資本主義末期の国民国家のかたち

2014-11-26 mercredi


●資本主義末期の国民国家のかたち

ご紹介いただきました内田でございます。肩書、ごらんのとおり、凱風館館長という誰も知らないような任意団体の名前の長を名乗っておりますので、こんなきちんとした学術的な集まりに呼ばれると、いたたまれない気持ちになります。
私は、基本的に全ての問題に関して素人でございまして、ですから、おまえのしゃべることには厳密性がないとか、エビデンスがないとか言われても、それはそうだよとしか言いようがありません。ただ、素人には素人の強みがありまして、何を言っても学内的な、学会内部的なバッシングを受けることはない、いくら言ったって素人なんだからいいじゃないかで全部済ませられる。
大学の教師というのは誤答を恐れる傾向がありまして、大風呂敷を広げることについては強い抑制が働く。私はその点で抑制のない人間でございまして、ほんとうは私のような野放図な人間がもう少しいたほうが、世の中、風通しがよくなってよいと思うんです。
それに意外なことに、この素人の直感が侮れない。
思い出しても愉快なことがあるんですけれども、今からもう十年近く前でしょうか、私が『街場の中国論』という本を出した後に公安調査庁の人が尋ねてまいりました。「公安調査庁です」と言って名刺を出して、「あなたのファンなんです」と言うんです。公安調査庁がファンのわけがない。(笑)
いろいろと話をしていたら、「あなたの中国論なんですけれども、この中国の共産党内部の情報をあなたはどうやって手に入れられたのか」と訊いてきた。「毎日新聞からです」とお答えしたら、随分驚いていらした。「だって、新聞で書いている情報だけだって、断片をつなぎ合わせていくと大体何が起きているくらいは想像がつきますでしょ」と申し上げたら、なかなか片づかない顔でお帰りになりました。

先般も、ちょっと自慢話になりますが、中国共産党に中央紀律委員会というものがありまして、そこが党幹部に推薦図書を指示しました。党幹部が読むべき本を五十六冊挙げて、これを読んでおくようにと、夏休みの課題図書みたいに挙げたリストの中に私の『日本辺境論』も入っておりました。日本人が書いたものは僕の本だけだったそうです。中国人の友達から聞きました。「内田さん、あなたの本、出てたよ。紀律委員長は習近平だから、習近平も認めた本だよ!」と言われました。けっこう愉快な話だと思うんですけれど、日本のメディアはあまり報道してくれなかったですね。

ことほどさように素人の直感は侮れないということで、本日は資本主義末期の国民国家の行方について一席お話しさせて頂きます。
こんなことをしゃべる資格が君にあるのかというような大ぶりの演題ですけれども、錚々たるそうそうたる政治学者の先生がたの前でしゃべらせて頂きます。先生方はやはり学問的厳密性ということを重んじられる立場にありますから、軽々なことは言えないと思うんですけれども、私は素人ですから、そういう気づかいが要らない。今日は限られた時間ではありますけれども、勝手なことを言って帰っていきたいと思います。私に期待されているのも、そういうことだと思うんです。とりあえず風呂敷だけ広げておいてください、穴はいくらあいても構いませんというのが講演依頼の趣旨だと思います。

それに、今日、実は時差ぼけなんですよね。昨日の夜、ローマから帰ってきたところで、これから時差ぼけ絶好調になってくるところなので、舌がうまく回らないんです。私、ふだん、滑舌もっといいんですけれども、今日はいつもの七割ぐらいのテンションなので、中身も七割ぐらいのクオリティーになる可能性がありますので、その点もご容赦ください。

まず、今日のテーマですが、安倍政権、なぜこのような政権が存在していて、誰が支持しているのか。戦後日本の民主主義社会からなぜこのような政体が生み出され、それに対して政官財メディアがそれなりの支持を与えているのかという、非常にわかりにくい現状を解読してみたいと思います。

現政権のありようを制度の劣化、制度の崩壊というように、先ほど山口先生がおっしゃいましたけれども、崩壊したり劣化する側にも主観的には合理性があるわけです。正しいことをしている、いいことをしている、日本の国民のためにやっているんだと、本人たちはそういうつもりでいるわけです。初めから日本を劣化させてやろうというよう悪心をもってやっているわけじゃない。我々の側から見ると、日本の制度をぶちこわしにしているようにしか見えないんですけれども、先方には主観的な合理性がある。主観的には首尾一貫性がある。たぶん正しいことをしているつもりでいる。僕としては、自分の判断をいったんかっこに入れて、彼らの側の主観的な首尾一貫性が何かということを見てゆきたいと考えています。

特に海外から見た場合に非常にわかりにくいと思いますが、日本の国家戦略が戦後一貫して「対米従属を通じての対米自立」というものです。これが戦後日本の基本的な国家戦略です。
でも、この「対米従属を通じての対米自立」ということは日本人にはわかるけれど、他国からはその理路が見えにくい。

僕は、個人的に勝手にこれを「のれん分け戦略」と呼んでいます。
日本人の場合、のれん分けというのは、わりとわかりやすいキャリアパスです。丁稚で奉公に上がって、手代になって、番頭になって、大番頭になって、ある日、大旦那さんから呼ばれて、「おまえも長いことよく忠義を尽くしてくれたね。これからは一本立ちしてよろしい。うちののれんを分けてやるから、これからは自分の差配でやりなさい」と、肩をぽんとたたかれて、独立を認められて、自分の店の主になる。そういうようなキャリアパスというか、プロモーション・システムというのは日本社会には伝統的に存在していました。
 だから、日本人にとっては、「徹底的に忠義を尽くし、徹底的に従属することによって、ある日、天賦のごとく自立の道が開ける」という構図には少しも違和感がないと思うんです。戦後日本人が「対米従属を通じての対米自立」という国家戦略に比較的簡単に飛びつけたのは、そして、そのことの「異常さ」にいまだに気がつかないでいることの一つの理由はこの「のれん分け戦略」というものが日本人の社会意識の中にかなり深く根を下ろしていたからではないかと思います。一種の伝統文化です。

対米従属を通じての対米自立というのは、敗戦直後の占領期日本においては、それなりに合理的な選択だったと思います。というよりそれ以外に選択肢がなかった。軍事的に決定的な敗北を喫して、GHQの指令に従うしかなかったわけですから。
この状態から、屈辱的な非占領状態から脱却するためには、とりあえずこの国にはもうアメリカに対して抵抗するような勢力は存在しない、レジスタンスもないし、パルチザンもないし、ソ連や中国の国際共産主義の運動と連動する勢力もないということを強く訴える必要があった。我々は、このあと軍事的な直接的占領体制から脱したとしても、決してアメリカに反発したり、アメリカに対抗する敵対勢力と同盟したりすることはありませんという誓約をなし、確証を与えないと、主権が回復できなかった。そういう切羽詰まった事情があったわけです。

その時期において、実際には面従腹背であったわけですけれども、対米従属という戦略を選んだことは、客観的にも主観的も合理的な選択だったと思います。それ以外の選択肢は事実上日本にはなかった。
ですから、吉田茂、岸信介、佐藤栄作あたりまで、一九七〇年代なかばまでの戦後政治家たちは、対米従属を通じてアメリカの信頼を獲得して、それによってアメリカに直接統治されている属国状態から、次第にフリーハンドを回復して、最終的に米軍基地がすべて撤去された後、憲法を改定して主権国家としての体面を回復する、そういうロードマップを描いていたのだと思います。アメリカから「のれん分け」してもらった後、外交についても、国防についても日本独自の戦略を展開してゆく。半世紀くらいかけてじわじわと独立を回復していく、そういう気長なスケジュールを組んでいたんだろうと思います。

そのスケジュールの選択というのは、当時の日本においては必至のものであったし、十分な合理性もあったと思います。そして、この戦略の合理性を確信させたのは、何よりも成功体験があったからです。対米従属したら、うまくいった。その成功体験があった。

一つは、一九五一年、サンフランシスコ講和条約です。戦後六年目にして、日本は形の上では独立を回復するわけですけれども、当時の国際社会の常識に照らしても、これほど敗戦国に対して寛容で融和的な講和条約というのは歴史上なかなか見い出しがたいと言われたほどに、寛大な講和条約が結ばれた。
これは、やはりそれまでの6年間の日本の対米従属の果実とみなすべきでしょう。ですから、日本の為政者たちは「対米従属戦略は正しかった」と確信することになった。対米従属によって主権の回復という大きな国益を獲得した。そういう成功体験として、サンフランシスコ講和条約は記憶されたのだろうと思います。
当分これでいこう、これだけ大きな譲歩をアメリカから得られたということは、これからさらに対米従属を続けていけばいくほど、日本の主権の回復は進んでゆくという楽観的な見通しをそのとき日本人たちは深く刻み込んだ。

あまりこういうことを言う人はいませんが、対米従属路線の二度目の成功体験は七二年の沖縄返還です。佐藤栄作首相はアメリカのベトナム戦争に対して全面的な後方支援体制をとりました。国際社会からはアメリカの帝国主義的な世界戦略に無批判に従属する日本の態度はきびしいまなざしに曝されました。僕自身も学生でしたから、なぜ佐藤栄作はこのような明らかに義のない戦争についてまで対米従属するのか、怒りを禁じ得なかったわけです。でも、イノセントな学生の目から見ると犯罪的な対米従属である佐藤栄作のふるまいも、長期的な国益という点で見ると、それなりの合理性があったわけです。義のない戦争に加担した代償として、日本は沖縄返還という外交的果実を獲得できたんですから。 

この二つの成功体験が日本人の「対米従属路線」への確信を決定づけたのだと僕は思います。少なくとも一九七二年、戦後二十七年までは「対米従属を通じての対米自立」という戦略は絵に描いた餅ではなくて、一定の現実性を持っていた。けれども、その現実性がしだいに希薄になってゆく。

人間は一度有効だった戦略に固着する傾向があります。
「待ちぼうけ」という童謡がありますね。元ネタは韓非子の「守株待兎」という逸話です。畑の隅の切り株にたまたま兎がぶつかって首の骨を折って死んだ。兎を持ち帰った農夫はそれに味をしめ、次の日からは耕作を止めて終日兎の来るのを待ち続けた。ついに兎は二度と切り株にぶつからず、畑は荒れ果てて、農夫は国中の笑いものになった。
「小成は大成を妨げる」と言いますけれども、日本はこの農夫に似ている。戦後の二つの成功体験によって、この成功体験、この戦略に居着いてしまった。国力をじっくり蓄え、文化を豊かにし、国際社会における信認を高めて、独立国、主権国家として国際社会に承認されるという迂遠な道を避け、ただ対米従属していさえすればよいという「待兎」戦略に切り替えた。

それまでの戦後政治家たちは、かなり複雑なマヌーバーを駆使して日米関係をコントロールしていたと思うんです。政治家ばかりでなく、官僚も学者や知識人も、日米関係というのは非常に複雑なゲームだということがわかっていた。それを巧みにコントロールして、できるだけ従属度を減らして、できるだけ主権的にふるまうというパワーゲームのためにそれなりの知恵を絞っていた。なにしろ、アメリカは日本にとって直近の戦争の敵国ですから、さまざまな点で国益が対立している。それを調整して、アメリカの国益増大を支援しつつ、日本の国益を増大させるというトリッキーなゲームですから、かなりの知的緊張が要求された。

ところが、僕の印象では、八〇年代から後、そういう緊張感が政治家たちに見えなくなくなってしまった。日米両国が、それぞれの国益をかけて、非常に厳しい水面下のバトルを展開しているという感じがなくなってしまった。ただ単純に対米従属してさえいればいいことがあるという思い込みに日本のエスタブリッシュメント全体が領されるようになった。対米従属をすると、「いいこと」があるという、シンプルな入力出力相関システム、いわゆる「ペニー=ガム・メカニズム」のようなものとして日米関係を構想する人たちがしだいに増えてきて、気がつけば多数派を形成するようになった。日米関係が一種の「ブラックボックス」になってしまって、「対米従属」という「ペニー銅貨」を放り込むと、「なにかいいこと」という「ガム」が出てくるという単純なメカニズム幻想が定着してしまった。そんなふうに日米関係が現実から遊離して、幻想の領域に浮き上がってしまったのが、だいたい80年代なかばから後ではないかと思います。

どうしてこんなことになったのかというと、結局は「時間の問題」だったと思います。
「対米従属を通じての対米自立」という発想そのものの合理性は、確かに論ずるまでもない。でも、時間がたってくると、その装置を管理運営する人間が入れ替わる。敗戦直後のとき、日本の外交戦略のフロントラインにいた人たちは、日米の国益の間には齟齬がある。両国の国益が一致するということは原理的にはありえないということを骨身にしみて知っていた。当たり前です、殺し合いをしてきたばかりなんですから。国益が相反するということがわかった上で、「面従腹背」のマヌーバーを展開していた。表面的にはアメリカに追随するが、本心では早くアメリカを厄介払いしたいと思っていた。
でも、面従腹背のポーズもそれが二世代三世代にわたって続くうちに変質してしまう。「面従」だけが残って、「腹背」が消えてしまう。対米従属がそのまま日本の国益増大であると頭から信じ込む人たちが増えてきた。増えてきたどころではなく、政界、財界、メディア、学会、どこでも、対米従属・日米同盟機軸以外の選択肢を考えたことがある人がいなくなってしまった。
以前、あるアメリカ政治の専門家に「日米同盟以外の安全保障の選択肢」について質問したことがありましたが、質問に驚いて絶句してしまいました。対米従属以外の政治的選択肢があるかどうかを吟味したことがなかったようでした。でも、例えば、イギリスの政治学者に「対米同盟以外の安全保障の選択肢」を訊いても、ドイツの政治学者に「EU以外の安全保障の選択肢」を訊いても、「考えたことがない」と答えることはありえないと思います。ふつうは「いまある仕組み以外の可能性」を、蓋然性がどれほど低くても、一応は考えておく。日本人だけが外交戦略において「日米同盟基軸」、つまり対米従属以外のいかなる選択肢についてもその可能性や合理性について考えない。これはあきらかに病的な症候です。

対米従属が国家戦略ではなく、ある種の病的固着となっていることがわかったのは、鳩山さんの普天間基地移転についての発言をめぐる騒ぎのときです。僕は、あのとき、報道を注視していて、ほんとうにびっくりした。あのときが、日本の大きな転換点ではなかったか思います。

鳩山首相は、普天間基地をできたら国外、せめて県外に移転したいと言ったわけです。国内における米軍基地の負担を軽減したい。できたら国外に移って欲しい、そう言った。外国の軍隊が恒常的に国内に駐留しているというのは、どの主権国家にとっても恥ずかしいことです。ふつうはそう感じます。外国の基地が常時駐留するのは誰が見ても軍事的従属国のポジションだからです。
フィリピンはアメリカの軍事的属国的なポジションの国でしたけれど、憲法を改正して外国軍の駐留を認めないことにしました。そのせいで米軍はクラーク、スーヴィックというアメリカ最大の海外基地からの撤収を余儀なくされました。韓国でも、激しい反基地運動を展開した結果、在韓米軍基地は大幅に縮小されました。ソウル市内にあった龍山基地も移転させられた。
でも、日本のメディアは、韓国やフィリピンにおける反基地運動をほとんど報道しませんでした。僕はまったく知らなかった。以前、海外特派員協会というところに呼ばれて講演したときに、司会をしていたイギリス人ジャーナリストから「韓国の反基地運動についてはどう思いますか」と質問されて、「その話を知りません」と答えたら、驚かれたことがあります。「安全保障や外交のことを話している人間が、隣国の基地問題を知らないのか?」と。でも、日本のメディアで、そんな話を聴いたことがなかった。
韓国では、長期にわたる反基地運動の結果、在韓米軍基地は縮小されています。日本では、相変わらず「半島有事に備えて」という理由で沖縄の軍事的重要性は変わらないというようなことを新聞の社説は書いている。でも、「半島有事の備え」がそれほど喫緊であるというのなら、朝鮮半島の米軍基地が縮小されている理由が説明できない。それほど北朝鮮の軍事リスクが高いなら、むしろ米軍を増強すべきでしょう。だから、そこを衝かれたくないので、日本では東アジアでの米軍基地縮小の事実そのものが報道されない。
さらにややこしいのは、韓国の場合は、そうやって米軍基地は縮小するけれども、戦時作戦統制権はまだアメリカに持っていてもらっているということです。つまり、米軍基地は邪魔だから出て行ってもらいたいけれど、北朝鮮と一戦構えるときには米軍に出動して欲しいので、戦時作戦統制権だけはアメリカに押しつけている。そうやってアメリカをステークホルダーに巻き込むという、かなりトリッキーな米韓関係を展開しています。
でも、これは主権国家としては当然のことなのです。米軍は平時はいると邪魔だが、非常時には必要になる。韓国側の自己都合でそういう勝手なことを言っている。主権国家というのは「そういうもの」です。自国の国益を優先して勝手なことを言うことのできる国のことです。韓国はその点で主権国家です。

フィリピンもそうです。一旦は米軍基地を邪魔だから出て行けと追い出しておきながら、南シナ海で中国との領土問題が起きてくると、やはり戻ってこいと言い始めた。言っていることは首尾一貫していないようですが、首尾一貫している。自国の国益を最優先している。

その中にあって、日本だけが違う。それぞれの国が自国の国益を追求していって、他国の国益との間ですり合わせをしていって、落としどころを探していく。これが本来の主権国家同士の外交交渉のはずですが、日本だけはアメリカ相手にそういうゲームをしていない。アジア諸国がアメリカと五分でシビアな折衝をしている中で、日本だけがアメリカに何も要求しないで、ただ唯々諾々とその指示に従っている。それどころか、近隣の国がアメリカ相手に堂々とパワーゲームを展開しているというニュース自体が、日本ではほとんど報道されない。

その鳩山さんの件ですけれども、鳩山さんは、国内に米軍基地、外国軍の基地があるということは望ましいことではないと言ったわけです。当たり前ですよね。主権国家としては、当然、そう発言すべきである。沖縄の場合は、日本国土の0.6%の面積に、国内の七五%の米軍基地が集中している。これは異常という他ない。この事態に対して、基地を縮小して欲しい、できたら国外に撤去していただきたいということを要求するのは主権国家としては当然のことなわけです。けれども、この発言に対しては集中的なバッシングがありました。特に外務省と防衛省は、首相の足を引っ張り、結果的に首相の退陣の流れをつくった。
アメリカから「鳩山というのはどうもアメリカにとって役に立たない人間だから、首相の座から落とすように」という指示があったと僕は思っていません。そんな内政干渉になるような指示をしなくても、鳩山が首相でいると、アメリカの国益が損なわれるリスクがあるから、引きずり下ろそうということを考える政治家や官僚がいくらも日本国内にいるからです。メディアも連日、「アメリカの信頼を失った鳩山は辞めるべきだ」という報道をしていました。なぜ、日本の首相が米軍基地の縮小や移転を求めたことが日本の国益を損なうことになるのか、僕には理由がわかりませんでした。
この事件は「アメリカの国益を最大化することが、すなわち日本の国益を最大化することなのである」という信憑を日本の指導層が深く内面化してしまった、彼らの知的頽廃の典型的な症状だったと思っております。
 
映画監督のオリバー・ストーンが、2013年に日本に来て、広島で講演をしたことがありました。これも日本のメディアは講演内容についてはほとんど報道しませんでした。オリバー・ストーンが講演で言ったのはこういうことです。
日本にはすばらしい文化がある、日本の映画もすばらしい、音楽も美術もすばらしいし、食文化もすばらしい。けれども、日本の政治には見るべきものが何もない。あなた方は実に多くのものを世界にもたらしたけれども、日本のこれまでの総理大臣の中で、世界がどうあるべきかについて何ごとかを語った人はいない。一人もいない。Don’t stand for anything 彼らは何一つ代表していない。いかなる大義も掲げたことがない。日本は政治的にはアメリカの属国(client state)であり、衛星国(satellite state)である、と。これは日本の本質をずばりと衝いた言葉だったと思います。アメリカのリベラル派の人たちのこれが正直な見解でしょう。

日本はたしかにさまざまな力を持っている。経済力も文化力もある。平和憲法を維持して、戦争にコミットせずに来た。けれども、国際社会に向けて発信するようなメッセージは何にも持っていない。アメリカに追随するという以外の独自の政治的方向性を持っていない。これは、アメリカ人のみならず、国際社会から見たときの日本に対する典型的な印象ではないかと思います。
そのとき、オリバー・ストーンは「そういえば、先般、オバマに逆らって首にされた総理大臣が一人いたが」と言っておりましたけれども、これはもちろんオリバー・ストーンの勘違いであります。別にオバマに逆らったから、オバマによって首にされたわけではなくて、彼を首にしたのは日本人だったからです。
首相が日本の国益を代表して、素直に国土を回復したい、主権を回復したいということをアメリカに伝えたら、寄ってたかって日本人がそれを潰したという事実そのものが日本の罹患した病の徴候だったと僕は思います。アプローチは拙劣だったかも知れないが、首相の主張は正しいという擁護の論陣を張ったメディアは僕の知る限りありませんでした。アメリカの信頼を裏切るような政治家に国政は託せないというのがほとんどすべてのメディアの論調でした。「ちょっと、それはおかしいんじゃないか」と言う人がほとんどいなかったことを僕は「おかしい」と思いました。
主権国家が配慮するのは、まず国土の保全、国民の安寧、通貨の安定、外交や国防についての最適政策の選択、そういったことだと思います。主権の第一条件である「国土の回復」を要求した従属国の首相が、国土を占領している宗主国によってではなくて、占領されている側の自国の官僚や政治家やジャーナリストによって攻撃を受ける。これは倒錯的という他ありません。

なぜこのような病的傾向が生じたのか。それは「対米従属を通じての対米自立」という敗戦直後に採用された経験則を、その有効性についてそのつど吟味することなく、機械的にいまだに適用し続けているせいだと思います。でも、考えてもみてください。1972年の沖縄返還から後は、もう42年経っている。その間、アメリカから日本が奪還したものは何一つないわけです。42年間、日本は対米従属を通じて何一つ主権を回復していないんです。対米従属は日本にこの42年間、何一つ見るべき果実をもたらしていないという現実を「対米従属論者」はどう評価しているのか。このままさらにもう50年、100年この「守株待兎」戦略を継続すべきだという判断の根拠は何なのか。これを続ければ、いつ沖縄の基地は撤去されるのか、横田基地は戻って来るのか。それを何も問わないままに、前例を踏襲するという前例主義によって対米従属が続いている。

アメリカから見ると、日本側のプレイヤーの質が変わったということは、もうある段階で見切られていると思うんです。それまで日本は、それなりにタフなネゴシエーターであった。対米従属のカードを切った場合には、それに対する見返りを要求してきた。しかし、ある段階から、対米従属が制度化し、対米従属的なマインドを持っている人間だけしか日本国内のヒエラルキーの中で出世できないような仕組みになった。それから、相手にするプレイヤーが変わったということに、アメリカはもう気づいていると思います。
かつてのプレイヤーは対米従属を通じて、日本の国益を引き出そうとしていたわけですけれど、いまのプレイヤーたちは違う。アメリカの国益と日本の国益という本来相反するはずのものを「すり合わせる」ことではなく、アメリカの国益を増大させると「わが身によいことが起こる」というふうに考える人たちが政策決定の要路に立っている。
現に、これまで対米従属路線を疑うことなくひた走ってきたせいで「今日の地位」を得た人たちがそこにいるわけですから、彼らがこれからも対米従属路線をひた走ることはとどめがたい。彼らにおいては、いつのまに国益追求と自己利益の追求がオーバーラップしてしまっている。何のための対米従属かというと、とりあえず、そうすると「わが身にはよいことが起こる」のが確実だからです。
植民地において、植民地原住民であるにもかかわらず、宗主国民にすりよって、その便宜をはかる代わりに、政治的経済的な見返りを要求するものは清朝末期に「買弁」と呼ばれました。今の日本の指導層は、宗主国への従属的ポーズを通じて、自己利益を増大させようとしている点において、すでに「買弁的」であると言わざるを得ないと僕は思っています。

では、この後、日本は一体どうやって主権回復への道を歩んでいったらいいのか。
今、アメリカから見て、日本というのは非常に不可解な国に見えていると思います。
かつての吉田茂以来の日本のカウンターパートは、基本的に日本の国益を守るためにアメリカと交渉してきた。その動機は明確だった。けれども、ある段階から、そうでなくなってきてしまった。対米従属戦略が面従腹背の複雑なタクティクスであることを止めて、疑い得ない「国是」となってしまった。それによって日本の国益が少しも増大しないにもかかわらず、対米従属することに誰も反対できない。そういう仕組みが四十年間続いている。
そうすると、アメリカは日本の政治家をどう見るか。交渉する場合、日本の代表者が自国の国益を増大しようと思っているのであるならば、そこで展開するゲームには合理性があるわけです。アメリカの国益と日本の国益というのは、利害が相反する点があり、一致する点がある。そのすりあわせをするのが外交だった。ところが、いつのまにか、あきらかに日本の国益を害することが確実な要求に対しても、日本側が抵抗しなくなってきた。そのふるまいは彼らが日本の国益を代表していると考えると理解できない。日本を統治している人たちが、自国の国益の増大に関心がないように見えるわけですから。

例えば、特定秘密保護法です。特定秘密保護法というものは、要するに民主国家である日本が、国民に与えられている基本的な人権である言論の自由を制約しようとする法律です。国民にとっては何の利もない。なぜ、そのような反民主的な法律の制定を強行採決をしてまで急ぐのか。
理由は「このような法律がなければアメリカの軍機が漏れて、日米の共同的な軍事作戦の支障になる」ということでした。アメリカの国益を守るためにであれば、日本国民の言論の自由などは抑圧しても構わない、と。安倍政権はそういう意思表示をしたわけです。そして、アメリカの軍機を守るために日本国民の基本的人権を制約しましたとアメリカに申し出たわけです。日本の国民全体の利益を損なうことを通じて、アメリカの軍機を守りたい、と。言われたアメリカからしてみたら、「ああ、そうですか。そりゃ、どうも」という以外に言葉がないでしょう。たしかにそうおっしゃって頂けるのはまことにありがたいことではあるえれど、一体何で日本政府がそんなことを言ってくるのか、実はよくわからない。なぜ日本は国民の基本的人権の制約というような「犠牲」をアメリカのために捧げるのか。

『街場の戦争論』(ミシマ社刊)にも書きましたけれども、そもそも国家機密というのは、政府のトップレベルから漏洩するから危険なわけです。ご存じのとおり、イギリスのキム・フィルビー事件というのがありました。MI6の対ソ連諜報部の部長だったキム・フィルビーが、ずっとソ連のスパイであって、イギリスとアメリカの対ソ連情報はすべてソ連に筒抜けだったという戦後最大のスパイ事件です。それ以来、諜報機関の中枢からの機密漏洩はどうすれば防げるかというのが、インテリジェンスについて考える場合の最大の課題なわけです。
その前にも、イギリスではプロヒューモ事件というものがありました。陸軍大臣が売春婦にいろいろと軍機を漏らしてしまった。でも、ピロートークで漏れる秘密と、諜報機関のトップから漏れる秘密では機密の質が違います。ですから、ほんとうに真剣に諜報問題、防諜の問題を考えるとすれば、どうやって国家の中枢に入り込んでしまった「モグラ」からの情報漏洩を防ぐかということが緊急の課題になるはずです。
けれども、今回の特定秘密保護法は、世界が経験した史上最悪のスパイ事件については全く配慮していない。キム・フィルビー事件のようなかたちでの機密漏洩をどうやって防ぐかということに関しては誰も一秒も頭を使っていない。そういうことは「ない」ということを前提に法律が起案されている。つまり、今現に、日本で「キム・フィルビー型の諜報活動」を行っている人間については、「そのようなものは存在しない」とされているわけです。彼らは未来永劫にフリーハンドを保証されたことになる。いないものは探索しようもないですから。
現に国家権力の中枢から国家機密が漏洩しているということは、日本ではもう既に日常的に行われていると僕は思っています。どこに流れているか。もちろんアメリカに流れている。政治家でも官僚でもジャーナリストでも、知る限りの機密をアメリカとの間に取り結んだそれぞれの「パイプ」に流し込んでいる。それがアメリカの国益を増大させるタイプの情報であれば、その見返りは彼らに個人的な報奨としてリターンされてくる。結果的に政府部内や業界内における彼らの地位は上昇する。そして、彼らがアメリカに流す機密はますます質の高いものになる。そういう「ウィン・ウィン」の仕組みがもう出来上がっている、僕はそう確信しています。特定秘密保護法は、「機密漏洩防止」ではなく、彼らの「機密漏洩」システムをより堅牢なものとするための法律です。アメリカの国益増大のために制定された法律なんですから、その法律がアメリカの国益増大のための機密漏洩を処罰できるはずがない。
特定秘密保護法にアメリカが反対しなかったというのは、自国民の基本的人権を制約してまでアメリカの軍機を守るという法律制定の趣旨と、権力中枢からの情報漏洩については「そのようなものは存在しない」という前提に立つ法整備に好感を抱いたからです。これから先、日本政府の中枢からどのようなかたちで国家機密がアメリカに漏洩しようとも、いったん「特定秘密」に指定された情報については、それが何であるか、誰がそれをどう取り扱ったか、すべてが隠蔽されてしまう。どれほど秘密が漏洩しても、もう誰にもわからない。

もし、僕がアメリカの国務省の役人だったら、日本人は頭がおかしくなったのかと思ったはずです。たしかにアメリカにとってはありがたいお申し出であるが、何でこんなことをするのかがわからない。どう考えてみても日本の国益に全く資するところがない。そもそも防諜のための法律として機能しそうもない。そのようなザル法を制定する代償として、自国民の基本的人権を抑圧しようという。言論の自由を制約してまで、アメリカに対してサービスをする。たしかにアメリカ側としては断るロジックがありません。わが国益よりも民主主義の理想の方が大切だから、そんな法律は作るのを止めなさいというようなきれいごとはアメリカ政府が言えるはずがない。日本からの申し出を断るロジックはないけれど、それでも日本人が何を考えているかはわからない。いったい、特定秘密保護法で日本人の誰がどういう利益を得るのか?
日本政府が日本の国益を損なうような法律を「アメリカのために」整備したのだとすれば、それは国益以外の「見返り」を求めてなされたということになる。国益でないとすれば何か。現政権の延命とか、政治家や官僚個人の自己利益の増大といったものを求めてなされたとみなすしかない。
現に、米国務省はそう判断していると思います。日本政府からの「サービス」はありがたく受け取るけれど、そのようにしてまでアメリカにおもねってくる政治家や官僚を「日本国益の代表者」として遇することはしない、と。

集団的自衛権もそうです。集団的自衛権というのは、何度も言っていますけれども、平たく言えば「他人の喧嘩を買う権利」のことです。少なくともこれまでの発動例を見る限りは、ハンガリー動乱、チェコスロバキア動乱、ベトナム戦争、アフガニスタン侵攻など、ソ連とアメリカという二大超大国が、自分の「シマ内」にある傀儡政権が反対勢力によって倒されそうになったときに、「てこ入れ」するために自軍を投入するときの法的根拠として使った事例しかない。
何で日本が集団的自衛権なんか行使したがるのかが、ですから僕にはさっぱりわからない。いったいどこに日本の「衛星国」や「従属国」があるのか。海外のどこかに日本の傀儡政権があるというのであれば、話はわかる。その親日政権が民主化運動で倒れかけている。しようがないから、ちょっと軍隊を出して反対勢力を武力で弾圧して、政権のてこ入れをしてこようというのであれば、ひどい話ではあるけれども、話の筋目は通っている。でも、日本にはそんな「シマうち」の国なんかありません。
結局、集団的自衛権の行使というのは、現実的にはアメリカが自分の「シマうち」を締めるときにその海外派兵に日本もくっついていって、アメリカの下請で軍事行動をとるというかたちしかありえない。アメリカの場合、自国の若者が中東や西アジアやアフリカで死ぬということにもう耐えられなくなっている。意味がわからないから。でも、海外の紛争には介入しなければならない。しかたがないから、何とかして「死者の外部化」をはかっている。無人飛行機を飛ばしたり、ミサイルを飛ばしたりしているというのは、基本的には生身の人間の血を流したくないということです。攻撃はしたいけれども、血は流したくない。だから、民間の警備会社への戦闘のアウトソーシングをしています。これはまさに「死者の外部化」に他なりません。たしかに、これによって戦死者は軽減した。でも、その代わり莫大な財政上の負荷が生じた。警備会社、要するに傭兵会社ですけれど、めちゃくちゃな値段を要求してきますから。アメリカは、その経済的な負担に耐えることができなくなってきている。
そこに日本が集団的自衛権の行使容認を閣議決定しましたと言ったら、アメリカ側からしてみると大歓迎なわけです。これまで民間の警備会社にアウトソーシングして、莫大な料金を請求されている仕事を、これから自衛隊が無料でやってくれるわけですから。願ってもない話なわけですよね。「やあ、ありがとう」と言う以外に言葉がない。
ただ、「やあ、ありがとう」とは言いながら、何で日本がこんなことをしてくれるのか、その動機についてはやっぱり理解不可能である。
アメリカが金を払って雇っている傭兵の代わりに無料の自衛隊員を使っていいですというオファーを日本政府はしてきているわけで、それがどうして日本の国益増大に資することになるのか、アメリカ人が考えてもわからない。
つまり、確かに日本政府がやっていることはアメリカにとってはありがたいことであり、アメリカの国益を増すことではあるんだけれども、それは少しも日本の国益を増すようには見えない。これから自衛隊が海外に出ていって、自衛隊員がそこで死傷する。あるいは、現地人を殺し、町を焼いたりして、結果的に日本そのものがテロリストの標的になるという大きなリスクを抱えることになるわけです。戦争にコミットして、結果的にテロの標的になることによって生じる「カウンターテロのコスト」は巨大な額にのぼります。今の日本はテロ対策のための社会的コストをほとんど負担していないで済ませている。それをいきなり全部かぶろうというわけですから、アメリカとしては「やあ、ありがとう」以外の言葉はないけれど、「君、何を考えてそんなことするんだ」という疑念は払拭できない。

僕はいつも自分がアメリカ国務省の小役人だったらという想定で物を考えるんですけれども、上司から「内田君、日本は特定秘密保護法といい、集団的自衛権行使容認といい、アメリカのためにいろいろしてくれているんだけれど、どちらも日本の国益に資する選択とは思われない。いったい日本政府は何でこんな不条理な決断を下したのか、君に説明できるかね」と問われたら、どう答えるか。
たしかに、国益の増大のためではないですね。沖縄返還までの対米従属路線であれば、日本が犠牲を払うことによってアメリカから譲歩を引き出すというやりとりはあったわけですけれども、この間の対米従属をみていると、何をめざしてそんなことをしているのか、それがよく見えない。たぶん、彼らは国益の増大を求めているのではないんじゃないかです、と。そう答申すると思います。
今、日本で政策決定している人たちというのは、国益の増大のためにやっているのではなくて、ドメスチックなヒエラルキーの中で出世と自己利益の拡大のためにそうしているように見えます。つまり、「国民資源をアメリカに売って、その一部を自己利益に付け替えている」というふうに見立てるのが適切ではないかと思います、と。 

国民資源というのは、日本がこれから百年、二百年続くためのストックのことです。それは手を着けてはいけないものです。民主制という仕組みもそうだし、国土もそうだし、国民の健康もそうだし、伝統文化もそうです。でも、今の日本政府はストックとして保持すべき国民資源を次々と商品化して市場に流している。それを世界中のグローバル企業が食いたい放題に食い荒らすことができるような仕組みを作ろうとしている。そんなことをすれば、日本全体としての国民資源は損なわれ、長期の国益は逓減してゆくわけですけれども、政官財はそれを主導している。彼らのそういう気違いじみた行動を動機づけているものは何かと言ったら、それが国益の増大に結びつく回路が存在しない以上、私利私欲の追求でしかないわけです。
自傷的、自滅的な対米従属政策の合理的な根拠を求めようとすれば、それは、対米従属派の人たち自身がそこから個人的に利益を得られる仕組みになっているからという以外に「国務省の役人になったと想像してみた内田」のレポートの結論はありません。

対米従属すればするほど、社会的格付けが上がり、出世し、議席を得、大学のポストにありつき、政府委員に選ばれ、メディアへの露出が増え、個人資産が増える、そういう仕組みがこの42年間の間に日本にはできてしまった。この「ポスト72年体制」に居着いた人々が現代日本では指導層を形成しており、政策を起案し、ビジネスモデルを創り出し、メディアの論調を決定している。

ふつう「こういうこと」は主権国家では起こりません。これは典型的な「買弁」的な行動様式だからです。植民地でしか起こらない。買弁というのは、自分の国なんかどうだって構わない、自分さえよければそれでいいという考え方をする人たちのことです。日本で「グローバル人材」と呼ばれているのは、そういう人たちのことです。日本的文脈では「グローバル」という言葉をすべて「買弁」という言葉に置き換えても意味が通るような気がします。文科省の「グローバル人材育成」戦略などは「買弁人材育成」と書き換えた方がよほどすっきりします。

安倍さんという人は、一応、戦後日本政治家のDNAを少しは引き継いでいますから、さすがにべったりの対米従属ではありません。内心としては、どこかで対米自立を果さなければならないと思ってはいる。けれども、それを「国益の増大」というかたちではもう考えられないんです。そういう複雑なゲームができるだけの知力がない。
だから、安倍さんは非常にシンプルなゲームをアメリカに仕掛けている。アメリカに対して一つ従属的な政策を実施した後には、一つアメリカが嫌がることをする。
ご存じのとおり、集団的自衛権成立の後に、北朝鮮への経済制裁を一部解除しました。沖縄の仲井真知事を説得して辺野古の埋め立て申請の承認を取り付けた後はすぐに靖国神社に参拝しました。つまり、「アメリカが喜ぶこと」を一つやった後は、「アメリカが嫌がること」を一つやる。おもねった後に足を踏む。これが安倍晋三の中での「面従腹背」なのです。日米の国益のやりとりではなく、アメリカの国益を増大させた代償に、「彼が個人的にしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」をやってみせる。主観的には「これで五分五分の交渉をしている」と彼は満足しているのだろうと思いますけれど、靖国参拝や北朝鮮への譲歩がなぜ日本国益の増大に結びつくのかについての検証はしない。彼にとっては「自分がしたいことで、アメリカが厭がりそうなこと」ではあるのでしょうけれど、それが日本の国益増に資する政策判断であるかどうかは吟味することさえしていない。
「対米従属を通じての対米自立」という戦後日本の国家戦略はここに至って、ほとんど戯画のレベルにまで矮小化されてしまったと思います。
だから、これから後も彼は同じパターンを繰り返すと思います。対米譲歩した後に、アメリカが厭がりそうなことをする。彼から見たら、五ポイント譲歩したので、五ポイント獲得した。これが外交だ、と。彼自身は、それによって、アメリカとイーブンパートナーとして対等な外交交渉をしているつもりでいると思うんです。

時間がもうあと十分しかないので、では一体これから我々はどうやって主権国家として、主権国家への道を歩んだらいいかということを述べたいと思います。

国というものを、皆さんはたぶん水平的に表象していると思います。
ビジネスマンはそうです。今期の収益とか、株価ということばかり考えている人は、それと同じように国のことも考える。ですから、世界を水平的に、二次元的に「地図」として表象して、その中での自分たちの取り分はどれぐらいか、パイのどれぐらいを取っているか。そういうような形で国威や国力を格付けしてようとしている。けれども、本来の国というのは空間的に表象するものではない、僕はそう思っています。地図の上の半島の広さとか、勢力圏というものを二次元的に表象して、これが国力であると考えるのは、間違っていると思う。

国というのはそういうものではなくて、実際には垂直方向、時間の中でも生きているものです。我々がこの国を共有している、日本なら日本という国の構成メンバーというのは、同時代に生きている人間だけではない。そこには死者も含まれているし、これから生まれてくる子供たちも含まれている。その人たちと、一つの多細胞性物のような共生体を私たちは形づくっている。そこに、国というもののほんとうの強みがあると思います。

鶴見俊輔さんは、開戦直前にハーバード大学を卒業するわけですけれども、そのときにアメリカに残るか、交換船で日本に帰るかという選択のときに、日本に帰るという選択をします。自分は随分長くアメリカにいて、英語で物を考えるようになってしまったし、日本語もおぼつかなくなっている。そもそも日本の政治家がどの程度の人物かよくわかっているし、多分、日本はこれから戦争をやったら負けるだろう。そこまでわかっていたけれども、日本に帰る、そう決意する。そのときの理由として鶴見さんが書いているのは、負けるときには自分の「くに」にいたい、ということでした。

「くに」とともに生き死にしたいというのは、これは、やはりすごく重たいことだと思うんです。この感覚というのは、なかなか政治学の用語ではうまく語り切ることができないんですけれども、簡単に想像の共同体だ、共同幻想だとか言い切られてしまっては困る。というのは、実際に、我々日本人は、現在列島に居住する一億三千万人だけでなく、死者たちも、これから生まれてくる子供たちも、同じ日本人のフルメンバーであるからです。ですから、過去の死者たちに対しては、彼らが犯した負債に関しては、我々は受け継がなければいけない。そして、できたら完済して、できなければ、できるだけ軽減して、次世代に送り出さなければいけない。その仕事が僕らに課されているだろうと思っています。

今の日本ではグローバリズムとナショナリズムが混交しています。グローバリストはしばしば同時に暴力的な排外主義者でもある。僕はそれは別に不思議だとは思わない。それは彼らがまさに世界を二次元的に捉えていることの結果だと思うんです。グローバルな陣地取りゲームで、自分たちの「取り分」「シェア」を増やそうとしている。その点ではグローバル資本主義者と排外的ナショナリストはまったく同型的な思考をしている。
そして、排外主義ナショナリストというのは、伝統文化に関して全く関心を示しません。死者に対して関心がないからです。彼らにとって死者というのは、自説の傍証として便利なときに呼び出して、使役させるだけの存在です。都合のいいときだけ都合のよい文脈で使って、用事がなければ忘れてしまう。自分に役立つ死者は重用するけれど、自説を覆す死者や、自説に適合しない死者たちは「存在しないこと」にして平気です。それはかれらが「くに」を考えているときに、そこには死者もこれから生まれてくる人たちも含まれていないからです。

でも、僕たちが最終的に「くに」を立て直す、ほんとうに「立て直す」ところまで追い詰められていると思うんですけれども、立て直すときに僕らが求める資源というのは、結局、二つしかないわけです。
一つは山河です。国破れて山河あり。政体が滅びても、経済システムが瓦解しても、山河は残ります。そこに足場を求めるしかない。もう一つは死者です。死者たちから遺贈されたものです。それを僕たちの代で断絶させてはならない。未来の世代に伝えなければならないという責務の感覚です。

山河というのは言語であり、宗教であり、生活習慣であり、食文化であり、儀礼祭祀であり、あるいは山紫水明の景観です。我々自身を養って、我々自身を生み、今も支えているような、人工的なものと自然資源が絡み合ってつくられた、一つの非常に複雑な培養器のようなもの、僕はそれを山河と呼びたいと思っています。山河とは何かということを、これから先、僕はきちんと言葉にしていきたいと思っています。

もう一つは死者たちです。死者たちも、未来の世代も、今はまだ存在しない者も、我々のこの国の正規のフルメンバーであって、彼らの権利、彼らの義務に対しても配慮しなければいけない。

僕は合気道をやっているわけですけれども、経験的にわかることの一つというのは、例えば体を動かすと、自分の体の筋肉、骨格筋とか、関節とか、そういうものを操作しようと思って、具体的に、今、存在するものをいじくっていっても体は整わないということです。
しかし、例えば今、手の内に刀を持っている。ここに柄があって、刃筋があって、切っ先がそこにある。手に持っていないものをイメージして体を使うと、全身が整う。
これは長く稽古してよくわかったことなんですけれども、実際には、我々は今、存在するもの、そこに具体的に物としてあるものを積み上げていって、一つの組織や集団をつくっているのではなくて、むしろ「そこにないもの」を手がかりにして、組織や身体、共同体というものを整えている。これは、僕は実感としてわかるんです。

今、日本人に求められているものというのは、日本人がその心身を整えるときのよりどころとなるような「存在しないもの」だと思います。存在しないのだけれど、ありありと思い浮かべることができるもの、それを手にしたと感じたときに、強い力が発動するもの、自分の体が全部整っていて、いるべきときに、いるべきところにいるという実感を与えてくれるもの。太刀というのは手を延長した刃物ではなくて、それを握ることによって体が整って、これを「依代」として巨大な自然の力が体に流れ込んでくる、そういう一つの装置なわけです。それは、手の内にあってもいいし、なくてもいい。むしろ、ないほうがいいのかも知れない。

今、日本が主権国家として再生するために、僕らに必要なものもそれに近いような気がします。存在しないもの、存在しないにもかかわらず、日本という国を整えて、それをいるべきときに、いるべきところに立たせ、なすべきことを教えてくれるようなもの。そのような指南力のある「存在しないもの」を手がかりにして国を作って行く。
日本国憲法はそのようなものの一つだと思います。理想主義的な憲法ですから、この憲法が求めている「専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去する」ことはたぶん未来永劫実現しない。地上では実現するはずがない。でも、そのような理想を掲げるということは国のかたちを整える上で非常に有効なわけです。何のためにこの国があるのか、自分の国家は何を実現するために存在するのかということを知るためには、我々が向かっている、ついにたどりつくことのない無限消失点なるものをしっかりとつかまなければいけない。それなしではどのような組織も立ちゆきません。

これからどうやって日本という国を立て直していくのか考えるときには、つねに死者たちと、未だ生まれてこざる者たちと、生きている自分たちが一つの同胞として結ばれている、そういう考え方をするしかないのかなと思っております。
これから日本は一体どうなっていくのか。実は、僕はあまり悲観していないんです。ここまでひどい政権だと、いくら何でも長くは保たないと思うんです。特に、隣国や国際社会の諸国から、もうちょっと合理的な思考をする政治家に統治してもらいたいという強い要請があると思うんです。そうでないと外交がゲームにならないから。

現在の日本の安倍政権というのは、アメリカとも、中国とも、韓国とも、北朝鮮とも、ロシアとも、近隣の国、どこともが外交交渉ができない状態ですね。ほとんど「来なくていい」と言われているわけです。安倍さんが隣国のどことも実質的な首脳会談ができないのは、彼の国家戦略に対して、ほかの国々に異論がある、受け入れらないということではないと思います。日本の国家戦略がわからないからですよね。それでは、交渉しようがない。

安倍さんが選択している政策は、あるいは単なる政治的延命のためのものなのかと思ったら、外国は怖くて、こんな人とは外交交渉はできないでしょう。個人的な政治的延命のために国政を左右するような人間とは誰だって交渉したくない。あまりに不安定ですから。国と国との約束は、そこで約束したことが五年、十年後もずっと継続する、国民の意思を踏まえていないと意味がない。でも、安倍さんの外交はどう見ても国民の総意を代表しているものとは思われない。日本国民が「代表してもらっていない」と思っているというのではなく、諸国の首脳が「この人の言葉は国の約束として重んじることができるのか」どうか疑問に思っているからです。ですから、これから先、安倍政権である限り、対米、対中、対韓、対ロシアのどの外交関係もはかばかしい進展はないと思います。どの国も「次の首相」としてもう少しもののわかった人間が出てくることを待っていて、それまでは未来を縛るような約束は交わさないつもりでいると思います。
安倍政権に関しては、僕はそれほど長くは保たないと思います。既に自民党の中でも、次を狙っている人たちが動き出している。ただ、先ほど話したように、対米従属を通じて自己利益を増すという「買弁マインド」を持った人たちが、現在の日本のエスタブリッシュメントを構築しているという仕組み自体には変化がない以上、安倍さんが退場しても、次に出てくる政治家もやはり別種の「買弁政治家」であることに変わりはない。看板は変わっても、本質は変わらないと思います。

どうやったらこのような政治体制を批判できるのか。僕が学術というものを最終的に信じているのはそこなんです。為政者に向かって、あなた方はこういうロジックに従ってこのような政策判断をして、あなた方はこういう動機でこの政策を採用し、こういう利益を確保しようとしている、そいうことをはっきり告げるということです。理非はともかく、事実として、彼ら政治家たちがどういうメカニズムで動いているものなのかをはっきりと開示する。本人にも、国民全体にも開示する。別に彼らが際立って邪悪であるとか、愚鈍であるとか言う必要はない。彼らの中に走っている主観的な首尾一貫性、合理性をあらわにしてゆく。その作業が最も強い批評性を持っているだろうと僕は思います。
 

僕は、知恵と言葉が持っている力というのはとても大きいと思うんです。面と向かって、「おまえは間違っている」とか、「おまえは嫌いだ」とか言ってもだめなんです。そうではなくて、「あなたはこう考えているでしょう。だから、次、こうするでしょう。あなたの内的ロジックはこうだから、あなたがすることが私には予見できる」と。民話に出てくる「サトリ」ではないですけれど、他人におのれ思考の内的構造を言い当てられると、人間はフリーズしてしまって、やろうと思っていたことができなくなってしまう。人の暴走を止めようと思ったら、その人が次にやりそうなことをずばずば言い当てて、そのときにどういう大義名分を立てるか、どういう言い訳をするか、全部先回りして言い当ててしまえばいい。それをされると、言われた方はすごく嫌な気分になると思うんです。言い当てられたら不愉快だから、それは止めて、じゃあ違うことをやろうということになったりもする。そういうかたちであれば、口説の徒でも政治過程に関与することができる。僕はそういうふうに考えています。

立憲デモクラシーの会には多くの知性が集合しているわけですが、僕はこういうネットワークを政治的な運動として展開するということには実はあまり興味がないんです。その政治的有効性に対しても、わりと懐疑的なんです。真に政治的なものは実は知性の働きだと思っているからです。
今、何が起きているのか、今、現実に日本で国政の舵をとっている人たちが何を考えているのか、どういう欲望を持っているのか、どういう無意識的な衝動に駆動されているのか、それを白日のもとにさらしていくという作業が、実際にはデモをしたり署名を集めたりするよりも、時によっては何百倍何千倍も効果的な政治的な力になるだろうと僕は信じております。

これからもこういう厭みな話をあちこちで語り続ける所存でございます。何とかこの言葉が安倍さんに届いて、彼がすごく不愉快な気分になってくれることを、そして俺はこんなことを考えているのかと知って、ちょっと愕然とするという日が来ることを期待して、言論活動を続けてまいりたいと思っております。皆さん方のご健闘を祈っております。ご清聴、どうもありがとうございました。