世阿弥とマーク・トウェイン(おしまい)

2019-07-12 vendredi

 世阿弥とマーク・トウェインについて「明日続きを書きます」と予告してから、5カ月も経ってしまった。書くつもりはあったのだが、他のことに気を取られて世阿弥まで手が回らなかったのである。さいわい、本日、湊川神社神能殿で映画『世阿弥』の上映会があり、私は25分間の前説を担当することになっている。どうせメモを作らなければいけないのだから、それをブログ記事として公開しておけばよい。
 世阿弥はどうして「日本のマーク・トウェイン」なのか?という話をしているところだった。
 マーク・トウェインが「アメリカの国民的分断を和解に導き、死者たちを鎮魂する物語」の鼻祖であるということはもうお分かり頂けたと思う。フィッツジェラルドも、ヘミングウェイも、西部劇映画も、エルヴィスのロックンロールも、国民を分断している「壁」を打ち砕いた功績によって「オールアメリカン」なものとなった・・・というお話を先にした。
 日本でその役割を果たしたのは何か。
 古くは『古事記』がそうだ。日本列島に渡来してきた人たちと先住民たちの間の対立と和解のドラマは「天つ神・国つ神」の神統記や「国譲り」神話によって語られている。もちろん『平家物語』がそうだ。そして、世阿弥作の能がそうである。
 どうして世阿弥が国民的分断の和解の物語を書かねばならなかったのか。それについては観世家の系譜について少し触れておく必要がある。

『世子六十以後申楽談儀』には、観阿弥が伊賀の服部氏一族の末裔だという記述がある。
 1962年に伊賀市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)には、伊賀・服部氏族の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという系譜が含まれていた。この記載に従えば、観阿弥は正成の甥ということになる。後に発見された播州の永富家文書を傍証にこの記載を真とする意見がある。
 しかし、文書の信憑性を巡っては実は異論がある。梅原猛は『うつぼ舟II』で観阿弥と正成の関係を主張したが、能楽研究者の表章はこれを「空論」と退け、伊賀観世系譜が後代作成の「偽文書」と論じた。
 専門家ではないので、楠木正成と観阿弥が実際に伯父甥の関係であったのかどうかについて私には学術的な論拠を挙げて判定することができない。だが、いずれにせよ伊賀の服部家と観世家の間に何らかのかかわりがあったことは間違いない。

 伊賀の服部家と言えば、ご案内のように、服部半蔵を出した伊賀忍者の家系である。
 初代服部半蔵は伊賀忍者として室町十二代将軍足利義晴に仕えたが、のち主を替えて三河の松平清康に仕えた。清康は徳川家康時の祖父である。だが、徳川家に仕えて伊賀同心を率いたのは三代服部半蔵正就までで、四代正重桑名藩で二千石の扶持を得て、代々家老職を幕末まで務めた。
 幕末では堂々たる侍になっていたが、室町時代末期までは数十人の伊賀衆を引き連れて、主君を替えて、そのつど特殊な任務を果たした一種の「傭兵集団」だったのである。
 服部氏はいわゆる「悪党」に分類される。
 歴史的術語としての「悪党」が意味するのは、発生的には、荘園体制の崩壊期に、本所(名目上の荘園領主である京都の権門勢家)の支配権を脅かした在地領主(荘官)のことである。のちに「悪党」概念は拡大されて、海民、山賊、蝦夷、さらには遊行の芸能民や勧進聖や牛飼童たちまでも含むことになった。つまり、荘園公領制にうまく帰属できない人たちは総じて「悪党」と呼ばれることになったのである。
 外部性を記号的に表象するために彼らは「異形」をまとった
「異形」の歴史的意味については網野善彦『異形の王権』に詳しい。あるいは「異形な棒ー鉾を担ぎ婆裟羅風の派手な衣装をつけ、高下駄をはき」(67頁)、あるいは「鹿杖(かせづえ)」をつき、あるいは笠をかぶり、あるいは成人しても童名を名乗り、童形を続けた(京童や八瀬童子や牛飼たちがそうである)。それは彼らが公秩序の外部にあり、ある種の呪術的な力を具えた「聖なる存在」だったことの徴であると網野は論じている。
 この「異形の人」たちが跳梁跋扈したのがまさに室町末期、後醍醐天皇の建武の新政の時であった。建武の新政のさなかに発令された法令のうちに内裏に「異形の輩」が出没していたことが記されている。そこには覆面をつけ、笠をかぶり、高下駄を履くなどの風体のものたちが「塵を捨て置き不浄を現すこと」を制止すべきとの条がある。天皇の居所にゴミを捨て、糞便を散らかす者たちが出没していたことが後醍醐の新政の異様な性格を表わしている。この時期政権中枢には「聖俗いずれとも判断のつかない者ども」が蝟集していた。その理由について網野はこう書いている。
「建武新政とともに、突如として『婆裟羅』の風が噴出する如く世の表に現れわれ、広く世間に風靡していった理由はまさにここになる。それは建武政府の本質と深く関わる現象であった。後醍醐は文観を通じて『異形異類』といわれた『悪党』『職人』的武士から非人までをその軍事力として動員し、内裏にまでこの人々が出入する事態を現出させることによって、この風潮を都にひろげ、それまでの服制の秩序を大混乱に陥れた。」(『異形の王権』、217頁)

 「異形のもの」というカテゴリーで見る時に、間違いなく「悪党」楠木正成と「芸能民」観阿弥世阿弥は同類である。
 楠木正成は後醍醐天皇の呼びかけに応じて、河内で挙兵し、赤坂城の戦い、千早城の戦いで勇名を馳せて、建武の新政では顕官に累進し、湊川の戦いで弟正季と刺し違えて自害するが、もとは「出自不明」の「悪党」である。
 元弘3年(1333年)生まれの観阿弥は三歳のとき(建武3年/1336年)の湊川での正成の死を知った。世阿弥が観阿弥に連れられて今熊野での上覧能の舞台に登場し、その美貌によって足利義満の目に留まったのは、永和元年(1375年)、世阿弥12歳のときである。湊川の戦いから40年後である。正成を滅ぼしたのは義満の祖父尊氏である。この舞台においてはいわば敵同士が向き合ったことになる。だから、このときに観阿弥は思うところあって、その出自を足利義満には明らかにしていない(「父母の家筋は鹿苑院殿(足利義満)の前に秘し」と「伊賀観世系図」にはある)。梅原猛はその理由を「一つは観阿弥が『川の民』と言われた人たちと関係ある家であったからである。もう一つは南朝と関係ある家であったからである」としている。(『うつぼ舟II 観阿弥と正成』)
 世阿弥は義満の寵愛を受け、二条良基に就いて仏典漢籍や歌道を学んだ。
 のちに世阿弥は『平家物語』に取材した作品を多く書いた。『屋島』『實盛』『忠度』『敦盛』『清経』『鵺』の六曲が世阿弥作と認定されているが、そのほかに現行200曲には『船弁慶』『橋弁慶』『安宅』『正尊』『大原御幸』『経正』『大仏供養』『景清』『俊寛』『紅葉狩』『二人静』『藤戸』『朝長』『盛久』『頼政』『千手』『七騎落』『兼平』『巴』『鞍馬天狗』『俊成忠度』『通盛』など枚挙に暇がない。
 これらが源平合戦という日本を分断した戦いの死者たちを悼む「国民的な和解の物語」である所以についてはこれまで縷々述べて来たのでもう繰り返さない。
 だが、世阿弥にとって直近の「戦い」はもちろん南北朝の戦いだった。南北朝の並立は1336年から1392年まで57年間続いた。63年生まれの世阿弥はその前半生を二人の天皇が京都と吉野に並立するという深い対立と分断を生きたのである。
 芸能は「リアルタイムでの政治的事件は取り扱わない」というのは日本の古典芸能の基本ルールである。事件を扱う場合も時代をずらしたかたちで虚構化する。だから、それが直近の国民的分断の出来事であり、そこで斃れた死者たちを弔うことが喫緊の霊的課題であったにもかかわらず、能には元弘の乱と南北朝の争乱を扱った曲がない。唯一の例外は、楠木正成・正行の桜井の別れを主題にした『楠露』という曲だが、これは後年の「新作能」である(明治31年/1898年)。それも遠い曲で今はほとんど上演されることはない。
 世阿弥の青年期に南北朝の争乱が終わり、勝敗が確定した。和解と鎮魂の物語はそれから「起きた時代をずらして」書き始められることになる。
 それ以前に、観阿弥は歴史的事件に取材した能を書いていない。現在、観阿弥作として伝わっている曲は『自然居士』『卒塔婆小町』『通小町』の三作だけである。いずれも名曲であるけれど、歴史的現実とは触れ合わない。クリエーター観阿弥にはそのような政治的関心はなかったのか、あるいは「まだ」そのような物語を書くだけ状況が熟していなかったか、いずれであろう。楠木正成の甥が「政治的関心がない」ということは状況的にはありえない。だから、これは「敗者の物語」を書くことについて観阿弥のときにはまだ強い抑制が働いていたと推理してよいだろう。
 しかし、世阿弥のときには南北朝の争乱は終息し、すでに勝敗は決した。敗者の代表である楠木正成の血族としての自覚があれば、世阿弥がこの争乱によってもたらされた国民的分断を癒すために、敗者たちのために一掬の涙を注ぐことを芸能民の使命であると考えたのは当然のことである。
 そのときに『平家物語』が素材として選好されたことには十分な理由がある。なによりそれは平家物語』が敗者の文学だからである。能が源平合戦について扱うのは平家の人々と源義経だけである。能は敗者の物語をしか語らないのである。
 もう一つは敗者である平家が「海民」の系譜を継ぐ一族であったことである。これまで繰り返し書いてきたように、源平合戦は「海部」と「飼部」という二つの職能民の間のイニシアティヴ争奪戦であった。そして、海民が敗れた。海民は、悪党や芸能民や遊女や巫覡や勧進聖と同類である。そして、観阿弥が最初に座を持った伊賀の浅宇田の地はまさに「川の民」の住まうところであった。そこは理性と秩序が支配する世界とそれが及ばぬ「外部」との境界である。
「川は自然の境界である。その境界で呪的な行為、即ち悪魔祓いをしたことから"芸能"は生まれたのである。」(梅原猛、『うつぼ舟II 観阿弥と正成』)
 川の民として始まった能楽の芸能民が海民である平家に自分たちの通じる運命を感知するのは、当然のことなのである。
 
 しかし、無縁者たちは独特のかたちで現世の秩序の中枢とのかかわりを持っていた。
 無縁者たちは生業を営むために広範囲で移動しなければならない。だから、関渡津泊・山野海河・市・宿の自由通行権が必須であった。そして、彼らにそれを与えていたのは天皇であった。多くの職能民が「供御人(くごにん)」として形式的には天皇直属のものとなっていたのはそのせいである。
 後醍醐天皇は元弘の乱において、呪法僧や異形異類の悪党たちを総動員したのだが、それができたのは無縁者たちに対する支配権は平安・鎌倉期には天皇に掌握されていたからである。
 後醍醐天皇の時代は「異形」の無縁者たちが歴史の表舞台に登場した例外的な一瞬であった。そして、それゆえに建武の新政が破綻するや、この「聖なる異人」たちは一転して社会的差別と迫害の対象となった。
 網野は建武新政の終わりに「王権-天皇の地位のあり方そのものの本質的変化の一端」を見る(239頁)。
「古代以来、少なくとも鎌倉期までの天皇に多少ともうかがわれた『聖なる存在』としての実質は南北朝動乱を通じてほとんど失われ、大きく変質したといってよかろう。そして後醍醐によって実現された『異形の王権』の倒壊がその決定的な契機であったことは間違いない。」(同)
 それはまた公秩序の外部にある存在一般(南都北嶺をはじめとする大寺社)の威信の低落、権威の喪失をも意味していた。それは「聖なる権威」の保護下にあった「聖なる無縁者」たちの地位の失墜をもたらすことになった。
「こうした『聖なるもの』-天皇・神仏の権威の低落は、それに結びつき、その『奴婢』となることを通して、自ら平民と区別された『聖』なる集団としての特権を保持していた供御人、神人、寄人などの立場に、甚大な影響を与えたことはいうまでもない。」(239-240頁)
 無縁者たちのうちでも、商工民たちは世俗的な権力(将軍、守護大名、戦国大名)などに新たな特権の保証人を求めて、その職能を通じて、富の力によって「有徳」になる道を切り開き、生き残ることができた(中世の自治的な都市は彼らが形成した)。
 しかし、新しい政治勢力に「実利」をもたらす手立てを持たない無縁者たちの前には「有徳者」への道は開かれなかった。
「その職能の性質から、天皇・神仏の『聖性』に依存するところより大きく、このような実利の道に進みえなかった一部の芸能民、海民、さらには非人、河原者などの場合、職能時代の『穢』との関わりなども加わって、ここに決定的な社会的賤視の下に置かれることとなった。『聖なる異人』としての平民との区別は、差別に転化し、『異類異形』は差別語として定着する。まさしくこれは聖から賤への転換にほかならない。」(240-241頁)
 芸能民たちはそれまでの保護者であったの下に天皇やあるいは寺社から離れて、将軍や大名の庇護下に入ることになった。観阿弥・世阿弥が足利将軍の庇護下に入ったのはまさにそのような歴史的文脈のうちにおいてだったのである。
 世阿弥は後醍醐天皇とそれを支えた異形の悪党たちの政治的衰微、そして、無縁者たちの無権利状態への頽落という大きな「流れ」の中で、いわば「同族たちへの惻隠の心」に駆り立てられて能楽を完成させた。そして、能楽は以後「権力者に庇護されて生き延びる敗者の芸能」という逆説的なポジションに身を置くことになったのである。

というような話を今日はする予定。