角川ソフィア文庫『民主主義』の解説を書いた。とてもよい本だったので、できるだけ多くの人に手に取って欲しいと思う。
戦後、憲法が施行されて間もなく文部省が「民主主義の教科書」を編んだことがあった。1948年に出て、53年まで中学高校で用いられた。それがたいへんにすぐれたものであったという話は以前から時おり耳にしていた。とはいえ、今の文科省の実情を知っている者としては「昔は今とはずいぶん違って開明的な組織だったのだな」という冷笑的な感想以上のものを抱くことができなかった。
その本が復刻されるので解説を書いて欲しいという依頼を受けた。ネットの書誌情報を見ると、これまでに復刻版が1995年に径書房から、短縮版が2016年に幻冬舎から出されている。いずれもまだ流通中であり、そこにさらに復刻版を出すことは「屋上屋を重ねる」ことになりはしないかと心配したが、それは私の与り知らないことである。良書が複数の版元から異なるヴァージョンで提供されるのは間違いなくよいことである。
最初にメールをもらった時は、中学高校生向けの「民主主義の教科書」というのだから、きっと薄手のパンフレットのようなものだろうと思って引き受けたのだが、送ってきたゲラを見たら445頁もあった。最初に出たときは上下二巻だったそうである。とても中高生向けの教科書ではない。ほとんど学術書である。けれども、構成が端正で、論理の筋道が確かで、文章がよく練れていて、何より「民主主義とは何か」を十代の少年少女に理解してもらおうと情理を尽くして書かれている文章の熱に打たれた。
そして、読み終えて、天を仰いで嘆息することになった。それは今から70年前に書かれたこの「教科書」が今でも十分にリーダブルであり、かつ批評的に機能していたからである。
ここに説かれている「民主主義とはどういうものか」という説明は、今読んでも胸を衝かれるように本質的な洞察に満ちている。「そうか、民主主義とは本来そういうものだったのか」と今さらのように腑に落ちた。リーダブルというのはそのことである。
同時に、この本が熱情をこめて訴えて、今後の課題として高く掲げていた「その民主主義をどうやって実現してゆくのか」について言えば、その課題はそれから70年を閲してもほとんど実現されることがなかった。批評的というのはそのことである。
この本はきわめて論理的に、構成的に書かれている。だから、この種の書物としては例外的にわかりやすい。いささか観念的な議論に流れそうだと執筆者が判断したところでは、具体的な事例を挙げたり、歴史的経緯を遡ったりして、中学生にでもわかるように実に懇切丁寧に噛み砕いた説明がしてある。だから、たいへんわかりやすい。
けれども、この「わかりやすさ」に私は微妙な違和感を覚えもしたのである。それはこの書物の成立事情に「検閲」がかかわっていたからである。
本書は1948年に、GHQの指示に基づいて、日本国憲法の理念を擁護顕彰し、民主主義的な社会を創出してゆくという遂行的課題を達するために、敗戦国の役所が、子どもたちを教化するために出版した。
この歴史的条件は、執筆者たちに、いくつかのことについては「書かなければならない」という実定的なしばりを課した。そして、それと同時に、仮に執筆者たちが心の中で思っていたとしても「書くことを禁じられていたこと」もあったはずである。
私は以前フランスの思想史を研究していた頃、ナチスドイツの占領下でフランスの知識人たちがドイツの検閲官の眼を逃れるために、どのようにして彼らの「ほんとうに言いたいこと」を暗号で書き記したかについて調べたことがある。その時に私が得た読解上の経験則は「ほんとうに伝えたい隠されたメッセージは、文章の表層に、あたかもごく日常的な普通名詞のように、無防備に露出しており、そのせいでかえって検閲官の関心を惹くことがない」というものであった。この経験則がこの本についても適用できるかどうか、わからない。けれども、この本を検閲という歴史的条件抜きに読むべきではないだろうと思う。それによって文章はある種の「屈曲」を強いられていたはずである。その屈曲を補正することで、私たちはこの教科書を書いた人たちが敗戦国の少年少女たちにほんとうは何を伝えたかったのかについて推理することができるのではないかと思う。この本の魅力は、コンテンツの整合性や「政治的正しさ」よりむしろ、書き手のこの屈託と葛藤が生み出したものではないのか。その仮説をしばらく追ってみることで本書の解説に代えたいと思う。
これは第二次世界大戦が連合国の勝利に終わった直後に、連合軍の占領下にある敗戦国で出版された教科書である。だから、本書がイギリス、フランスなかんずくアメリカに現存している民主主義的な統治システムが人類の進歩のみごとな達成であるという評価を不可疑の前提とするのは当然のことである。大日本帝国の軍国主義とドイツのナチズムとイタリアのファシズムとは許し難い「独裁主義」として繰り返し、きびしく批判される。そればかりではなく、東西冷戦の前夜の緊張感が背景にある以上、枢軸国を切り捨てた返す刀で、スターリンのソ連におけるプロレタリア独裁もまた民主主義の本義に反する政体としてきびしく懐疑的なまなざしを向けられる。政体の良否についての判断はほとんど先験的に明らかである。
しかし、それにもかかわらず、ここには検閲者であるGHQを慮った、強者に理ありとするタイプの事大主義的な文言は見ることができない。私はこの抑制に驚かされる。この節度ある文体を保つために、どれほどの知的緊張を執筆者たちは強いられたのかだろうか。
もちろん全篇を通じて、アメリカの統治システムは高く評価されている。けれども、その評価は客観的である。たしかな歴史的な裏付けと、執筆者自身の信念に基づいて、その評価は下されている。アメリカ独立の経緯から説き起こし、その内部矛盾や金権政治の弊を指摘し、大統領・議会・最高裁判所が拮抗するアメリカの制度の「大きな妙味」を記した章の執筆者は、はっきりとウッドロー・ウィルソンとフランクリン・ルーズベルトの政治理念への支持を明らかにしている。ルーズベルトのニューディール政策の白眉であったTVAの事業の卓越性をたたえることにかなりの紙数を割いており(427頁)、資本主義の暴走を政策的介入によって抑止し、「完全雇傭」(210頁)を実現しなければならないというケインズ主義への共感も隠されていない。また女性の参政権や社会進出について書かれた章では、独立宣言の起草者のひとりジョン・アダムズの妻が女性の権利拡大を夫に訴えた手紙を採録し、あまり知られていないアメリカにおける女性の権利拡大の歴史についても深い共感をもって記述している。(360頁)
つまり、この「教科書」の執筆者たちは「アメリカはどうして最強国になったのか、アメリカから学びうるものがあるとすれば何か」についてはかなりはっきりとした個人的な信念に基づいて執筆しているということである。おそらく彼らはGHQの検閲官たちよりも自分たちの方がアメリカの歴史や統治システムについて精通しているという知的な自負に支えられていた。そのようなすぐれた執筆者を集めることができたという点ひとつをとっても、この「教科書」は異質なものと言える。
共産主義についての評価もきわめて精密で周到な筆致でなされている。先ほど触れたように、ソ連のスターリン主義(という言葉はまだなかったが)と国際共産主義運動については何か所かで手厳しい批判が記されているけれども、これもあくまでソ連の統治システムが十分に民主主義的でないという点について、「手続きに問題あり」として批判されているのであって、共産主義は原理的に間違っているとか、私有財産の廃絶など狂人の妄説であるというような一刀両断的断罪ではない。
だから、この本の共産主義にかかわる部分が検閲に供された過程で、GHQ内部でこの採否をめぐって対立があったとしても私は怪しまない。これが(多少の改変はあったかも知れないけれど)このかたちで通ったのは、GHQ内部の「ニューディーラーたち」がこの記述に一定の共感を抱いたからだろう。
本書にはこうある。「各国の共産党にしても、もしもそれが議会政治の紀律と秩序を重んじ、ひとたび議会での多数を獲得すればその経綸を行い、少数党となれば、多数に従うという態度ですすもうとしているのであるならば、それは、レーニンなどによってひよりみ主義として痛烈に非難されたマルクス主義陣営中での穏健派の立場に帰っているのである。」(280頁)
つまり、この教科書はマルクス主義政党が民主的な手続きで議会内の多数派を制したならば「その経綸を行う」ことを当然の権利として認めているのである。
この政治的寛容は、この教科書を読む中学生や高校生のうちに、マルクスをすでに読んで共感したものや、いずれ読んでマルクス主義者になるものが必ず一定数いることを予測しているがゆえに採用されたのだと私は思う。それゆえ、なぜマルクスの社会理論が19世紀のヨーロッパに生まれたのか、その歴史的必然性を明らかにした上で、これは日本がとるべき途ではないと諄々と「諭す」という文体を執筆者は採用している。そして、日本が民主主義的な政体である限り、マルクス主義者たちとの対話は可能であり、双方が情理を尽くして話し合えば、合意形成は可能であるという希望を暗黙のうちに語っている。これは読者の知性を信頼する書き手にしか採用できない書き方である。
今述べたような点は検閲を念頭に置いて読むことで、テクストがむしろ深みを増す箇所だと言ってよいだろう。執筆者たちを扼していた「1948年・敗戦国」という歴史的条件がいわばメタ・メッセージとしてこれらの言説の「読み方」を指示してくれる。
私がとりわけ興味深く読んだのは、第十二章の「日本における民主主義の歴史」である。それは、ここで執筆者はどうして日本には民主主義が健全に育つことがなく、軍国主義に屈したのかについて自己摘抉を試みているからである。
この章は「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」という福沢諭吉の言葉から始まる。そして、「明治初年の日本人の中には、このように民主主義の本質を深くつかんだ人があった。そうして、それらの人々が先頭に立って、民主主義の制度をうちたてようとする真剣な努力が続けられた」として、それ以後の近代日本における民主主義の発展と深化の歴史がたどられる。(283頁)
議会の草創期における政党の離合集散についての詳細な記述から、読者は明治の人々が文字通り試行錯誤のうちで日本の議会制民主主義を手作りしようとしていた悪戦の歴程を学ぶことができる。たしかに、この時期に日本人は輸入品ではなく、自分たちの手で、日本固有の民主主義を創り出そうとしていたのである。
近代日本のうちに民主主義の萌芽を見出そうとする執筆者たちの努力はとりわけ明治憲法制定についての記述で際立つ。そこにはこう書かれている。
「この憲法は『天皇の政治』というたてまえをくずさないかぎりで、なるべく国民の意志を政治の中に取り入れうるようにくふうしてある。立法も行政も司法も、形のうえでは、『天皇の政治』の一部分なのであるが、その実際の筋道は、やり方しだいでは、民主的に運用できるようになっていたのである。」(294頁)
苦しい言い方だけれど、「やり方しだいでは、民主的に運用できるようになっていた」というのは、GHQの検閲下で明治憲法について書かれた言葉としては許容限度ぎりぎりの評価と言うべきであろう。
明治憲法の「近代性・民主性」を強調する文言はほかにも見られる。
「『帝国議会』は、貴族院と衆議院とから成り、衆議院の議員はすべて国民の中から選挙された。(...)かくて、議会の賛成なしには国の政治を行うことは原則としてできないことになった。そのかぎりでは、国民の意志が政治のうえに反映する制度になっていたといってよい。」(294頁)
「天皇も、国務大臣の意見に基づかないでは政治を行うことができないようになっていたし、行政についての責任は国務大臣が負うべきものと定められていた。これは、政治の責任が天皇に及ぶことを避ける意味であったと同時に、天皇の専断によって専制的な政治が行われることを防ぐための同意でもあった。」(294頁)
限定的ではあったけれど、言論の自由、信教の自由も明治憲法では認められていたと執筆者は繰り返し主張する。「そういう点では、明治憲法の中にも相当に民主主義の精神が盛られていたということができる」とまで書いている(295頁)。
その「民主主義の精神」が日本社会に定着しなかったのは明治憲法には「民主主義の発達をおさえるようなところ」もかなり含まれており、「そういう方面を強めていけば、民主主義とはまったく反対の独裁政治を行うことも不可能ではないようなすきがあった」からである(295頁)。
運用次第では明治憲法下でも日本は民主主義的な国家となることができたとここには書かれている。その先例はイギリスの王制に見出すことができる。イギリスは立憲君主制であり、国王には議会で決めた法律案に同意することを拒む権利が賦与されているが、その権利は1701年以来一度も行使されたことがない。(75頁)天皇制もそのように運用することは法理的には可能だったはずである。しかし、そうならなかった。独裁政治の侵入を許すような憲法の「すき」が存在したからである。
一つは「独立命令」「緊急勅令」という、法律によらず、議会の承認を経ずに法律と同じ効力をもった政令を発令する権限を天皇に賦与したことである。
もう一つは「統帥権の独立」である。憲法11条に定めた「天皇は陸海軍を統帥す」に基づき、戦略の決定、軍事作戦の立案、陸海軍の組織や人事にかかわるすべての権限が政府・議会の埒外で決定された。そして、統帥権の拡大解釈によって、軍縮条約締結や軍事予算編成への干渉、さらには産業統制、言論統制、思想統制までもが「統帥権」の名の下に軍によって専管されたのである。その結果、浜口雄幸はテロリストによって、犬養毅は海軍将校によって、ともに軍縮に手をつけようとして殺害された。
「武器を持って戦うことを職分とする軍人が、その武器をみだりに振るって、要路の政治家を次々と殺すことを始めるにいたっては、もはや民主政治もおしまいである」(307頁)
昭和6年の十月事件、三月事件、血盟団事件、五・一五事件から昭和11年の二・二六事件に至る一連のテロによって、日本の民主主義はその命脈を断たれた。
「かくて軍閥は、この機に乗じて日本の政治を動かす力を完全に獲得し、これに従う官僚中の指導的勢力は、ますます独裁的な制度を確立していった。政党はまったく無力となり、民意を代表するはずの議会も、有名無実の存在となった。そうして、勢いのきわまるところ、日華事変はついに太平洋戦争にまで拡大され、日本はまさに滅亡のふちにまでかりたてられていった。」(309頁)
この帝国戦争指導部に対する怒りと恨みには実感がこもっている。軍国主義に対する怒りはGHQに使嗾されなくても、本書の執筆者全員に共有されていたはずである。それゆえ、この教科書は「軍国主義」を近代日本が進むべきだった道筋からの「逸脱」ととらえるのである。そして、それを「のけて」、明治初期の福沢諭吉や中江兆民のひろびろとした開明的な民主主義思想と、今始まろうとしている戦後民主主義を直接に繋げようとするのである。そうすることによって、戦後の日本を、実はもともと民主主義的な素地のあった大日本帝国の正嫡として顕彰するという戦略をひそかに採択したのだと私は思う。
これはすでに気づいた人がいるだろうけれど、司馬遼太郎の「司馬史観」と同型のものである。司馬遼太郎は明治維新から日露戦争までの40年、敗戦までの40年、戦後の40年に近代日本を三分割して、第二期を逸脱の時期とみなし、とりわけ敗戦までの昭和の二十年間を「のけて」、前後をつなぐという歴史観を披歴したことがある。
「その二〇年をのけて、たとえば、兼好法師や宗祇が生きた時代とこんにちとは、十分に日本史的な連続がある。また芭蕉や荻生徂徠が生きた江戸中期をこんにちとは文化意識の点でつなぐことができる。」(司馬遼太郎、『この国のかたち』)。
「異胎・鬼胎」としての軍国主義を歴史から切除しさえすれば日本文化の連続性は回復できるという司馬遼太郎の歴史戦略は、多くの戦後日本人に歓迎された。それが歴史的なものの観方としてどれほど学術的検証に耐えうるものかは定かではないが、戦後の日本人たちがこの「物語」を愛したのは事実である。
立場は異なるけれど、本書を執筆した人々の心の中にも、「古き良き日本」と戦後日本を繋いで、そこに連続性を見出そうとする志向は、控えめな仕方ではあったにせよ、存在していたように思われる。その心情は掬すべきだと思う。
しかし、その作業をほんとうに誠実に履行しようとしたら、どうして日本人はある時点で民主主義を自力で育てることを止めて、軍国主義に魅入られるに任せたのかという重苦しく、つらい思想的・歴史的な問いを引き受けなければならない。
残念ながら、敗戦直後の日本人にはそのようなつらく不毛な作業を最優先するだけの余力はなかった。現に、「日本の前途には幾多の困難が横たわっている」のである(437頁)。「この狭い国土にこれだけの人口をかかえて、これからさき日本がはたして自活していけるかどうか」(411頁)さえおぼつかない時代だったのである。ここでいう「国として」も「人間として」も、文字通り「統治機構が崩壊しない」「飢え死にしない」という切迫した意味で使われている言葉だということを忘れてはいけない。食管法を遵守して、配給食糧のみを食べていた山口判事が餓死したのは47年の10月のことである。
とりあえず「これからの日本にとっては、民主主義になりきる以外に、国として立ってゆく道はない。これからの日本人としては、民主主義をわがものとする以外に、人間として生きてゆく道はない。それはポツダム宣言を受諾したとき以来の堅い約束である。」(4頁)
民主主義国になるということは、この時点では、ポツダム宣言の「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する」という厳格な条項を履行するということである。とはいえ、日本人には権利上も事実上も、「除去」を履行する実力はない。だから、「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力」たる軍国主義者は「永久に除去」されるものと決まったけれど、誰が除去され、誰が除去されないのか、それはいかなる基準によって判定されるのかは占領軍の専管事項に委ねられた。そうである以上、日本人にとって「なぜ私たちの社会は軍国主義者とそれに賛同する圧倒的多数の国民を生み出したのか?」という問いは喫緊のものではありえなかったのである。考えても仕方がないし、そもそも考える権利を与えられていないのである。だから、日本人はそれについて考えるのを止めた。
なぜ日本人は民主主義を育てるのを止めて、軍国主義に走ったのか。ほんとうは「民主主義の教科書」はそれを柱にして書かれるべきだった。そのことは執筆者たちにもわかっていたと思う。けれども、上のような理由によって、その法制史的・思想史的主題は忌避された。そしてその代わりに、明治大正までの日本と、戦後日本は「心」で繋がっているという不思議なレトリックが採用されることになった。戦後民主主義を讃えながら、本書では、それは制度の問題ではなく、心の問題だということが強調されているのである。
「では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは、政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの表われであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にある。」(3頁)
さらっと読み飛ばしてしまいそうだけれど、まさにこの命題からこの本は書き始められているのである。民主主義は制度ではない、それは心だ、と。いや、そういう考え方も民主主義についての一つの考え方かも知れないけれど、それはあくまで一つの考え方に過ぎない。デモクラシーは心の問題であると断定したら、「それは違う」と言い出す人がいくらもいるだろう。カントなら「違う」と言うだろうし、プラトンも「違う」と言うだろう。でも、この本はそういうかなり偏った定義から話を始めているのである。民主主義は制度にではなく、心に宿る。そうだとすると、まったく統治モデルが違う国でも、どちらも心においては民主主義であるということがありうる。
国ごとに統治のかたちがどれほど変わっても、「その根本をなしている精神は、いつになっても、どこへ行っても変わることはない。国によって民主主義が違うように思うのは、その外形だけを見ているからである。(...)民主主義の本質は、常に変わることのない根本精神なのである。したがって、民主主義の本質について、中心的な問題となるのは、その外形がどの種類かということではなくて、そこにどの程度の精神が含まれているかということなのである。」(20頁)
これは黙って読み通すことのできない文言である。「いつになっても、どこへ行っても」とはどういうことか。おそらくここで執筆者は「明治大正期の大日本帝国」にも、制度的には不備であったとしても、民主主義の「根本精神」は存在したと言いたいのだ。
しかし、過去の日本に存在した萌芽的な民主主義「精神」の正系として戦後日本の民主主義「精神」を位置づけるというような文言をGHQが許可するはずがないことは分かっていた。だから、執筆者たちは「いつになっても、どこへ行っても」民主主義の精神のあるところは民主主義的な社会なのだと書く他なかったのである。
その三年前まで人々が喧しく呼号していた「國體の護持」という空語を忌避しつつなお日本社会と文化の連続性を顕彰し、敗戦国民の矜持を高めようとすれば、このような言葉づかいを選ぶしかなかったのだ。
誤解して欲しくないけれど、私はこの「屈曲」を批判しているわけではない。この本を書いた人たちはすばらしい仕事をしたと思う。おそらくは「一億総懺悔」と称して過去の日本のすべての制度文物を「歴史のごみ箱」に放り込んで、新しい政治体制とイデオロギーに適応しようとしている世渡り上手の同時代人を苦々しくみつめながら、敗戦の瓦礫の中から、明治以降の先人たちの業績のうち残すべきものを掘り出して、それを守ろうとしたのである。敗戦の苦しみの中で、占領軍の査定的なまなざしの下で、本書の執筆者たちは戦前の日本と戦後の日本を架橋して、戦争で切断された国民的アイデンティティーを再生しようとして「細い一筋の理性の綱」を求めたのである。このような先人を持ったことを私は誇りに思う。
(2019-10-17 09:01)