『真実の終り』

2019-05-10 vendredi

「真実の終わり」(ミチコ・カクタニ、集英社、2019年)の書評をある雑誌から頼まれた。たいへん面白い本だったので、すぐに書評を書いた。書き終えてから原稿依頼メールを見たら「800字」とあった。
 3000字近く書いてしまっていたので、しかたがないので、短くしたものを雑誌に送った。せっかく書いたものなので、ロングヴァージョンをここに上げておくことにした。
 ソーカル=ブリクモンの『知の欺瞞』はフランスの哲学者たちがどうしてあれほど分かりにくく書くのかについての憤激に動機づけられたものだったけれど、『真実の終り』はそれから20年後に何が起きたのかを教えてくれる。


 どうして、世界中の政治指導者たちが同時多発に「真実」に対して冷笑的になったのかずっと不思議だった。嘘つきというのはもともと器質的なものである。病的な虚言癖の人間は一定の比率で必ず登場する。だから、「病的な嘘つきがもたらす災厄からどうやって逃れるのか」という実践的課題に、早いものは小学生のうちに直面した。そして、長く地道な訓練を通じて、子どもたちは長じてから詐欺師やデマゴーグに簡単には騙されないように市民的成熟を遂げたのである。
 だから、「真実」を軽んじる人たちいがいること自体は驚くには当たらない。
 驚くべきは、そのような人たちがいま世界各国で同時多発的に政治的指導者やオピニオンリーダーになり、多くの国民に支持されているということの方である。
 これまで生き延びてきた集団の多くは「何が起きたのかについてまず集団的な合意を形成し、それに基づいて過去の政策の成否を精査し、これからの政策を起案する」という意思決定プロセスに従ってきた。それが生存戦略上有利だったからだ。
 だが、今、アメリカや日本やロシアや中国でも起きていることはそうではない。「真実」に対してはシニカルで懐疑的であることが知的な構えであり、反対派との合意形成には時間を割かず、味方の頭数を集めて、数を恃んで一気にことを決するというのが「当世風」になった。
 そういうスタイルが好きだという人はいつの時代にもいたから、今もいることに不思議はない。でも、それが世界を覆い尽くすまで膨張するのは「変」である。どうしてこんなことになったのか。

 ミチコ・カクタニはこれをポストモダニズムの頽落態だと診断する。これは驚嘆すべき知見である。
 たしかに、ポストモダニストたちは「直線的な物語としての歴史」も「普遍的で、超越的なメタな物語」も「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んだ。そのようにして歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのはポストモダニズムの偉業である。これについては高い評価を私も与えることができる。
 しかし、この「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張の要請は半世紀ほどの後に暴力的な反知性主義者の群を産み出した
 彼らはこういうふうに推論したのである。

(1) 人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。(これはほぼ正しい)
(2) それゆえ「人間の知覚から独立して存在する客観的実在」(37 頁)は存在しない(言い過ぎだが、そう言えなくもない)。
(3) 従って、すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、そうである以上すべての世界観は等価である(これは違う。原理的には私たちが抱く世界像はすべて臆断だが、それにしても程度の差というものがある)
(4) 万人は「客観的実在」のことなど気にかけず、自分の気に入った自民族中心主義的妄想のうちに安らぐ権利がある。

 こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がくるりと一回転して全肯定されることになった。
 まさか、自らの理説がこんなトンデモ解釈を引き出すことになるとは、レヴィ=ストロースも、ラカンも、デリダも想像だにしていなかっただろう。
 だが、トランプ大統領の就任式に集まった人々の数について報道官が「それとは違う事実たち」(alternative facts) という言葉を使った時に、彼らがそういう「言い回し」を大学の文学か哲学の授業で聞き齧った可能性に思い至るべきだった。

 もう一つポストモダニズムが破壊したのが言語への信頼であるとカクタニは書いている。
 デリダの哲学をアメリカに導入したのはポール・ド・マンとJ・ヒリス・ミラーだが、彼らはすべてのテクストは「不安定で還元不可能にまで複雑であり、読者や観察者によってますます可変の意味が付与される」(44 頁)として、テクスト解釈における「極端な相対主義」を宣布した。

「何だって、どんな意味でも有り得るのだ。作者の意図は重要ではないし、そもそも識別できない。明白な、あるいは常識的な解釈などない。なぜならばすべてが無限の意味合いを持つからだ。つまり、真実などというものは存在しないのだ。」(44 頁)

 だが、テクストの一意的解釈を退けたポール・ド・マンは大戦中に親ナチの雑誌に反ユダヤ主義的なテクストを書いていた。その史料が発掘されたときに、マンを擁護しようとする人々は、すべてのテクストは多義的解釈に開かれており、それゆえマンはその反ユダヤ主義的言説を通じて暗に反ユダヤ主義を批判していたという解釈も可能であると弁じた。
 いや、その通りである。
 たしかに、あらゆるテクストは無限の解釈に開かれており、そこに単一の、首尾一貫した意図を見出そうとすることは難しい。しかし、あらゆる言明について「ほんとうに言いたかったこと」と「人々が解釈した意味」の間には乗り越えられない深淵が広がっているということを口実にして、わが国の失言政治家たちが「誤解を招いたとすれば遺憾である(ただし、私の真意を取り違えたのは受け手の責任である)」と日々言い逃れていることを忘れてはならない。彼らは「ほんとうは何が言いたかったのか」について、事後的に無限の修正を自分に許すことを通じて、システマティックに政治責任を免れているのである。
 私たちは「真実」がひどく乱暴に扱われる時代を生きている。これは残念ながら間違いない。
 どうしたら、再び「共通の現実認識」と「常識」に立ち戻ることができるのだろうか。
 原理的には、手立てがないし、そもそも「共通の現実認識」や「常識」に立ち戻るべきだという言明には何の「真理」の裏付けもない。私がそう思っているというだけの話である。
 それでも、「理屈ではそうかもしれんが、いくらなんでもそれは極論でしょう。非常識ですよ」というくらいのことは言わせて頂きたいと思う。そんなこと言われても先方は痛くも痒くもないと思うけど。