『身体の言い分』文庫版まえがき

2019-04-17 mercredi

 池上六朗先生との対談『身体の言い分』が文庫化された。
 ボーナストラックとして新規に対談を一つ加えて、文庫版のための「まえがき」も書いた。
 今朝の毎日新聞にけっこう大きく広告が出ていたので、「どうしようかな・・・買おうかな」と迷っている人もいると思う。これを読んでから決めてください。

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
「身体の言い分」文庫版を手に取ってくださって、ありがとうございます。お買い上げ頂けるとうれしいんですけれど、とりあえずは、この頁をめくってくれたのも「他生の縁」ということで、もう少し読んでいってください。

 これは2005年に出版された池上六朗先生との対談本の文庫版です。もう14年も前に出た本です。
 ずいぶん昔になりますけれども、身体の話をしている限り、中身が「時代遅れ」になるというようなことはありません。とはいえ、そのまま出すのでは曲がないということで、巻末に「おまけ」として新しく対談をおつけすることにしました。
 その追加対談のために先日ひさしぶりに池上先生にお会いしました。先生のクリニックで治療をしていただいてから、美味しい晩御飯をご馳走になって、久闊を叙す機会を得ました。池上先生、ほんとうにいつもありがとうございます。

 池上先生と対談本を出すことになった経緯は本文の「まえがき」の方に詳しく書いてありますので、そちらをお読みください。なんとも不思議な「ご縁」に導かれてのことでした。誰かが仕掛けたとか、企画したとかいうものではなく、ご縁に導かれて始まったのです。
 本を出した後も池上先生とのお付き合いはいままでずっと続いております。ボーナストラック対談に出てくる白馬の丸山貞治さんは僕のスキーの先生なんですけれど、いまはなぜか松本の池上先生のところで身体を診てもらっています。僕の知らないところで、いつのまに知り合い同士が知り合いになっていたのです。こういうことが起きるのはそこに強い「ご縁」が働いている証拠です。本文にたびたび名前が出てくる三宅安道先生のところにも僕はいまも定期的に通ってメンテナンスをして頂いていますが、待合室でふと振り返ると患者たち全員が僕の知り合いということもときどきあるくらいです。
 まったく偶然な出会いというものはこの世にはありません。僕たちは「宿命の糸」に導かれて人に出会う。そして、次々と出会いが重なるうちに、そこに独特の厚みと奥行きをもった「場」が出来上がる。人々がそこで出会ったことの意味は、それらの出会いから生まれ出るさまざまな作物によって事後的に知られる。そういうものです。
「宿命の糸に導かれて人に会う」という言い回しを若い頃はただの装飾的定型句だと思っていました。でも、年を取るとそれが「ほんとうだ」と身にしみて思うようになりました。
 出会うべき人とは必ず出会う。ほんとうにそうなんです。
 そして、その出会いから、自分ひとりでは決してできなかったこと(そもそも僕ひとりでは思いつくことさえなかったこと)が生成する。そういうことをある年齢からあと繰り返し経験してきました。
 ご縁を結び付ける強い力を持っている方がときどきいます。僕の場合でしたら、合気道の多田宏先生がそうです。養老孟司先生がそうですし、池上六朗先生がそうです。そういう「縁結び力」の強い先生がたのところにゆくと、旧知の人がそこにいて、「え、どうしてあなたがここに・・・」とびっくりする。そういうことが頻発します。
 自分の意思でそこに行ったつもりでしたけれど、実際は何か目に見えない強い力が働いて、僕をそこに導いている。それは僕に何か「ミッション」を果たさせるためである。僕はそういうふうに考えるようにしています。
「僕はそういうふうに考えるようにしている」というだけで、みなさんもそう考えるべきなどという無法なことは申しませんので、「え、これって怪しい宗教とか、そういう感じの本なの?」とか身構えなくてもいいです。
 でも、みなさんがまだ若くて(若くなくてもいいです)、自分はいったいこの世界にどんな「ミッション」を託されて送り出されたのかとふと考えることがあるとしたら、頭を悩ませる必要はありません。ご縁に導かれて進めばいいのです。ご縁が必ずみなさんを「いるべきとき」に「いるべきところ」に導いて、「なすべきこと」をさせてくれます。みなさんの仕事は「ご縁」が接近してきたときに、それを感知し損なわないこと、それだけです。
 でも、じゃあどうやって「ご縁」の接近を感知したらよいのでしょう・・・とちょっと気になりますよね。ご心配要りません。いま、ご説明しますから。

 英語では「ご縁」のことを calling とか vocation とか言います。このふたつの単語はどちらも「呼びかけ」という意味です。でも、同時に「天職/召命」という意味も持ちます。自分がこの世に生まれて来たのはいかなる仕事を果たすためであったのか、それを知ることです。
 だから、ご縁の接近もかたちとしては「呼びかけ」として現象します。決してそれほど大きな音響ではありません。むしろ、小さな声です。でも、なぜかそれが自分にまっすぐ向けられていることは、わかる。それが「呼びかけ」です。
 僕の経験から申し上げると、多くの場合、「呼びかけ」は「あの、ちょっと手を貸してもらえますか?」という依頼文のかたちをとります(すこし違う場合もあります。「いいから黙って私の話を聞きなさい」とか)。どちらにせよ、こちらが先方の申し出に同意することをはなから自明のこととして「呼びかけ」はなされます。そもそも「同意するか/しないか」を話の中身を聞いてから吟味して決めますというような人のところには「呼びかけ」は到来しないんです
 どうしてなんでしょうね。でも、そうなんです。
「呼びかけ」は、まっすぐにこちらをみつめて、「ちょっと手を貸してもらえますか?」という文型で到来します。どうして僕を選んだのか、どうしてぼくに「その仕事」を果たす力や適性があると先方がご判断されたのか、それはわかりません。わからないけれど、「お願い」された。たぶん「その仕事ができそう」に見えたんでしょう。自分にはできるかどうかわからないけれど、他人からは「できそうに見えた」。そういう場合は自己評価よりも外部評価の方が客観性が高い。これは経験的にたしかです。ですから、そのときには逡巡せずに「はい、いいですよ」と即答する。その瞬間に「ご縁がつながる」。そういうものです。

 池上先生とのご縁もそうやって始まりました。三宅先生経由で「ちょっとここまで来てください」という「呼びかけ」があって、ふらふらと出かけたら、「ちょっと手を貸してください」と言われた。
 はじめてお会いしたときに、池上先生が僕にした依頼のことを僕はまだ覚えています。まことに不思議な仕事の依頼でした。
 それは「私は長く治療家をやってきていて、いろいろな疾患を治しました。『あ、これは治せる』というのは直感でわかるんです。でも、どうして私が施術すると治るのか、それがわからない。内田先生には『どうして私は人を治せるのか』その理由を教えて欲しいのです」というものでした。
 初対面の人間に対してまことに不思議な仕事の依頼だと思いませんか。
 僕はしばらくあっけにとられて、それから「はい」とご返事しました。こんな面白そうな仕事を逃す手はないと思ったからです。
 そうして何度も先生にお会いし、施術を受け、一緒に温泉に行ったり、美味しいものをご馳走になったりしながら、長い時間お話をして、そうやってできたのがこの本です。
 そう聞くと、ちょっと読みたくなったでしょう。僕がこれは「ご縁」で始まった本ですというのは、そういう意味です。みなさんも「不思議な仕事の依頼」を受けたら、とりあえず「はい」と即答することをお勧めします。そこからおひとりおひとりのご縁のつながりが始まります。

 最後になりましたが、池上先生、これからもどうぞよろしくお願い致します。そして、文庫版の刊行のためにご奔走くださった永上敬さんのご尽力に感謝申し上げます。ありがとうございます。