吉本隆明1967

2017-11-10 vendredi

鹿島茂先生の『吉本隆明1968』(平凡社ライブラリー)の解説を書いた。
みなさんにぜひ読んで欲しい本であるので販促のために解説だけ公開。

たいへん面白く読んだ。吉本隆明の解説書としては、これまで書かれたものの中で最高のものの一つだと思う。これから吉本隆明を読む人にとっては絶好のブックガイドであるし、これまで吉本を久しく読み込んできた人にとっても「なるほど、あれは『こういうこと』だったのか」と腑に落ちる解釈がいくつもあると思う。本書が今後ひさしく吉本隆明研究の必須のレフェランスとなるだろうと私は確信している。
というくらいで「帯文」としては十分なのだが、頼まれたのは「解説」なので、話は少し長くなる。鹿島先生がどうしてただ「吉本隆明研究」とか「吉本隆明論考」ではなく「吉本隆明1968年」という年号入りのタイトルを撰したのか、その理由について以下にひとこと私見を述べて解説に代えたいと思う(今、「鹿島先生」という表記が気になった方がいると思うけれど、これはご本人にお会いするとそう呼んでいるので仕方がない。いきなり「鹿島は」とは書けません)。

1968年は鹿島先生が大学に入ってはじめて吉本隆明と対峙した年である。私の場合はそれが一年前の1967年なので、上のような題になった。私もまた吉本隆明と少年の時に出会って、人生が変わった人間のひとりである。
私は高校生から大学院生の頃までは吉本隆明の熱心な読者だった。でも、ある時期から読まなくなり、95年の阪神の大震災の時に高校時代からの蔵書をまとめて処分した時に、埴谷雄高や谷川雁や平岡正明の本といっしょに吉本の本も捨ててしまった。けれども、その後またふと読みたくなって、結局吉本隆明についてだけは捨てた本を全部また買い集めた。それは父が2001年に亡くなり、その後父のことを回顧するにつれ「戦中派の人たちは、戦前の自分と戦後の自分を縫合するためにずいぶん苦労をしたんだろうな」ということがひしひしと感じられるようになったからである。そして齢耳順を超えて読み返しながら、私もまた鹿島先生と同じように「ああ、おれはこの歳になっても、吉本主義者であったか」と深く感じ入ったのである。

鹿島先生と私は一歳違いで、鹿島先生の方が一歳年長である。鹿島先生は現役で東大に入学したが、私は69年に入試中止のあおりをくらって一浪し、70年に入学したので、学年は二つ下になる。鹿島先生は入れ違いに本郷に進学されたはずなので、キャンパスで遭遇したことはなかったと思う。でも、ほぼ同時期に同じキャンパスの同じ空気を吸ったことは間違いない。だから、この本に鹿島先生が書かれている回想については、細部まではっきりとしたリアリティをもって私も思い出すことができる。
吉本隆明は鹿島先生や私の世代に圧倒的な影響力を有していた。もちろん、それは二十歳前後の少年たちが吉本の思想的営為の独創性が理解できたことを意味しない。「『吉本はすごい』と感じてはいましたが、どこがどうすごいのか、それを説明することは不可能だったのです。いいかえてみると、自分の所有している語彙と観念と関係性に、吉本特有のそれらを翻訳・転換してみせるということができなかったのです」(278頁)と鹿島先生も書かれているけれど、私の場合もまったく同じである。
それでも、私は一読して、「この人が何を言おうとしているのかを理解しないと日本の政治的状況の本質に触れることはできない」ということまではわかった。鹿島先生もそうだったと思う。他の政治学者や政治思想家たちの書き物については、私はそれに類する感懐を持ったことはなかった。難解な術語や聞いたことのない固有名詞をまぶした評論を読んで、どうしてもう少しわかりやすく書けないのか(それほど頭が良いなら、その頭の良さをどうしてわかりやすく書くことには使えないのか)とうんざりすることはあっても、この人が書いていることを理解できないと先がないという焦燥感を覚えたことはない。そんなことを思わせた書き手は、私にとっては日本人では吉本隆明ひとりである。
私が最初に手にした吉本隆明の本は『自立の思想的拠点』で、1967年、高校二年生のときだった。なぜその本を買ったのか、記憶は定かではないが、周りの誰かが推薦したわけではなかったと思う。私が通っていたのは都立日比谷高校という進学校で、そこには鹿島先生が書いているような「自分が日本人だという要素をいっさい考えに入れずにヴァレリーやサルトルなどの抽象的思考と戯れることができるような人」(352頁)がいくたりもいて、彼らが校内で閉鎖的な知的サークルをかたちづくっていた。彼らが時おり「ヨシモト」という人名を口にすることがあったが、その時に一瞬微妙に苦い表情を浮かべることを私は見逃さなかった。どうやらヨシモトという人はこの「知的上層階級」の諸君にもうまく呑み込めないらしいということはわかった。彼らを「出し抜く」ためには、この人の本を読むのが捷径ではないかと私は考えた。子どもながら直感の筋は悪くない。だから、ある日書店でその名前を見た時に、深く考えずに購入したのである。
もちろん、理解できなかった。そこで論じられている政治潮流のことも、固有名詞として言及されている人の名前も私は知らなかった。でも、この人は私が緊急に理解しなければならないことを書いているということはありありと実感された(同じようなことはそれから十五年後にエマニュエル・レヴィナスを読んだ時にも感じた)。
書いてあることが理解できなくても、そこに私宛てのメッセージが含まれており、それは私が(政治的に、あるいは市民的に)成熟しなければ読解できないものだということはわかる、ということがある。メッセージのコンテンツとアドレスは別次元に属する。そして私たちにとってより緊急なのはもちろん宛先なのである。
はじめは先輩たちを「出し抜く」ために読み始めた吉本隆明だったけれど、すぐにそのような相対的な知的優位性に立つことはどうでもよくなった。吉本の言葉は鋭利な刃物に似ていた。そして、それを突き立てる先は「論敵」たちであるより先にまず自分自身だったからである。
高校二年の少年がそのような鋭利な刃物を手にしてよかったのだろうか。今から考えてみると、よかったのか、よくなかったのか、よくわからない。
高校に入った時点では、私は大学を出て、法曹か新聞記者か文学研究者になるという「大衆からの離脱コース」のキャリアパスを望見していた。しかし、高校での受験秀才としての穏やかな生活は長くは続かなかった。一つには先に述べた「知的サークル」に潜り込んだせいで、そこでの知恵比べや「おどかしっこ」(「お前、あれ読んだ?」)に必死でキャッチアップする必要があったからである。だが、それ以上の手間暇を要したのは不良化活動(麻雀、飲酒、喫煙、ジャズ喫茶通い)であった。別にそんなところに貴重なリソースを投じる理由はなかったのだが、私は中学生までは「箱入りの優等生」だったので、その手の誘惑にまったく免疫がなかったのである。
濫読と不良化活動への邁進のせいで、私の学業成績はたちまち悲惨なことになり、「箱入り優等生」の私しか知らない家族や友人やガールフレンドたち周囲の「良きひとびと」を嘆かせた。彼らに背を向けて遠ざかってゆく私の姿に、彼らはあるいは「名状し難い寂しさや切なさ」を感じたかも知れない。でも、私自身はそれまで無縁であった「ウッドビー知識人」と「都会の不良少年」という別種の「良きひとびと」との出会いに興奮していた。
そこに吉本隆明が来た。衝撃だった。免疫のない子どもにこんな過激な思想を注入したらどういうことになるか。私は「子どもが吉本隆明を読むとどうなるか」という危険な実験の一症例だったのではないかと思う。
私は吉本を読んで、すぐに「高校をやめよう」と思った。それは歩き始めたばかりの「大衆から知識人への上昇過程」をいきなり逆走するというとんちんかんなアイディアであったが、こういう無謀なことは高校生しか思いつかない。もし私が中学生の時に吉本を読んだとしても、「中学をやめて働こう」とは思わなかっただろう(思ってもそれを実行するだけの社会的実力がない)。大学生になって読んだ場合には、大衆は「原像」として概念的に把持される他ないほどすでに遠い存在になっていただろう。だが、高校生は生活者大衆でもないし、知識人でもない。まだ何者でもない。それでも、親に内緒で退学届けを出したり、家を出て働くことくらいはできる。この特権的なポジションを利用して、大衆でも知識人でもない、その二つを架橋できる存在になろうと私は思った(ほんとうにそう思ったのである)。
でも、もちろんそんな野心的企てが成功するはずもなく、私は中卒労働者としてしばらく極貧生活を送った後、反社会的な生活態度に怒った大家さんにアパートを追い出されて、家出してわずか半年で親に叩頭して家に戻る許しを請うことになったのである。
中卒労働者はつらかった(何より空腹がつらかった)。だから、温かい部屋で、母親の作った夜食を食べながらの受験勉強など、それに比べたら極楽であるとしみじみ思った。なるほど、知識人への上昇というのは別に大衆からの離脱というような観念的な営みである以上に、「楽な暮らしをしたい」という自然過程なのだと私は17歳にして深く得心がいった。
だから、大検を通って大学に入った時、私はずいぶん態度の悪い学生だったと思う。左翼の学生たちの政治談議はまったく空疎なものに思えたし、受験勉強の反動でただ遊んでいる学生は幼児に見えた。「大学解体」を呼号し、学校教育は無意味だと冷笑的に言う学生たちには「なんで高校の時にはそれに気づかずに受験勉強してたんだよ」と憎まれ口をきいた。厭味な学生だったと思う。大衆と知識人を架橋する存在になるという17歳の野望は潰えたけれど、知識人トラックに自分の走路だけは確保しつつ、効率的に受験勉強をクリアーして進学してきた同輩たちに向かっては中卒労働者の空腹を経験したことがあるかとすごむという「鵺(ぬえ)」的な狡猾さだけは身に着けていた。吉本隆明を「悪用する」方法というのが他にもあるのかどうか知らないが、私は間違いなくその好個の適例だった。
けれども、一言言い訳をするが、本書でも重く扱われている「転向」の問題は私たちの世代にとっても決して他人事ではなかったのである。それは「ブル転」とか、もっと穏やかに「運動からの召還」と呼ばれていたけれど、平たく言えば、政治革命をめざす活動から撤退して、就活にとりかかることである。多くの活動家学生たちが四年生になるとヘルメットを脱いで、汚れたジーンズを脱いでこぎれいなスーツに着替え、長い髪を切って七三に分けて就活を始めた。私はこれには驚いた。私はたしかに厭味な「鵺」的学生ではあったけれど、「鵺」であることに殉じる覚悟はあった。まさか「日帝打倒」とシュプレヒコールしていた学生たちがその当の日帝企業の就職の面談に行って、「御社の将来性に期待して」というような空語を吐くようなことが実際にあるとは思ってもいなかった。
なるほど、彼らにとって知識人でありかつ大衆であるというのは「こういうこと」なのかと腑に落ちた。まったく吉本が言った通りではないか。彼らは一方では空疎で観念的な世界革命論を語り、その一方では「己のためなら他人のことなど構ってられるかという明治資本主義が育てた『本音』としての個人主義的リアリズム」(320頁)にも忠実であったのである。
「この種の上昇的インテリゲンチャが、見くびった日本的情況を(例えば天皇制を、家族制度を)、絶対に回避できない形で目の前につきつけられたとき、何が起こるか。かつて離脱したと信じたその理に合わぬ現実が、いわば、本格的な思考の対象として一度も対決されなかったことに気付くのである」という『転向論』の中の吉本隆明の言葉がこのときほど身にしみたことはなかった。
私はそのとき、ただ一人になっても「日本的情況」を見くびることだけはすまいと心に誓った。天皇制を、家族制度を、あるいは日本的政治思想を、宗教や伝統技芸を、それがどれほど「理に合わぬ」ものと見えても、私はそれを思考と、かなうなら実践の対象としようと決めた。空疎な政治革命論は語らない。けれども「己のためなら他人のことなど構ってられるか」というようなベタな個人主義リアリズムとも結託しない。その中ほどのところが、「鵺」的吉本主義者として私が選んだ立ち位置であった。
以後半世紀に近い歳月を閲した。私は後にフランスの哲学と文学を研究する学者になったが、その一方で父子家庭で子どもを育て、武道と能楽を稽古し、禊行を修し、祭祀儀礼を守り、今は自分の道場で地域の人々に合気道を教えて余生を過ごしている。他の点ではずいぶんわきの甘い男だったが、知識人と生活者大衆の中ほどのどっちつかずの立ち位置を守り、何があっても「日本的情況を見くびらない」という点については一度も警戒心を失ったことはない。その自負だけはある。それほどまでに『転向論』の吉本の言葉は私の胸に突き刺さったのである。

以上が私にとっての吉本隆明との出会いとその後のいきさつである。17歳で吉本隆明に出会って「よかったのか、よくなかったのか、よくわからない」というのは如上のような事情によるのである。
鹿島先生もおそらくは吉本隆明との出会いがきっかけになって知的成熟の道を歩み始めたはずである(そうでなければ、こんな本は書かなかっただろう)。鹿島先生が進まれた道と私が進んだ道が結果的にはずいぶん方向違いのものだったにせよ、私たちはどちらも(主観的には)同じ「母鳥」の後を追って歩いてきたのだと思う。