2019 年の5月に国語科の教員たちを対象に「国語について」の講演を行った。いつもの話なのだけれど、「ボイス」に関してわりとまとまった話をしたので、その部分だけを抜き出して再録する。
査定をしないで、能力を開花させるためには、何をなすべきか。ここからようやく国語教育の話になります。
子供たちが開花させることになる国語の能力とは何か。僕はそれを「自分のボイス (voice) を発見すること」だと思います。子供たち一人一人が「自分のボイス」を発見し、「自分のボイス」を獲得する。極言すれば、国語教育の目的は、その一つに尽きると思います。小学校から大学までかけて、「私は自分のボイスを発見した」と思えたら、その人については、国語教育はみごとな成功を収めたと言ってよいと思います。
最初に、「私のボイス」という言葉を知ったのは映画からです。『クローサー』という映画がありました。映画自体はどうということのない凡作なのですが、その中にこの台詞が出て来た。一人の男(ジュード・ロウ)が町中で若い娘(ナタリー・ポートマン)を拾ってタクシーに乗るシーンがあります。タクシーの中で、ナタリー・ポートマンが「あなた仕事、何してるの?」と聞くと、「新聞記者だ」と答える。そして、「でも、僕はまだ自分のボイスを発見していないんだ」と続ける。その時に「ああ、適切な表現があるな」と思いました。記者にも「自分のボイスをみつけた者」と「自分のボイスをまだみつけていない者」がいて、自分のボイスを見つけない限り、決してほんものの記者にはなれない。
みなさんも多分、「自分のボイス」に出会った経験があると思うのです。例えば、子供のときに、小学校か中学校か、すごく仲のいい友だちが出来て、親友になった。あるいは、もう少し大人になって、はじめて恋人ができた。そういう初めて親友ができたときと、初めて恋人ができたとき、時間を忘れて話しますよね。駅のベンチとか土手の上とかで、それこそエンドレスにずっと二人で話し続ける。自分の話をするし、相手も自分の話をする。そのときに話すことはしばしば「この話、生まれて初めて人にするんだけれど・・・」という前置きで始まりますよね。
これまでに友だちや家族に向かって話したことのある「いつもの話」をまた繰り返すわけじゃないんです。親友や恋人にする話はそういう「手垢のついた話」じゃない。全く新しい、できたての、それまで、一度も脳に浮かんだことがなかったような過去の記憶がふっと生々しく蘇ってくる。あるいは、同じ出来事についてなんだけれど、まったく違う視点から、違う解釈をする。「これまでずっとあの出来事は『こういう意味』だと思っていたけれど、それとは違う、もっと深い意味があったんだ」いうような話を始める。
そして、そういう話はだいたいオチがないんです。勢い込んで話し始めるんだけれど、途中でぷつんと途絶してしまう。でも、それでも平気なんです。そういう頭も尻尾もないし、オチもないし、教訓もないような話が次々と湧き出て来る相手のことを親友とか恋人とか呼ぶわけですから。そういう話をしているときに、人は「自分のボイス」に指先がかかってきたことを知る。
子供たちを見て、「まだ自分のボイスを発見していないな」ということは聞いていると分かります。独特のボキャブラリーや、独特の話し方をしていても、「前にして、受けた話」を変奏して繰り返しているなら、その子はまだボイスは持っていない。オチがあったり、教訓があったり、笑いどころのツボが決まっていたりするような話をしている人間はまだ自分のボイスを持っていない。
ボイスというのは、単なる「声」ではないんです。自分の中の、深いところに入り込んで行って、そこで沸き立っているマグマのようなものにパイプを差し入れて、そこから未定型の、生の言葉を汲み出すための「回路」のことです。
その回路はいろいろなかたちをとります。語彙であったり、音調であったり、リズムであったり、速度であったり、文字列のグラフィックな印象であったり・・・いろいろなかたちをとりますけれども、とにかく自分の中の言語活動を烈しくドライブしてくれる「きっかけ」です。
村上春樹さんは自分の文体のことを「好きだ」とどこかで言ってました。自分の文体は性能のよいヴィークルで、自分を遠くに運んでくれるから、というのがその理由でした。ここで村上さんが「文体」と言っているのは、僕の言う「ボイス」と同じものだと思います。
イタリアの田舎の方に行くと、17世紀頃に作られた古いバイオリンが民家にしまってあったりするそうです。そういうオールド・バイオリンは音は小さいのです。音は小さいのだけれども、イタリアの石造りの家のいくつもの壁を通って、遠くの部屋でも聴き取ることができる。
これも多田先生から伺った話ですけれども、「声を出すときは、オールドバイオリンのような声を出さなければいけない」と。声が低くても、音量が小さくても、遠くにいる人の身体に浸み込むような声というのがある。先生は発声器官の使い方について言っているのではないと僕は思います。そうではなくて、「自分のボイス」をみつけなさいと言っているのだと思う。「自分のボイス」を見つけた人がその「ボイス」で語られた言葉は、できあいのストックフレーズや、何度も話して手垢のついた定型句とは全然手ざわりが違うからです。それはオールド・バイオリンの音色ように、身体に浸み込んでくる。
「ボイス」というのは、自分の中に入り込んでゆく「回路」です。自分の中の、身体の深層に浸み込んでゆく。自分の身体に浸み込むことができないと「自分のボイス」は獲得できない。「身体の中に浸み込む」というのが「ボイス」の本質的な条件なんです。自分の身体の奥深くに浸み込むことで生まれた言葉は、他人の身体にも浸み込む。「ボイス」というのはそういう浸透性を持つ言葉のことなんです。
(中略)
子供たちに必要な国語教育は、漢字を書けるとか、文法がわかるとか、古典が読めるとか、そういうこともとても大事ですけれども、一番大事なのは、自分の中に垂鉛を垂らしていけるということです。自分の中に、言葉が生まれる深層がある。そこまで降りていけるということです。とりあえず、他人のことはどうでもいいのです。コミュニケーションとか、メッセージとか、そういうことは二の次なんです。人が自分の中に深く入っていって、そこから汲み出した言葉は、必ず、他人の深いところにも浸み込んでゆく。自分がしゃべっていて、すとんと「腑に落ちた」話は、コンテンツの論理性とか整合性とかとは無関係に、他人が聴いても「腑に落ちる話」なんです。自分の頭じゃなくて、身体が納得できる説明なら、他人の身体も納得してくれる。
国語教育の責務は、子供たちが「自分のボイス」を発見する、長く、苦しいエクササイズを支援することだと思うのです。その作業は周りにいる誰かと相対的な優劣を比較したり、出来不出来を査定したりするものではない。一人一人の問題なんですから。
でも、「自分のボイス」を獲得した子は、すごく生きやすくなると思います。何よりも、自分が複雑な人間だと分かるから。自分の中に複数の層があって、自分のボイスというのは本質的に「多声的 (polyphonic)」なものだと分かる。幼児の泣き声も老人の繰り言もおばさんのおしゃべりも少年の照れも知識人の衒いも、自分の中には全部揃っている。それらはすべて自分が使うことのできるリソースとして自分の中にある。そんな言い回し生まれてから一度も使ったことがない・・・というような言い回しでも、僕たちは滑らかに発語できる。
子供たちも実際には「自我は首尾一貫していなければならない」という縛りで苦しんでいるんです。親からの「あなたはこういう人間だから」という決めつけや、学校で仲間の中で決められて押し付けられた「キャラ」によって、言動が首尾一貫していることを求められる。そのことに子供はうんざりしている。でも、どこかで「アイデンティティーというものは一貫していなければならない」と思い込まされている。そんなの無理なんです。少し自分の中に深く入り込んでゆくと、そんな薄っぺらなセルフイメージとはまったく相容れない感情や思念や記憶が渦巻いているわけですから。子供たちの貧しいセルフイメージにうまく収まり切らない過去の経験や感情は抑圧されて「なかったこと」にされている。それが深層の奥底に黙って沈殿している。
「自分のボイス」を発見するというのは、これまで自分で自分について抱いてきたセルフイメージや、周りの人間に向かって宣言していた「オレはこういう人間だ」という社会構築的なアイデンティティーとはぜんぜん違う要素が自分の中に豊かに存在することを知るということです。自分は複雑な人間なのだということを知るということです。
生物の進化というのは、複雑化ということです。単細胞生物の時代から 60 兆の細胞によって構成された多細胞生物にまで進化してきた。進化が複雑化であるなら、個人の成長も複雑化であるに決まっています。
多くの人は成長というのをアイデンティティーの確立のことだと思っている。「自分が何ものであるかが、よくわかり、それを過不足なく表現できるようになること」が成長だと思っている。そんなわけないじゃないですか。まるで逆ですよ。成長するというのは複雑になるということです。
理由は簡単で、複雑な生物の方が生存戦略上有利だからです。複雑な生き物の方が、複雑な状況に対応する能力は高い。単細胞生物は捕食者から逃れ、餌を食べる以上のことはできない。そもそもそれ以外の入力には対応できない。でも、人間たちを取り囲む環境は複雑です。その環境の中で適切にふるまうためには、自分も複雑になってみせるしかありません。
どんな場合でも「自分らしく」生きたいというような言い方を好む人がよくいますけれど、どんな複雑な状況にも単純に対応するというのは、知的負荷は少ないですけれども、それは環境の変化に適切に対応することと逆方向に退化していることです。
成長とは複雑化のことである。日本の学校教育はこの自明の前提を見落としているように見えます。「もっと複雑になりなさい」ということをなぜ教育目標に掲げないのか。「自分の心と直感に従う勇気を持つ」ことも、「そのうち何とかなるだろう」も、「自分のボイスを発見せよ」も、「複雑化しろ」も、日本の学校では教えられない。逆に、恐怖心を持つこと、未来の未知性に怯えること、定型的な言葉づかいを身につけること、アイデンティティーにしがみつくことを教えている。逆じゃないですか。
学校教育の目標は子供たちを成長させることであり、成長とは複雑になることです。だとしたら、教師の仕事は、子供たちが複雑化することを支援することに尽くされる。子供たちが、親に見せる顔と友人に見せる顔と教師に見せる顔が全部違う。そのつど、その環境に最適化して、別の人間のような言葉づかいをして、別の人間のようにふるまうことがごく自然にできる。だって、それらは「別の人間」ではなくて、「全部自分」だから。それが成熟ということだと僕は思います。
(2019-09-02 13:48)