「打って一丸」の危うさ

2020-03-06 vendredi

 ある媒体のロングインタビューの中で「打って一丸となる」ことの危うさについて語った。日本人が「打って一丸」となるとだいたいろくなことはないのである。では、国難的状況でわれわれはどうしたらいいのか。

──内田さんの『生きづらさについて考える』を読んでいて目から鱗だったのは、政権与党側が、わざとまともに質問に答えなかったり、ヤジを飛ばしたり強行採決したりして、もはや議会制民主主義が機能していないという印象を与えることで、計画的に投票率を下げている、という分析でした。

 立法府に対する信頼を掘り崩してゆくことが自民党の長期的な狙いで、それは成功しています。国会審議は無意味な政治ショーに過ぎない、国会議員というのは知性においても徳性においても優れた人間ではないというイメージを広めてゆけば、有権者は選挙に関心を失います。投票率が下がれば、今の選挙制度では、組織票を持っている政党が勝ち続ける。
 安倍政権はその計画的な国会審議の空洞化にはみごとに成功したと思います。どんな質問にもまともに答えない、平然と嘘をつく、前言と矛盾してもまったく気にしない、与党が出す法律はどれほど野党が反対しても最後は強行採決される・・・そういうことを7年繰り返していれば、国民も「国会には存在理由がない」と思うようになります。結果的に、閣議決定や内閣の恣意的な法解釈が国会での審議や立法を代行するようになりつつある。「法の制定機関」と「法の執行機関」が同一である政体を独裁制と呼びますから、その定義を適用すると、安倍政権はすでになかば事実上の独裁制になっています。
 これまでの憲政の常識を当てはめればもう10回くらいは内閣総辞職していないとおかしいくらいに失政・不祥事が続いているにもかかわらず、安倍政権は何ごともないように延命して、憲政史上最長記録を日々更新しています。
 ふつうは内閣支持率が6割近くないと円滑な政権運営はできないので、どんな内閣も国民のマジョリティの同意をめざして政策を立案するものですけれど、安倍内閣は違います。30%ほどいる自分のコアな支持層だけに受ける政策を採り続けている。そして、確かにそれで十分なのです。というのは、残り70%の有権者は自分たちの意志はしょせん国政には反映しないという無力感に蝕まれているので、投票のインセンティブを失っているからです。「自分たちの意志が国政に反映されている」と感じる30%と「何を訴えても国政には反映されない」と感じる70%に有権者を二分すれば、30%が選挙では勝ち続ける。そういう仕掛けです。

──それにより安倍政権は歴代最長の政体になりましたが、いまの政権や自民党の状況は、これまでの日本の政治のなかでどのように位置づけられるでしょう?

 末期です。安倍政権が終わった時に同時に自民党という政党も終るでしょう。自民党がかつてのような国民政党としてもう一度党勢を回復するということはないと思います。
 70%が反対する政策であっても、30%が支持すれば実施できるという成功体験に自民党は慣れ過ぎました。国民を分断して敵味方に分けて、味方を優遇して敵を冷遇するというネポティズム政治しか彼らは知らない。立場の違う人たちと対話して、譲るところは譲って、「落としどころ」を探るというような高度な交渉技術を持っている政治家はもう自民党内にはいません。かといって野党政治家にそれだけの力量があるかと言えば、これも心もとない。でも、ポスト安倍期に必要なのは、60年安保闘争で岸信介が国民を二分してしまった後に登場してきた池田勇人が「寛容と忍耐」を掲げましたけれど、あれと同じような「国民の再統合」だと思います。

──そのような状況が変わる可能性はあると思いますか?

 分断された国民の再統合が果たさなければ日本に未来はないですから。でも、「打って一丸となる」ということを勘違いしないで欲しいんです。高度経済成長期もバブルの時もそうでしたが、どちらの時期も、日本人は金儲けに夢中でしたが、国民的な分断はなかった。僕のような反時代的な、生産性も社会的有用性のまるでない人間のことも構わず放っておいてくれた。「なんで金儲けをしないんだ。バカじゃないか」と冷笑はされましたけれど、していることを「やめろ」と言われることはなかった。みんな自分の仕事に忙し過ぎて、隣の人がやっていることに口を出す暇がない。それが僕の考えるとりあえず現実的な国民再統合のイメージです
 今日本は分断されていますけれど、それは隣の人間のやっていることをうるさく詮索して査定して、気に入らないと「非国民」とか「反日」とかレッテル貼りをするバカが湧いて出ているからです。「日本人は一つにまとまるべきだ」と言い立てながら、国民的分断を進めている。そのせいで日本はここまで国力を失った。
「自分がほんとうにやりたいことに専念する」というのが一番生産性を高めるふるまいであることはどなたでも同意して頂けると思いますけれど、ただし「専念する」には「他人のことに構ってる暇がないほど」という条件がつくんです。
 隣の人間が何しようとどうだっていいんです。自分が何をするかだけが問題なんだから。幕末のころには「志士」というのが大挙して登場しましたけれど、あの人たちは「オレが頑張らないとこの国はダメになる」と思っていた。個人の努力が国の運命を左右する、と。そういう一種の関係妄想を病んでいる人間の人口比率が一定の値を超えると、国力は増大し、国運が向上する。逆に、その比率が少ないと(つまり「オレが何をしようと、国の運命には影響がない」と思っている人ばかりだと)、国運は衰える。明治の日本が東アジアで例外的に短期間に近代化に成功したのは、その比率が例外的に高かったからだと思います。
 でも、安倍政権は70%の国民に対して、「自分が何をしても世界は変わらない」という無力感を刷り込み続けて、ついにそれに「成功」してしまった。残り30%は「オレが別に頑張らなくても、あっちの方からぜんぶお膳立てしてくれる」という居心地のよいネポティズム政治に居着いてしまった。「オレが頑張らないとこの国はダメになる」という使命感に身を焦がす・・・というタイプの人間を減らすことを制度的に推進したのです。それでは国力も低下します。
 安部政権は個人の努力が国運向上にリンクするという幻想をみごとに粉砕しました。そうすることで、無気力な、権威に尻尾を振るだけのイエスマンの大量育成には成功しましたけれど、そんな人間をどれほど頭数揃えても、国は衰えるばかりです。