今年の10大ニュース
年末恒例の今年の10大ニュースを考える。年末に来し方振り返るというのはたいせつな作法である。1年は「あっ」という間に過ぎてしまうけれど、よくよく見つめるとずいぶんたくさんのことが起きているものである。
1 母を送る
12月1日に母が死んだ。享年89。最後の3週間くらいは譫妄が起きて、多動になり、介護する兄たち家族もたいへんだった。兄とホスピスを下見に行ったときには、そんなにすぐに葬儀を出すことになるとは思わなかった。でも、最後の一週間に二晩を病室で並んで過ごすことができた。母と病室で二人きりで過ごすのは7歳の冬に私がリウマチ性心臓疾患で1ヶ月入院したとき以来である。死の2日後がAERAの締め切りだったので、そのことについて書いた。
私事を書く。一昨日母親が死んだ。享年89。昨年、膵臓癌がみつかったが、進行が遅かったので、一年余りの残された時間を親しい人たちとの行き来で過ごすことができた。先月末から病状が悪化し、ホスピスに入院した。そのときにはもうすでに意識は不確かになっていた。入院した日たまたま私は所用で上京していて、病室に泊まり、母の隣のソファーベッドで一夜を過ごした。ときおり苦しげなうめき声を上げたが、顔や頭や腕に触れると表情が穏やかになり、しばらく短い眠りに就く。そういうことを明け方近くまで繰り返しているうちに、何十年も前に、同じことを母にしてもらったことを思い出した。私は七歳のときリウマチ性の心臓疾患で一ヶ月入院したことがある。その間ずっと母が付ききりで看護してくれた。一つのベッドに母子で抱き合うように寝て、私が痛みを訴えると手や足をいつまでも撫でてくれた。そのときのことを思い出した。
子どものころは家に帰ると、台所で母と差し向かいでお茶菓子を食べながら母のおしゃべりを聞くのが好きだった。兄はそれを見て「樹はよくおふくろの長話につきあえるな」と笑っていたが、母の終わりなき世間話を聴くことは私にとって別に苦痛ではなかった。真剣に話に耳を傾けていたわけではない。ただぼんやりと音楽を聞き流すように母の声を聴いていた。何となくそれが母から私に割り当てられた交信周波数のような気がして、毎日定時になるとラジオ放送を聴くようなつもりで、お茶を飲み、菓子をつまみながら、母の長話にぼんやり耳を傾けた。私が長じて「男のおばさん」と呼ばれるようになったのは、母のおしゃべりを長年聞き続けてきたせいである。
二度目に病室に泊まった夜、母はもう意識がなかった。翌朝「また来るね」と手を握って家にもどって半日後に訃報が届いた。「もう一度会っておけばよかった」というのは親が死んだときに子どもを苛む一番の悔いだが、母は私たちにそういう悔いを残させなかった。
親孝行というのは子ども「するもの」ではなく、親が「させてくれるもの」だということを母は死に際に教えてくれた。
2 45年ぶりにデモに参加した
佐藤学先生のお声がけで「安全保障関連法案に反対する学者の会」の発起人に加えて頂いた。学者の会の署名14000人を持って国会請願に行ったときにはじめてSEALDsの若者たちと会った。それから後、学者の会とSEALDsの連携がこれから安保法案反対運動の基軸になるだろうという佐藤先生の言葉に従って、SEALDs KANSAIの運動に協力することになった。国会前や大阪のヨドバシカメラ前や京都の円山公園でマイクを握って「戦争法案」反対の意見を述べた。SEALDs KANSAIの諸君は凱風館にも来てくれた。彼らの「サロン」や小林聖心で開かれたNGO大学や大阪市大が主宰した「有志の会」の集まりでメンバーたちと何度も話した。若い世代が大人たちよりも政治的にはるかに成熟していることに驚嘆した。それだけ既存の政治文化が劣化し、使い物にならなくなっているということなのだけれど、未来社会の萌芽に触れたことはうれしい経験だった。
SEALDsについて書いた文章をひとつだけここに採録しておく。福島みずほさんとの対談本『意地悪化する日本』(岩波書店)から。
内田 僕も「民主主義ってなんだ、これだ」というコールに衝撃を受けました。学生運動の頃からずっと思っていたのですが、いくら立派なことを言っていても、結局ある政党なり政治組織なりが未来において実現できる社会というのは、すでにその政治組織自体が先駆的に実現しているわけです。いくら理想的なことを語っていても、政治組織自体が権力的な構造であったり、秘密主義であったり、暴力的であったりした場合、そうした強権的な政治組織が作る未来社会が民主的であったり、多様性に対して寛容であるはずはない。だから、皆さんが今目の前で見ている組織を拡大したものが未来社会になるのだと提示することができなければ、政治運動は指南力を持てない、そう思っていました。でも、僕にはそのような政治組織を作る力がなかった。
しかし、SEALDsの人たちは、「民主主義って、これだ」と言う。これは日本政治史上はじめての宣言だったと僕は思います。明治以来さまざまな民衆の運動がありましたけれど、自分たちの運動体を指さして、「これこそがあるべき社会の萌芽的形態である」と宣言し得たような政治組織は存在しなかった。でも、SEALDsは日本政治史上はじめて「これを見ろ」と言ってのけた。これはすごいことだと思います。かつての中核派とか革マル派が自分たちの組織を指さして「これからこういう社会を作る」と言って「ぜひそこに住みたい」という市民たちを糾合するなんて図は想像もできない。
SEALDsは、五人、一〇人でも、一万人でも、一〇〇万人でもたぶん同じ組織原理でやっていこう、やっていけると考えていると思います。ひとりひとりが自分の言葉を固有名詞において語るということです。他人に何かを強制したり、禁止したりしない。正しい唯一の解を提示することをしない。全員ができる範囲でできることをやってくれればいい。学生だから、勉強もするし、バイトもするし、友だちと遊ぶし、デートもする。その合間に国会前に来てくれればいいという、生活と政治を分離しない、生活即政治というスタンスに僕はつよく共感するんです。
僕が二〇代の時に頭を抱えて悩んだ末に、僕が個人として、自分の足元でだけやっていこうと思ったことをSEALDsの人たちは組織的に実行してみせた。それに対して、僕は敬意を覚えるのです。僕は一人で、「今この場にある組織が未来社会の萌芽的形態である」と言い切れるような場をどうやって立ち上げるのかということをずっと考えてきました。息を吸ったり吐いたりする、ご飯を食べたり、眠ったりするように自然にできること以上の政治活動は持続できない。一時的な高揚や熱狂で大きな運動が盛り上がることはありますけれど、そういうものは持続しない。最終的に政治運動を担うのは生身の身体だからです。身体はある意味で保守的なんです。食わなきゃいけない、寝なくちゃいけない、休まなきゃいけない。たまには温泉にも入りたい、遊びたい、お酒も飲みたい、運動もしたい、デートもしたい。そういうことが全部身体には必要なんです。そういう生理的欲求を脳の指令で抑圧してはじめて成り立つような政治活動は一時的にはどれほど高揚しても、決して持続できない。身体が壊れてしまうから。
SEALDsがユニークなのは「人間の弱さ」を勘定に入れて政治運動を設計したところです。SEALDsは服装やラップのスタイルの「新しさ」ばかりが注目されがちですが、実際には近代市民運動の苦難の歴史を踏まえたきわめた成熟した政治思想・政治運動だと思います。
3 今年もたくさん本を書いた
今年仕上げた仕事は。
『日本の反知性主義』(編著、晶文社。寄稿者は赤坂真理、高橋源一郎、想田和弘、平川克美、小田嶋隆、鷲田清一、名越康文、仲野徹、白井聡)
『慨世の遠吠え』(共著者鈴木邦男、鹿砦社)
『日本戦後史論』(共著者白井聡、徳間書店)
『困難な成熟』(単著、夜間飛行)
『意地悪化する日本』(共著者福島みずほ、岩波書店)
『生存教室 ディストピアを生き抜くために』(共著者光岡英稔、集英社)
『困難な結婚』(単著、アルテス、2016年刊)
『僕たちの居場所論』(共著者、平川克美、名越康文、KADOKAWA、2016年刊)
翻訳
『タルムード四講話』(新装版、人文書院)
『タルムード新五講話』(新装版、人文書院)
『モーリス・ブランショ』(新装版、国文社)
『徒然草』(日本文学全集・河出書房新社、2016年刊)
連載
『レヴィナスの時間論』(「福音と世界」新教出版社、1月号~12月号、まだまだ続く)
『Eyes』(「AERA」に隔週連載、朝日新聞出版、まだまだ続く)
『たぶん月刊はなし半分』(平川克美とのラジオ対談、メルマガ夜間飛行)
4 お稽古をたくさんした
8月には多田先生のパリ講習会に参加。杖道も居合も定期的な稽古会ができた。参加者もだんだん増えてきた。
下川正謡会の大会では、舞囃子『花月』、素謡『鉢木』のシテで大阪能楽会館の舞台を踏んだ。
体調も大きな崩れがなく、膝の痛みも出なかったので、稽古は順調に進んだ。この体調を維持できるのもあと何年かわからない。多田先生は「100歳まで現役で合気道の稽古ができること」を門人に求めると今年宣言されたけれど、100歳まではちょっと無理かなあ・・・。でも、あと10年はなんとか若者たちに負けないくらい動けるようでいたい。
5 凱風館まわりが賑やかになった
世間の晩婚化・少子化の趨勢に無関係に、どんどん結婚するカップルが出て来て、子どもが生まれている。あまりに次々生まれるので、出産祝いのベビー服を贈るのがおいつかない・・・
この子たちが成長する頃に「まともな世の中」にしておいてあげなければと思う。
6 周防大島の若者たちとのかかわりができた
「地方回帰」についてあちこちで発言していたら、朝日新聞社山口支局のふたりの女性記者の斡旋で、周防大島で養蜂をしている内田健太郎さんと梅を作っている中村明珍さんの二人と知り合うことになった。
彼らに誘われ、ミシマ社の三島君といっしょに周防大島の『島のむらマルシェ』に参加して、講演をすることになった。地方回帰と農業再生についてのまとまったアイディアを語ったのは、これが最初。この講演はミシマ社の『ちゃぶ台』に「街場の農業論」というタイトルで掲載された。
そういうこともあって、農業問題については『TURNS』や「日本農業新聞」といったメディアへの寄稿が続いている。
山形県鶴岡市の羽黒山伏星野文紘さんたちのグループに続いて、地方で新しいムーブメントを起こそうとしている人たちとのかかわりが増えたことになる。凱風館でも会社を辞めて農業を始めた人たちが2人出たことだし、日本社会の地殻変動的な変かのひとつの徴候としてのこの地方回帰運動はこれからもできる限り応援してゆきたいと思っている。
7 今年も韓国ツァーに行った
10月19日の全羅北道の全州で講演。タイトルは「東アジアの平和と教育」。済州島に移動して、10月20日、タイトルは「内田樹式共生の作法」。
今回も新羅大学の朴先生がきちきちと仕切ってくれた。教育委員会の共催だったりしたせいで、聴講者は教育関係者が多かったが、高校生や大学生もずいぶん来てくれていた。
この韓国ツァーも4回目。最初の年はメディアからも聴衆からも「領土問題、慰安婦問題についてあなたはどう思うか」という政治的にエッジの立った質問が何度かされたが、去年からはそういうことはなくて、力点は「どうやって市民レベルからの日韓連携を深めるか」という未来志向的な機運が高まっていることが実感された。
そして、韓国の人たちと歴史について話すたびに、そのつど韓国が日本の植民地統治によってどれほど集団心理的に深い傷を負ったかを感じる。
フランスのヴィシー政権はわずか4年間の対独協力だったが、それでもそのとき誰がどういうふうにドイツに内通したのかについての徹底究明は手控えられた。第四共和政の指導層の中に大量の対独協力者が含まれていたからである。彼らの戦時中のふるまいを暴露して、彼らを処罰し、公職から追放した場合、戦後フランスの行政機構そのものが瓦解するリスクがあった。
ヴィシー政府のテクノクラートが第四共和政のテクノクラートに「横滑りした」という事実が歴史的検証の主題になるまで(ベルナール=アンリ・レヴィの『フランス・イデオロギー』を嚆矢とする)「自由の国」フランスでさえ40年を要したのである。
朝鮮の日本統治はそれよりはるかに長い期間、35年にわたって続いた。
植民地統治に協力した朝鮮人テクノクラートの多くは戦後そのまま「反共の砦」の独裁体制の指導層に「横滑り」した。
この35年にわたる植民地支配のあいだに、「対日協力」的な朝鮮人テクノクラートや軍人や警官は彼らの同胞を抑圧し、収奪する植民地官僚に加担してきた。
それがどのように組織的に行われたのかという歴史問題は現在の韓国においては決して触れることの許されないタブーである。
それが暴かれれば「日本軍国主義による支配」の犯罪性が希釈されるリスクがあるからである。「被害国」韓国の「加害国」日本に対する倫理的優位性が犯されるリスクがあるからである。戦後70年間の韓国の統治の正統性そのものに対する不信感が吹き出すリスクがあるからである。
そして、仮にそのような研究が公表された場合、日本の極右政治家や極右知識人がどれほどうれしげにそれを書き立てるかは誰にでも簡単に想像できる。
韓国の人々にとって自国歴史の暗部を摘抉することは、どれほど痛みを伴おうとも、国家の根幹を健全なものとするために避けることのできない作業である。けれども、現在の日韓関係のような環境では、そのような研究に手を染める歴史家は自動的に日本の極右政権を利することになる。だから、できない。
でも、この歴史研究が果されない限り、韓国社会は「喉に骨が刺さったまま」である。
韓国の歴史家が20世紀の韓国史を冷静に分析できる立場を確保するためには、「韓国の歴史の暗部を摘抉すること」が現在の韓国にいかなる不利益ももたらさないという保証がなければならない。そして、今の日韓の外交的関係はまさに「韓国人自身が韓国社会の問題を分析する」作業そのものを構造的に妨害しているのである。
愚かでかつ有害なことである。
日韓の連携と友好関係と相互信頼の深化は、韓国人自身が自国の歴史に向き合うために必須の条件なのである。私はそう思う。
8 他にもいろいろあったかも知れないけれど、もう長くなり過ぎたので、これで打ち止めとする。
ではみなさん、よいお年をお迎えください。
(2015-12-31 12:44)