とやや矛盾しますが、今の大阪の行政運営、政治のありようが、現政権と非常に近い印象を抱かせるのも確かです。それは、トップダウン型の政策決定の重視であり、維新出身の知事・市長による「政治判断」の強調です。事実、安倍政権中枢と維新のトップは非常に良好な関係を築いています。安倍政権との近似をどうご覧になりますか。
Q2で答えたように、両者の体質は非常に近いと思います。自民党の下野時代に維新は安倍晋三を「党首に」とラブコールを送ったことがありました。ケミストリーはほとんど同じだと思います。
Q5:この10年で、大阪の経済状況が好転し、街に活気が生まれたことも確かだと思います。維新はそれを「自分たちの改革の成果」としてアピールしています。この主張をどう思われますか。
「大阪の経済状況が好転している」ということについては、僕には特に実感はありません。このグローバル化された時代に、一自治体における経済政策の良否で、近隣自治体と違うような経済環境が出現するというようなことはありません。景況は無数のファクターの関数です。大阪に中国人観光客が増えたせいで、ずいぶん大阪は潤いましたけれど、あれは「中国政府の経済政策が成功して、中国人がリッチになった」ことの成果であって、大阪の行政とは関係ありません。今度はコロナ禍で来日するツーリストが激減して、観光業や飲食店はたいへんなダメージを受けますが、それは大阪の行政の失敗ではありません。関係ないものを結びつけて成否を言ってもあまり意味がないと思います。
Q6:万博やIR、「大阪都構想」実現の場合の大阪市から特別区への移行などは、すべて2025年ごろをターゲットとしています。その先、維新が何を掲げるのかは見えてきません。この10年、急成長し、大阪政界を席巻してきた維新ですが、果たしてこの先も生き残ることができるのかは見通せません。次の10年の維新はどうなるでしょうか。当然、それを左右するのは大阪の民意ということになりますが、民意はこの先どう移っていくでしょうか。
どれも「あの作戦がうまくいって、あの作戦もうまくいった場合には皇軍大勝利」という典型的な「日本流」楽観論ですので、ネガティヴなファクターが一つでも入ると、すべて水泡に帰すと思います。
このパンデミックで世界経済は数年では立ち直れないくらいのダメージを受けます。かなりの国が定常経済ないしマイナス成長のフェーズに入る。そういう世界的な停滞が予測される時期に、万博やIRのような「祝祭的イベント」で集客して経済浮揚効果をねらうのはまったく不適切だと思います。
お祭り騒ぎをするだけの経済的余力があるなら、まずコロナ禍で痛めつけられた大阪の住民たちのための医療、福祉、教育などの公共的なセクターに優先的に予算を分配すべきだと思います。しかし、維新は「公共的なセクターへの割り当てを削り取って、民間に移管する」ことだけで支持を集めてきた政党ですから、方向を180度転換しなければならない。果たして、頭の中身を入れ替えることができるかどうか。僕は難しいだろうと思います。
(2020-04-18 13:50)