『ネット右翼とは何か』書評

2019-08-16 vendredi

『ネット右翼とは何か』(樋口直人ほか、青弓社、2019年)の書評を『赤旗』に頼まれたので執筆した。そのロング・ヴァージョンを掲げておく。

 言葉は流布しているが、一意的な定義は確定していない。だから「ネット右翼とは何か」という本が書かれることになる。
 マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』と仕掛けは同じである。ウェーバーは「資本主義の精神」が何であるかについて定義しないまま本を書き出している。そういうものがあることだけは感知されるので、その具体的な「例示」を羅列する。そうしておけば、本を書き終わることには概念の輪郭が刻めるだろうという見通しである。
 それでよいと私は思う。新しい事態を指示する新しい概念については、さしあたり際立った例示が示されれば十分である。
 本書では「ネット右翼」についてのいくつかの例示が示されている。「ネット右翼とは何か」について、それぞれの研究者がそれぞれの研究成果をテーブルに並べている。論者たち(8人いる)の間で概念の定義やその歴史的文脈について完全な合意があるわけではない。けれども、研究者がお互いの仕事に敬意を払っていることはよく伝わってくる。
 本書から私はネット右翼の社会的出自や属性については有用な知見をいくつも得ることができた。とりわけ私が気にかかったのはネット右翼の語り口の定型性である。
 私は語り口が定型的であることは書き手の知性の否定的指標だと思い込んでいたが、話は逆らしい。この定型性は意図的に構築されているのである
 定型的な言葉づかいを繰り返しネット上にまき散らすことは「特定のトピックを際立たせるための効果的な戦略」であり、botを利用すれば、特定の政治的争点について、イデオロギー的には親和的だが、それまで組織的には無縁だった人たちを結びつけて、彼らを巨大な「世論選好のクラスター」にまとめあげることができる。
 安倍政権の政治的成功はこの「クラスター形成」にあるという指摘には強く胸を衝かれた。
 たしかに、自らアジテーションの現場に立つと、定型的な言葉づかいを繰り返すほど聴衆は「盛り上がる」ということは実感としてはよく分かる。ふだん私が教壇で話しているようなややこしい話を演説会場でしても、さっぱり受けない。それは、私が聴き手に自分のそれまでのものの考え方を「棚上げ」して、しばらくの間「中腰」に耐えてもらうことを求めるからである。
 しばらくの判断中止に耐えうることは知性的であるための重要な条件だと私は思うけれど、それはいまの日本の状況では政治的成功を断念することにほとんど等しいのである。
 ということを改めて思い知らされた。