嫌韓の構造

2019-10-13 dimanche

 今月号(2019年11月号)の『潮』に「嫌韓言説の構造」について一文を寄せた。もう出てだいぶ経つからブログに採録する。前半はこれまで書いたことの繰り返しなので、途中から。


 (前略)日韓の対立を煽る仰々しい大見出しが週刊誌や月刊誌の表紙に印刷される状況が続いている。記事そのものを読む人は数十万でも、新聞広告や電車の中吊り広告を目にする人はその何十倍にもなる。これらの広告は「今の日本では『こういうこと』を言っても構わない」という印象を刷り込んでいる。同型的な言葉づかいが繰り返されるほど「嫌韓を語ることが日本の常識である」という心証が形成されてゆく。
 私はテレビを観ないので伝聞情報だが、民放のワイドショーや情報番組でも、連日韓国についてのニュースが長時間放映され、韓国を口汚く罵るコメンテーターがさまざまな番組で重用されているという。
 だが、仮にも「隣国と断交も辞さず」というような危険な言葉を口にするのであれば、メディアも発言者も、それなりのリスクを背負う覚悟を持つべきだと思う。
「これはできるだけ多くの日本人に周知させるべき知見である」と本気で信じているならば、「ネットで炎上」くらいのことで謝罪すべきではない。「国交断絶が国益を最大化する唯一の政策だ」と信じているなら、謝罪も釈明も要らない、そう言い続ければいい。「50万人の在日コリアンが日本から出てゆく方が国益にかなう」と本気で信じているなら、そう言い続ければいい。職を賭しても、社会的制裁を受けても、それでも言い続けねばならないと思うなら、言えばいい。そういう言葉のせいで失われるものがあり、傷つく人がおり、恐怖を感じる人がいても、それでも「韓国と縁を切ることが日本のためだ」と本気で思っているなら、謝罪も釈明もするな。

『新潮45』のときにも言ってが、非常識で、挑発的で、攻撃的な言葉をあえて発信するなら、編集者も書き手もそれなりのリスクを負うべきである。
『新潮45』では新潮社の社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされた。編集者はこれに一言の反論もせず、事実上の廃刊を受け入れた。
 だが、それでいいのか。仮にも自分の責任で公にした文章である。自分自身と書き手の名誉を守るために、編集長は社長に辞表を叩きつけて、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったのではないか。だが、彼らはそうしなかった。ということは、それらの言説は彼が「職を賭しても伝えたいこと」ではなかったということである。身体を張って、身銭を切ってでも「言いたいこと」なら言えばいい。社長に一喝されたら引っ込めるくらいの言葉なら、はじめから言わない方がいい。
 だが、今の日本のメディアで行き交っている嫌韓言説の大半は「言っても今なら処罰されなさそうだから」というぼんやりした期待のうちに口にされている。だから、処罰のリスクがあったら、たちまち撤回して、謝罪するということが起きる。そして、そのような覚悟を持たない人々のまき散らす嫌韓言説によって、現実の日韓関係は後戻りできないほどに傷ついている。

 政府の対韓国強硬姿勢とそれに追随した嫌韓言説のせいで、韓国人観光客は激減した。韓国人観光客は日本全体では前年同月比で48%減である。九州や対馬の観光事業は壊滅的な打撃を受けた。日本製品の不買運動も始まった。日本車の販売台数は57%減、食料品は40%減、日本産ビールに至っては97%減を記録した。日本政府が外交的カードのつもりで切った半導体原料の輸出規制は、韓国国内での原材料調達システムへの切り替えを後押ししただけで、日本企業はたいせつな顧客を失って終わった。
 実体経済へのこの負の影響について、政府もメディアも一言の弁明もしていない。韓国市場に依存するようなビジネスモデルを採択した事業者たちの「自己責任」だと言ってつっぱねるつもりだろうか。

 嫌韓言説を私はきわめて危険なものだと思っているけれども、それは「覚悟がないまま発信されている」とか「実体経済に影響が出ている」ということだけに基づくものではない。わが国の安寧を損ないかねない「病的なもの」をそこに感知するからである。
 嫌韓言説は表向きは「政治的メッセージ」として発信されている。自分たちの言葉は国益を最大化するために発されているという「愛国的言い訳」がまず用意されている。
 だが、「失われた国益」については先に上げたようなデータがすでにあるが、嫌韓言説によって「日本が得たもの」については誰からも教えられた覚えがない。誰でもいい、誰か「嫌韓のおかげで「現に『こんなにいいこと』があった」という実例を知っているなら、ぜひ教えて欲しい。海外メディアを徴する限り、日本政府の対韓政策によって東アジアの地政学的安定が崩れることを危惧する声はあっても、「よくやった」という言葉は見たことがない。
 さて、国益増大のためでなく、国威発揚にためでもないとしたら、いったいそれは何のための言葉なのか。

「金儲けのためだ」という言い訳が次に出て来る。
「読みたいという人がいるから『心にもないこと』を書き飛ばしているのだ。リアルでクールな需要供給の原理に従ってしていることについて、『覚悟』だの『国益』だの、大人げない批判はやめてくれ」と。これが言い訳の第二層である。
 本気で書いているわけじゃない。金になるから書いているんだ。そう言うと、批判をかわせることを彼らは知っているのである。
 私たちは「どうしてそんなことをするんだ」と問い詰めたときに、「金のため」と答えられると「なんだ、金のためだったのか」とあっさり追及の手を止めてしまう。「そうか、金のためか。だったら、しかたがない。誰もみんな金のために生きているんだから」という妙なもの分かりのよさをみんな発揮して、一気に批判のテンションを下げてしまうのである。
「金のために」というのはある意味最強の「言い訳」である。これは「誤解されかねないことを書いたことを謝罪する」という言い訳とよく似ている。
「誤解」なら、悪いのは「書き手の意図を誤解した読者」である。読解力の低い読者に責任が転嫁され、書き手は免罪される。
「金のため」も言い訳の構造は同じである。ジャンクな商品を欲しがる消費者がいるから、こちらもジャンクな商品を売っているのだ。悪いのは「欲しがる方」ではないのか、と。
「金のため」であることを誇示するために、発信者は意図的な「手抜き」を行う。
 売れ筋の嫌韓言説をもとに「嫌韓テンプレート」を作って、それをなぞって書くのである。新味のない論理、手垢のついた語法、定型的な比喩、何度も孫引きされたデータ、そういう「ありもの」だけで文章を綴ると、そこには「固有名を持った書き手がどこにもいない文章」が現れる。
 以前、担当だった若い女性編集者が「おじさん週刊誌」に転属になったことがあった。「記事書くの、大変でしょう」と同情したら、「簡単ですよ」と言われた。「おじさん読者が喜びそうな書き方のテンプレート」というものがあるのだと言う。それに合わせて書けば、「おじさんが書いたような文章」が出来上がると言われて、びっくりした。そこには厳密な意味での「書き手」がもはや存在しない。テンプレートやアルゴリズムのような「作文機能」だけがあって、それが人間のような顔をして文章を製造しているのである。
「出版人としての覚悟があるのか」と私が力んでみても、薄笑いでかわされるのはそのせいなのである。「職を賭して言いたいこと」なんか彼らにははじめからなかったのである。
「自分が言いたいことでもない言葉」のために、なぜに職を賭したり、社会的制裁を受けなければならないのか? 「文句があれば謝るからさ、いつまでもうるさく言うなよ」と彼らがしかめっ面をするのもなるほど当然なのである。書いたのは「定型文を量産する」テンプレートで、読むのは「誤解する読者」なんだから、「文責を負う人間」なんかどこにもいなくて当然である。
 
 と「種明かし」をされたところで嫌韓言説をこれ以上批判する意欲が失せてしまう。でも、それがこの「金のため」という第二層の言い訳のねらいなのである。「金のため」は隠された本音から私たちの目を逸らすための目くらましなのである。
 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。
「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。
 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。
 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという「保証」があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。
 最初に驚かされたのは三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業から搾取されたものを奪還するのだ」という政治的言い訳を口にした。
 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。
 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。
 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。

 嫌韓言説に対して私が「怒り」よりもむしろ「恐怖」を感じる理由はそこにある。今なら、韓国政府と韓国民を批判するという大義名分さえ立てば、どんなに下品で暴力的な言葉を口にしても、どんな無根拠な暴言でも許され、処罰されることがない。人々はしだいにそう思い始めている。だが、「処罰されない」という保証があれば、要らないものを盗み、ゆきずりのものを壊し、恨みもない人間を傷つけるということが平気でできる人間を私たちの社会は一定数抱え込んでいるという事実を忘れてもらっては困る。その数は皆さんがたが想像しているよりはるかに多いのである。
 嫌韓言説をドライブしている人たちは固有名において、オリジナルな政治的知見を述べたいわけではない。その人が口を噤んだら、もう誰も彼に代わって言う人がいない言葉を語っているわけではない。彼が口を噤んでも、誰か他の人が一言一句同じことを繰り返すことができるような言葉ばかり語っていることからもそれは知れる。
 彼らは金が欲しいわけでもない。「金のためだ」と仮に言ったとしても、それは本音ではない。そう言うと、みんなが「安心」するから、それ以上の追及を止めるから、そう言っているだけである。
 彼らがほんとうにしたいことは他の人がたいせつにしているものを、意味もなく盗んだり、壊したり、傷つけたりすることである。そして、そのような邪悪な衝動に動かされているということに本人も気づいていない。
 いずれ、嫌韓ブームが去れば、彼らはまた「ふつうの人」に戻って、韓国のことなど何も口にしなくなるだろう。そもそもどうして自分があれほど熱心に韓国のことを罵倒していたのか、その理由すら思い出せまい。彼らは別に韓国に用事があったわけではないからだ。中国大陸に攻め入った兵士たちが個人的に中国人に恨みや憎しみがあったわけではないのと同じである。
「大義名分」と「処罰されない」という条件に自動的に反応する人たちがいる。同じ条件が別の国や集団やあるいは個人を相手に成立したら、そういう人たちは同じことを繰り返すだろう。
 日本には言論・表現の自由がある。だが、それはすべての人々にはひとしく極論や暴論を述べる権利があるとことと解してはならない。言論の自由を行使することを通じて対話的で豊かな言論の場を創出しようと願っている人もいるし、言論の自由をもっぱら人を傷つけ、人を恐怖させ、たいせつなものを踏みにじるために道具的に利用する人もいる。そして、残念ながら、その二者を識別できる外形的な指標はない。「ふつうのおじさん」がいつ「非道な刑吏」に変貌するかは事前には予測がつかないのである。私たちにできることは、法律と常識と世間の目と「お天道さま」にきちんと機能してもらって、「今なら何をしても処罰されない」と思い込む人間の出現をできる限り先送りすることだけである。