2019年5月3日 1947年5月3日に憲法が施行されてから、72年目になる。
今年は先日読み終えて、たいへんに衝撃を受けた加藤典洋さんの『九条入門』(創元社)の所論の一部を紹介して、私見をいささか付け加えたい。(以下敬称略にします。すみません、加藤さん)
先日の神戸新聞のインタビューでも、「憲法一条と九条はワンセット」という加藤の知見に基づいて天皇制について話したのだけれど、その部分はカットされてしまったので、それも含めて。
天皇制の存続は戦争末期においてアメリカではほとんど論外の事案だった。
1945年6月29日(終戦の6週間前)のギャラップによる世論調査では、天皇の処遇をめぐって、アメリカ市民の33%が処刑、37%が「裁判にかける・終身刑・追放」に賛成で、「不問に付す・傀儡として利用する」と回答したものは7%に過ぎなかった。
そのような世論の中でGHQによる日本占領は始まった。
法理的には、日本国憲法を制定する権限はGHQではなく、それより上位にある極東諮問委員会(のちの極東委員会)に属した。
委員国は英・米・仏・ソ・中華民国・オランダ・オーストラリア・ニュージーランド・カナダ・フィリピン・インドの11カ国。極東国際軍事裁判(東京裁判)の判事の選任についてもこの11か国が権利を持っていた。
メンバーの中では、ソ連、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンが天皇制の存続につよい警戒心を示していた。
ということは、極東委員会主導で日本国憲法が制定された場合には天皇制の廃絶が明文化され、東京裁判が開かれた場合には天皇が被告席に立たされる可能性があったということである。
ドイツやイタリアでは、憲法がゆっくり時間をかけて検討され、起草されたが、日本では極東委員会もアメリカ国務省も知らないうちに(憲法制定権限をもつ極東委員会が発足する寸前に)1946年3月6日に天皇制の存続と戦争放棄という驚嘆すべき条項をもつ「日本政府案」(起草したのはGHQ、日本政府に開示されたのは2月13日)が発表された。
極東委員会のメンバーが日本視察を終えて2月1日に横浜を離れると同時に草案の検討が始まり、彼らが太平洋を横断して、サンフランシスコに到着した2月13日に憲法は書き上げられていた。そして、「もう誰にも手出しできない状況」(72頁)が生まれていた。
GHQには憲法制定権はないから、建前上これは「日本国民の自由に表明せる意思に従い」起草されたものである。
それにしても、なぜマッカーサーは憲法起草をこれほど急いだのか?極東委員会や国務省の裏をかくような真似をしたのか?
加藤典洋によると理由はきわめて実利的なものである。
天皇制を利用すると占領コストが劇的に軽減することが確かだったから。
天皇制を廃したり、天皇の戦争責任を裁判で追及した場合には、絶望した一部の日本軍兵士が占領軍に敵対し、多数米軍兵士の長期駐留が必要になる可能性があった。
マッカーサーの知恵袋だったフェラーズ准将は知日派の情報将校だったが、つよく天皇の免罪を求めた覚書をマッカーサーに提出している。
「無血侵攻を果たすに際して、われわれは天皇の尽力を要求した。その命令によって700万の兵士の武装解除が可能になった。したがって、その彼を戦争犯罪のかどで裁けば、日本国民の目には、背信に等しいものと映るであろう。統治機構は崩壊し、たとえ武装解除されているにせよ、全国的反乱は避けられない。何万人もの民事行政官とともに大規模な派遣軍が必要となり、占領期間は延長されざるを得ないであろう」(83頁)
マッカーサーはそのような事態を全く望んでいなかった。
彼には短期間のうちに日本軍国主義の一掃と、社会の民主化をなしとげ、米軍兵士たちを無傷で帰郷させ、日本占領に奇跡的成功を収めた「卓越した行政官」という声望を求める個人的理由があった。
彼は1948年の大統領選挙に共和党の大統領候補に指名されることを狙っていたからである。
そのためにはどうしても「昭和天皇の免罪と助命をかちえて、天皇の信頼を獲得して、その力を利用して占領統治を成功させる」(73頁)必要があった。
マッカーサーにはタイムリミットがあった。
48年には彼は68歳になる。現役大統領のトルーマンは4歳年下、48年にトルーマンが後継指名し、52年に共和党の大統領候補指名を得たドワイト・アイゼンハウアーはかつてマッカーサーの副官だった軍人で、10歳年下である。
現役軍人は大統領になれない。
48年の大統領選の準備のためには本国に帰国しなければならない(マッカーサーは太平洋戦争の前からほとんど帰国したことがなかった)。華々しい凱旋帰国のためには早期の占領成功が必須だった。
そのために、1947年からマッカーサーはアメリカ国内向けに繰り返し「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」という声明を出し、本国へ対して「日本の占領をすみやかに終わらせることを望む」メッセージを送り続けた。
しかし、「大勝」という大方の予想を裏切って、48年3月のウィスコンシン州での予備選挙でマッカーサーは惨敗を喫し、いきなり指名レースから脱落してしまう。
それはまだ先の話で、1946年2月時点でのマッカーサーは天皇制を梃子に国内秩序を完全にコントロールすることと、アメリカ国内向けには「天皇制があっても、日本の軍国主義は決して復活しない」と保証することという二つの要請を同時的に応えるというアクロバシーを演じる必要があった。
そのためには、極東委員会が憲法制定権を行使して、ゆっくり時間をかけて憲法草案(これは天皇制を廃絶するものである可能性があった)を検討する作業を始める前に、すべてを片付けねばならない。
そのときにマッカーサーに「天啓」のように訪れたのが「戦争放棄」というアイディアであった。
天皇を免罪するけれども、天皇の存在が世界の平和を脅かすリスクになる可能性はゼロである。なぜなら、日本は戦争を放棄するからである。
天皇の免罪という「非常識な」政策を正当化するためには、それに釣り合うほどに「非常識」な政策によって、均衡をとる必要があった。
「それは、現人神である天皇から大権を剥奪する、そして戦争犯罪人である天皇から大罪を免じる、という国内社会と国際社会の双方で、二様に『神をも恐れぬ』行動に出ることと釣り合い、相殺し合う、もう一つの『神をも恐れぬ』、『極端な』条項でなければならない」(104頁)
天皇制の存続につよい懐疑のまなざしを向ける極東委員会の国々(ソ連は天皇制そのものの廃絶を求め、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンは天皇制による軍国主義の復活を恐れ、中華民国は天皇が裁判で訴追されないことに不服を申し立ていた)に「天皇制は残す」という決定を呑み込ませるためには、「極端な戦争放棄条項」、すなわち個別的自衛権すら放棄するという条項を憲法に書き入れるしか手立てがなかったのである。
ここまでの加藤の行論には反論の余地がないと思う。
憲法九条二項は憲法一条と「バーター」で制定されたという加藤の論には説得力がある。
とくに私が興味を持ったのは、この「極端な戦争放棄」に当時の政治家や憲法学者たちが熱狂したという点である(その多くは後になって「九条二項には個別的自衛権を放棄したものではない」と掌を返したように解釈を覆したが)。
加藤はこれを日本人が病んだ「道義心の空白」(193頁)によって説明する。
敗戦によって日本がそれまで道義的価値の源泉として見上げてきた(少なくとも制度的にはそう強制されてきた)天皇がその地位を失った。
天皇制は戦争責任を免れるかたちで存命することになった。
それを喜んだ日本人もたくさんいただろう。けれども、天皇がもはや国家の道義的な中心ではなくなったという事実に日本人は深い空虚感を感じたはずである。
いったいこれから先、日本人は何を道義とし、モラルとして生きていったらよいのか?
その「藁をもつかむ」状態にあった日本人に提示されたのが、戦力を持たず、交戦権を否定し、全面的な戦争放棄を実行して世界に類のない平和国家をめざすのだという憲法九条の「物語」である。
「世界に類のない」というところが肝心なのである。
世界に冠絶する大日本帝国が瓦解した後に、それでも日本人はなんらかのかたちで「世界に類をみない国」でありたいと切望した。
加藤はこのときに日本人を巻き込んだ熱狂についてこう書いている。
「自分たちの空っぽの道義の『空白』には、いま、そのようなものこそが、必要なのだ、自分たちはそれをこそ求めていたのだ、と考え、その条項を全面的な賛同の気持ちで受けいれることにした。このとき起こったことが、そうした側面をもっていたとしたら、それは、戦争放棄の『光輝』によって行う、天皇の民主化の『空白』の"埋め合わせ"(代償行為)だったのだろうと私は思うのです。」(195頁)
ここまでの論を見ただけで、なぜ先帝が「鎮魂と慰藉」という「象徴的行為」を「象徴天皇」の本務であるとして、あれほど強調されてきたのか、その理路が逆方向からわかってくる。
天皇陛下の象徴的行為による国民の道義性の「底上げ」の努力は、改憲の運動が進み、憲法九条の「道義性」が減殺されてゆくプロセスとほぼ並行している。
かつては「憲法一条の没道犠牲」を「憲法九条の道義性」が補償していた。
いまは「憲法九条の道義性の空洞化」を「憲法一条の道義性の充実」が補填しているのである。
日本国が国際社会に示し得る「道義性の総量」は昔も今も変わらない。
変わったのは「何がわが国の国民的道義性を担っているのか」である。
という話を神戸新聞にしたのだけれど、変な話過ぎたので、記事にはならなかったので、ここに採録するのである。
(2019-05-03 13:23)