こんにちは、みなさん。内田樹です。
このたび『もう一度、村上春樹にご用心』韓国語版が刊行されることになりました。次々と僕の本を翻訳出版してくださっている出版社・訳者の方々にお礼申し上げます。自分の書いた本が外国の読者に受け入れられるということはたいへん光栄なことです。
外交的にはいまだきびしい対立関係を残しながら、日本語で書かれた本がこうして韓国語に翻訳され、韓国の読者に読まれているということは、日韓両国の個人間でのたしかなコミュニケーションが成立しうるという事実を証明していると思います。「草の根」の相互理解は、定着するまでには手間はかかるけれども、ひとたび築かれれば、そのあとは政府の外交政策が変わろうと市場や景況が変わろうとも簡単には揺らぐことがありません。
この本がそのような日韓の連携を深めるための一石になればうれしいです。
本書とその主題について説明しておきます。
これは僕が村上春樹についてこれまで10年以上にわたってさまざまな媒体に書いてきたエッセイを集成したものです。体系的な記述ではありませんから、長さも文体もばらばらです。統一的な主題があるわけでもありませんし、全作品を網羅しているわけでもありません。そのときどきに自分の好きな作品の好きな箇所を好きな仕方で読んでみた。そういうものです。
そして、あらかじめお断わりしておきますが、これは村上春樹「研究」ではありません。僕は文学研究者として村上春樹を読んでいるわけではなく、一ファンとして読んでいます。ですから、客観的な視点とか、学術的な厳密性というようなものを期待されても困ります。
ファンというのは、偏愛する作家の書くものであれば、どんなものでも読みたいし、どんなものを読んでも面白く感じるものです。
村上春樹の書いたものでも、まだ韓国語に訳されていないものはたくさんあるはずです。『またたび浴びたタマ』(これは回文を集めたもの)とか『うさぎおいしーフランス人』(これは駄洒落ナンセンスかるた)とかはたぶん未訳でしょうし、これからも訳されないんじゃないかと思います。『走ることについて語る時にぼくの語ること』(これはランニング論)『意味がなければスイングはない』(これはジャズ論)など非―文学的な作品は、日本でも批評家や研究者はまったく取り上げません。
でも、僕はエッセイや紀行文や音楽論のような非-文学的なテクストも含めて村上春樹はトータルに読まれるべきだろうと思っています。というのも、村上春樹ほど自分の小説の書き方の技術を読者の前に率直に開示する作家は例外的だからです。
作品以外に「余技」として、華やかな私生活や場合によってはスキャンダルを「売り物」にして、知名度を上げるという戦略を採用している作家はおります。あるいはどうでもいいような身辺雑記(誰と飲んだ、何を食った、どこに旅した)を雑誌に書き散らしている作家もおります。でも、村上春樹の「小説以外のテクスト」の意味はそれとはまったく違います。それらはすべて「小説を書くために、小説を書いている以外の時間に何をしているのか」について書かれたものだからです。彼の書くものはある意味ではすべてが小説作品とその「解説」になっているように僕には思えます。
例えば、『走ることについて語る時にぼくの語ること』はアスリート村上春樹によるランニング論です。走り方、筋肉の作り方、シューズの選び方、ランニングのときに聴く音楽の選択、走るときのマインドセット・・・そういう純粋に技術的なことだけが書かれているわけですけれど、僕はこの本をきわめて正直に書かれた「小説論」として読みました。
小説を書くために必要な「力」とランニングのために必要な「力」は本質的なところで同じものだと村上春樹自身は考えている。これは僕の武道家としての確信です。
僕が経験的に言えることは、身体的なパフォーマンスを高めるというのは局所的に筋肉を強めたり、心肺機能を上げたり、あるいは「闘争心」を掻き立てるというような操作には限定されないということです。そうではなくて、心身のパフォーマンスが爆発的に開花するのは、外部にある強大な力、誤解を恐れずに言えば、超越的な力が正しく整えられた身体を経由して発動する、という経験です。そのとき、人間の身体はその超越的な力の通路になります。人間が発揮することのできる驚くべき力は人間の中に起源を持たないものです。自分の外部にある力が、自分の身体を通り抜けるとき、人間は「人間を超えた力」を実現する。人間を超える力の淵源は人間の外部にあります(当たり前ですけど)。「それ」を迎え入れ、制御し、発動させる、そのための技術知はあらゆる文明、あらゆる社会集団に伝えられています。例えば、武道はまさにそのような技術知の体系です。村上春樹はおそらく同じような技術知をランニングによって習得した。僕はそう感じました。すぐれたランナーはすぐれた作家と構造的にはほとんど同じことをしている、彼はそう直感したのだと思います。
自らをある種の「良導体」に仕上げることによって、外部の強大な力が抵抗に出会うことなく、自分の身体を通り抜けて発動することが可能になります。書くという行為を駆り立てているのも本来はそういう力だと僕は思います。書く人にとっての「外部から到来するもの」は、そう言いたければ「インスピレーション」と言ってもいいし、「霊感」と言ってもいいし、ソクラテスに倣って「ダイモニオス」と呼んでもいいし、ギリシャ神話の音楽・舞踏・文芸の神の名を借りて「ムーサ」と呼んでもいい。いずれにせよ、書くという行為もまた、他のさまざまな人間的営為と同じく、私たちの外部にある強い力を受け入れ、それをある限りの技術を以て制御し、人間世界において価値あるものに変換し、物質化するプロセスなのです。
そして、この「何か」が自分の中を通り抜けてゆくプロセスほど人間を高揚させ、自由にしてくれる経験は他にないと僕は思っています。
村上春樹の小説以外のすべての行為は自らを良導体に仕上げるためのさまざまなタイプのエクササイズです。僕はそう理解しています。
そこで話が最初に戻りますが、こういう読み方をするためには、批評家的なスタンスにとどまるわけにはゆきません。回文も駄洒落もジャズ批評もランニング論も店舗経営論も自動車操縦についての知見も、村上春樹が書くものはすべて読み尽くすという態度が求められます。それが「ファン」という立場だと僕は思っています。
僕は別に村上春樹を文学史的に「正しく」位置づけたいとか、適切な評価を下したいと思っているわけではありません。はっきり言って、作家の文学史的ポジションにも格付けにもノーベル賞をもらうかどうかなどということに、僕はそれほど興味がないのです。
でも、僕は人間について知りたいことがあります。それは村上春樹が人間について知りたいと思っていることとかなりの部分まで重なっている。そして、そのような「関心の重なり」を感じる作家が他にはなかなか見出し難い。だから、僕は村上春樹を熱心に読み続けている。そういうことです。
韓国の熱心な村上ファンたちもたぶん僕と同じように、それぞれの個人的な関心から村上春樹を読んでいるだろうと思います。批評家は「こう読め」という指示をしたがりますが、ファンはどういう読み方をしても構わないと僕は思います。一般的な妥当性を放棄する代わりに、好きに読む自由を手に入れる、それがファンの立場だからです。
この本で僕はほんとうに好き放題な読み方をしています。もし韓国の読者の皆さんがこれを読んで、「なんだ、こんな好き勝手に本を読んでもいいのか」と思って、ちょっとほっとしてくれたら、僕としてはそれにまさる喜びはありません。
(2016-02-05 14:33)