ネット時代の共生の作法

2014-09-05 vendredi

ある学会誌からインタビューの申し込みがありました。携帯の廃棄物としての重要性を論じるという切り口だったのですけれど、いつのまにあぜんぜん違う話になってしまいました・・・
学会誌なので、一般読者の目に触れる機会がないと思いますので、ここに採録しておきます。


現在、人口比一人1.3台所持しているといわれる携帯電話。その一方で、出荷数2,610万台のうち、その70%の1,780万台が廃棄されています。これだけ消費されている携帯電話ですが、ケータイやネットによるいじめや犯罪など、現代の社会問題としてもクローズアップされてきています。この膨大な廃棄物となる携帯電話は、何のために利用され、わたしたちのくらしとどう折り合いをつけていくのか。人間の社会活動に造詣の深く日和らない、武道家であり思想家である内田樹氏に、ネット社会のありようやこれからの社会の行方を伺いました。みなさんとともに考えていきたいと思います。

—ケータイやインターネットの発現によって、現在、社会の中でどういった現象が起きていると思われますか?

大きな流れとして、携帯やネットを利用する人たちの間で情報リテラシーの二極化が急速に進行していると思います。
一方に良質な情報を選択的に享受できる人たちがおり、他方にジャンクな情報やデマゴギーを大量に服用させられている人たちがいる。この両者の間の情報格差がかつてなく広がっています。その階層化は、情報量の差によってではなくて、目の前の情報のクオリティを判定できる能力の差によってかたちづくられています。
自分が知らないことについて情報の真偽を判定するということは原理的にできません。でも、その情報をもたらすソースの信頼性や、情報が差し出されるマナーの適否、情報が流れてくる文脈については判定できる。「情報についての情報」をどれだけ持っているかによって情報社会の強者と弱者は差別化されます。
「情報についての情報」、メタ情報とは言い換えると、自分自身の「知のありよう」についてのマップを持っているということです。自分は何を知っていて、何を知らないのかについて俯瞰的に見ることができるということです。図書館の案内図と同じです。どこの書架に行けばどの情報を得られるかを知っている人は、自分が今持たない情報についても必要なときにアクセスできる。それは「潜在的にはすでに知っている」ということに等しい。
情報格差を形成するのは「今所有している情報」の多寡ではなく「潜在的に所有している情報=いつでもアクセス可能な情報」の多寡です。情報弱者というのは、自分が知っていることが知の布置全体のうちのどこに位置づけられるのかを言えない。自分の持っている情報についての客観評価を下す足場を持っていない。

安売りの全能感

例えば、20年、30年前にはなかったことですけど、街のあんちゃん、おっさんたちがウィキペディアで仕込んだばかりの一知半解の知識で、「こんなことも知らないのか」と学者に向かって喧嘩を売ってくるようになった。この人たちって、単一の論件については偏執的に詳しかったりするのです。数値や日付や書名や人名をぺらぺら諳んじてみせる。そして「自分のような素人でも知っていることを知らない学者にはこの論件について語る資格はない」と一刀両断する。ほとんどこのワンパターンです。彼らにとっては情報というのは「量」ではかるものであって、「質」についての判定がありうるということを知らない。彼らは学者というのをただ「知識を大量に持っている人」だと見なしているので、自分が知っていることを知らない人間はいきなり「自分と同程度かそれ以下」に格付けされる。だから、彼らは必ずまず「私はずぶの素人ですが」とか「ものを知らない人間ですけど」という名乗りをしてきます。別に謙遜しているわけではなく「バカでも知っていることを知らない」というレッテルを他人に貼り付けたいだけです。
これ、やれば簡単なのです。統計数値や年号の一つでも覚えておいて、専門家に「あなた言えますか?」と訊いて、答えられなければ「論ずる資格なし」と切り捨てることができる。この専門家を切り捨てることの全能感はたいへんに強烈なので、一度味をしめた人間は必ずこれにアディクトしてしまう。そして回復不能の情報弱者へと自己形成してしまう。
専門家も知らないような知識にすぐにアクセスできるというのはネットがもたらしたすばらしい恩恵ですけれど、それは同時にある種の全能感を人々に安売りしてしまった。体系的な勉強なんかしなくても、キーボードをちゃかちゃか叩けば、この世のことはすぐに知れると思い込んでいる。

Wikipediaの罠

何年か前にアメリカの大学で、日本の近世史の授業で「島原の乱」についてのレポートを学生に課したところ、ほとんどの学生が「島原の乱はイエズス会の陰謀だ」って書いてきた(笑)。そんな話専門家の間では聞いたことがないので、先生がもしやと思ってWikipedia調べたら、そう書いてあった。みんな、それ読んでそのまま写して書いていたわけです。それで先生は今後一切Wikipediaからのコピペはまかりならんと(笑)。
ネット検索すると、情報が羅列されていますが、それはアクセス数の順に配列されている。ですから、1頁目に出てくる情報は繰り返し読まれるけれど、2頁以下の情報はほとんど読まれない。一度もののはずみで1位になった情報は繰り返しアクセスされるので、2頁以下の情報とたちまちアクセス数が一万倍くらい違ってくる。たとえ虚偽の情報であっても、一度上位に格付けされると後はポジティブ・フィードバックがかかって世界を席巻する「定見」と見なされてしまう。情報のクオリティがアクセス数という量によって計量される。けっこう怖い話なんです。キーボードを叩けばダイレクトにアクセスできる「知の源泉」では、実は科学的検証に耐えないジャンク情報が大きな顔をしている場合もある。それを知らない人たちがネットにアディクトする。

-ネットがもたらす恐ろしい部分ですよね。でも、どうしてそんな使われ方をされるようになってきたのでしょうか。本来は人々のくらしが便利になるから、どこでも、いつでもつながることにあったのではないのでしょうか。

ネットのもたらした最大の恩恵は、万人がダイレクトに知的な資源にアクセスできるということだと思います。これこそ情報科学がもたらした最大の福音なわけです。キーボード叩くだけで、ジャンルを超えた膨大な情報に無償でアクセスできるわけですから。人間の可能性を大きく拡げた。
でも、全員が同じような情報へのアクセス能力を配分されたあと、今度はこの情報検索能力をどう使うか、その技術が問われることになった。
「情報についての情報」という次数が一つ高い情報はただキーボードを叩いて検索しただけでは手に入らない。これは誰も教えてくれない。マニュアルも、入門書もない。こればかりは身銭を切って、自力で獲得するしかない一種の身体知です。どういう人間が信用できるかできないかの判定は一種の身体知ですから。現実生活で会得するしかない。ネット空間には転がっていないし、金で買うこともできない。でも、この「情報についての情報」こそが情報時代における死活的に重要な知的資源なのです。

ネット社会における真の情報リテラシー

以前は、「無学な人」というのは、ややこしい問題については、「寅さん」のように「俺は無学な人間だけど、人としてやっていいことと、やっちゃいけないことの違いはわかる」というかたちで判断を下したわけです。人に騙されたり、裏切られたり、あるいは救われたり、支えられたりというさまざまな人生経験の積み重ねを経て、「それは人としてどうかと思うよ」という判断ができた。その適切性はその人の学歴や知識量とは無関係です。人間を一目見て、信用できるかできないかがわかった。それがわからないとえらい目に遭うからです。だから、修羅場の経験を踏んで、「人を見る眼」を養っていた。
かつて「人を見る眼」という言葉がよく口にされたのは、「エビデンスがないときにでもその人のもたらす情報の真偽を判定できる能力」が必要だということを昔の人はよくわかっていたからだと思うんです。生死の境にあって、見知らぬ人に自分の運命を託さなければならない極限状況というのは戦時中には現に頻繁にあったわけです。この人は信用できるのか、うかつに信用すると身ぐるみ剥がれるのか、それを一瞬で判定しなければならなかった。僕の父はその時代の人間ですけれど、人間について外形的な情報、地位だとか業績だとかは、その人間が信頼できるかどうかの判定基準としては使えないということをつねづね言っていました。
情報リテラシーというのは一言で言えば「自分がその真偽を知らないことについても真偽の判定ができる」能力のことです。情報の「コンテンツ」そのものではなく、その情報がもたらされるときの「マナー」を見る能力だと言い換えてもいい。情報そのものではなく、それをもたらす人間を見る。情報そのものより、それを伝える生身の人間の方が圧倒的に情報量が多いからです。
人間は無数のノイズを発しています。嘘をついているときは、「嘘をついている人間」特有のノイズを撒き散らしているし、十分に裏を取っていないことを断定的に語るときも微妙な「自信のなさ」のノイズが出ている。情報リテラシーというのはそのノイズを受信する力のことだと僕は思います。

―ネット以前は、直感力で判断していた。今は、簡単にネットにつながることで、知にアクセスできるようになって、却って、マッピングが出来なくなってしまった? こういう情報収集力とか、コミュニケーション力というのは、ユーザーの意識の問題でしょうか?

ユーザーの個人的努力で何とかなるところと、歴史的に形成されたもっと射程の長い制度問題と両方がまじりあっていると思います。
ネットがもたらした「集合知」というアイディアはすばらしいと思います。「自分の知っていること」をひとりひとりがパブリックドメインに持ち寄って、それを共有する。「三人寄れば文殊の知恵」です。でも、集合知を機能させるためには、「私はこれについては知っているが、これについては知らない」と自分の割り前についてはっきりと申告できるということが一番たいせつなことなんです。
でも、ネット情報がもたらす安価な全能感にアディクトしてしまった人は「自分が長い個人的努力を通じて確信をもって言えるようになったこと」と「Wikipediaで読んだばかりのこと」を区別することができない。それをきちんと区別してしまうと、せっかくの全能感が消失してしまうからです。ですから、情報弱者はなんでも知っているような顔をしているけれど、「あなた以外の誰によっても代替することのできないパーソナルな正味の知として、あなたは集合知に何を供出できるのか?」という問いの前には絶句してしまう。
集合知への参加条件は「マッピングができる」ということです。自分が何を知っていて、何を知らないかについて適切な記述ができるということです。専門家集団が機能するのは「自分にはこれができるが、この辺のことはわからない」とはっきりカミングアウトする人たちの集まりだからです。知りもしないことを「知っている」と言い、できもしないことを「できる」と言い張る専門家というのはありえません。そういう人は決して専門家たちの共同作業には招かれない。邪魔になるだけですから。
でも、自分が知らないことをきちんと言語化するのは非常に難しい。自分が「知っていること」と「知らないこと」の境界線を精密に記述するためにはかなりレベルの高い知性が求められる。でも、この「自分のバカさ」を客観的に表象できる能力というのが最も上質な知性だと僕は思います。それが言えれば、自分は誰を必要としているのか、どのような能力とのコラボレーションを求めているのかがわかる。集合知の形成のためには自分が「知っていること」「知らないこと=知りたいこと」を鮮明に表示するというマナーを身につけておかなければならないということです。

―その「集合知」のところをもう少し詳しくお願いしたいのですが、生き延びるための「集団としてのパフォーマンス」はどうやってあげていくのでしょうか?

学術的なイノベーションにしても、集団全体がイノベーターになれるわけではないし、そうである必要もありません。「イノベーターが生まれやすい環境」をみんなで作り上げてゆけばよい。そういう環境を適切に整備できる管理能力のある人だってイノベーターと同じくらいに有用なわけです。イノベーションは集団的な創造だからです。
イノベーションというのは「そんなところから、そんなものが出てくるとは思わなかった」というかたちを取るものですから、原理的には「マッド・サイエンティスト」によって担われる。でも、すべてのマッドサイエンティストがイノベーティヴであるわけではない。ただのマッドサイエンティストで、結局何の役にも立たない人でした終わり、ということも多々あるわけです。でも、これを嫌っていてはイノベーションはできません。イノベーションは「歩留まりの悪いプロジェクト」なんです。マッドサイエンティストが100人いて、そのうち5人がイノベーターで残りの95人はただの無駄飯食らいでした・・・というくらいの比率でも結果的には「とんとん」だと思います。
ですから、共同研究組織では「あいつ、ホント働かないな、いったい何やってんだよ」とまわりから思われるような人間を相当数「放し飼い」にしておく必要がある。そういう人たちが好き勝手なことができるように、他方にはこつこつと日常業務をこなして「イノベーションができやすい環境」を整備する人たちがいる。両方揃っていないと学術的なイノベーションはあり得ないんです。何を生み出すかは個人ベースではなく集団ベースで見るからです。ある集団からイノベーター2人、3人出てきら、それはきわめてうまく設計され運営された学術集団だったということになる。
今は科学者の業績を個人単位で計りますね。あれがいけないんです。科学の発展は個人が担うものじゃない、集団で担う事業です。卓越した研究者が一人出るときは、それを生み出すだけの土壌の厚みがあるものなんです。それを分断して、すべてを個人の業績に還元しようとする。そうなると研究者たちも集団のパフォーマンスを上げることよりも個人の業績を積み上げることを優先するようになる。それは学術的創造に逆行する発想なんです。

マンガ界の集合知

この間、京都精華大学の学長でマンガ家の竹宮恵子さんと対談したのですが、マンガが他のジャンルと比べてすごいところは、マンガ家たちが、著作権とかオリジナリティーとかいうことを基本的に言わないっていう点なんです。ストーリパターンとか、キャラクター設定とか、コマ割りとか、吹き出しの使い方とか、顔の描き方とか、そういうマンガを描く技術はすべて「パブリックドメイン」なんだそうです。
マンガの技術はみんなのものだ、と。先人から伝えられたものを後続世代が工夫して育てているジャンルなんだから、ひとりで囲い込まないで、使えるものはみんなで共有しよう。そうすればマンガのクオリティーがどんどん上がっていって、読者も増えるし、本の発行部数も増える。結果的にマンガ家全員が力量をつけることで業界全体が潤うんだ、と。
だから、お互いの技法をどんどん模倣するし、パロディやスピンオフ(二次創作)も基本的には許している。その結果、マンガは今世界中に広がって、英語やフランス語だけじゃなくて、中国語、ロシア語、アラビア語にまで訳されて、総発行部数が何億部というような作品が次々と生まれている。これは新しい技術の発明を個人の業績に還元して、「囲い込み」をしなかったことのみごとな成果だと思うんです。
これはマンガ制作と流通にかかわる全員が一個の「運命共同体」を形成して、集団として生き延びることを最優先に考えたからだと竹宮先生は説明してくれました。めざすものが個人の名声とか収入とかじゃない。音楽にしても文学にしても、そこにかかわっている人たちが個人的成功よりも自分たちの「運命共同体」のパフォーマンスを高めることを優先すれば、スケールの大きな、すばらしいものができあがる。自己利益を確保しようとするとジャンル全体が衰退する。そういうものなんです。ですから、平凡な結論なんですけれども、よい仕事をしようと思ったらみんなで力をあわせましょうってことなんです(笑)。

―お話を伺って、この集合知を機能させるというのが、ネット世代の「知のありよう」のように思ったのですが、しかし、現実はネット依存やネットの繋がりで疲れている若い人たちも多い。どうしてこのようなことになったのでしょうか?

サッカーとか、ワールドカップの様子を見ていると、「日本戦見てない奴は非国民」みたいな攻撃的な同調圧力が異常に高まっていましたね。全員が同じものに、同じように熱狂することを強制する。この同調圧力がこの20年くらいどんどん高まっている。
均質化圧と同調化圧。それはやはり学校教育のせいなんだと思います。学校はどこかで子どもの成熟を支援するという本務を忘れて、子どもたちを能力別に格付けして、キャリアパスを振り分けるためのセレクション装置機関になってしまった。
子どもたちを格付けするためには、他の条件を全部同じにして、計測可能な差異だけを見る必要がある。
問題は「差異を見る」ことじゃなくて、「他の条件を全部同じにする」ことなんです。みんな叩いて曲げて同じかたちにはめ込んでしまう。そうしないと考量可能にならないから。同じ価値観を持ち、同じようなふるまい方をして、同じようなしゃべり方をする子どもをまず作り上げておいて、その上で考量可能な数値で比較する。
見落とされているのは、この均質化圧が財界からの強い要請で進められているということです。
彼らからすれば労働者も消費者もできるだけ定型的であって欲しい。労働者は互換可能であればあるほど雇用条件を引き下げることができるからです。「君の替えなんか他にいくらでもいるんだ」と言えれば、いくらでも賃金を下げ、労働条件を過酷なものにできる。消費者もできるだけ欲望は均質的である方がいい。全員が同じ欲望に駆り立てられて、同じ商品に殺到すれば、製造コストは最小化でき、収益は最大化するからです。ですから、労働者として消費者として、子どもたちにはできるだけ均質的であって欲しいというのは市場からのストレートな要請なんです。政治家や文科省の役人たちはその市場の意向を体して学校に向かって「子どもたちを均質化しろ」と命令してくる。

―均質化と同調圧力を押し返し、本来の「知のありよう」を取り戻すのには、やはり教育がキーワードになっているのでしょうか?

教育だとは思いますよ。でも、今の学校教育は閉ざされた集団内部での相対的な優劣を競わせているだけですから、そんなことをいくらやっても子どもは成熟しないし、集団として支え合って生きて行く共生の知恵も身につかない。保護者も子どもたちも、どうすれば一番費用対効果の良い方法で単位や学位を手に入れるかを考える。最少の学習努力で最大のリターンを得ることが最も「クレバーな」生き方だと思い込んでいる。
でも、学校教育を受けることの目的が自己利益の増大だと考えている限り、知性も感性も育つはずがない。人間が能力を開花させるのは自己利益のためではなくて、何度も言っているように、まわりの人たちと手を携えて、集団として活動するときなんですから。でも、今の学校教育では、自分とは異質の能力や個性を持つ子どもたちと協働して、集団的なパフォーマンスを高めるための技術というものを教えていない。共生の作法を教えていない。それが生きてゆく上で一番たいせつなことなのに。
僕は人間の達成を集団単位でとらえています。ですから、「集団的叡智」というものがあると信じている。長期にわたって、広範囲に見てゆけば、人間たちの集団的な叡智は必ず機能している。エゴイズムや暴力や社会的不公正は長くは続かず、必ずそれを補正されるような力が働く。
ですから、長期的には適切な判断を下すことのできるこの集団的叡智をどうやって維持し、どうやって最大化するのか、それが学校でも最優先に配慮すべき教育的課題であるはずなのに、そういうふうな言葉づかいで学校教育を語る人って、今の日本に一人もいないでしょう。学校教育を通じて日本人全体としての叡智をどう高めていくのか、そんな問いかけ誰もしない。
今の学校教育が育成しようとしているのは「稼ぐ力」ですよ。金融について教育しろとか、グローバル人材育成だとか、「英語が使える日本人」とか、言っていることはみんな同じです。グローバル企業の収益が上がるような、低賃金・高能力の労働者を大量に作り出せということです。
文科省はもうずいぶん前から「金の話」しかしなくなりました。経済のグローバル化に最適化した人材育成が最優先の教育課題だと堂々と言い放っている。子どもたちの市民的成熟をどうやって支援するのかという学校教育の最大の課題については一言も語っていない。子どもたちの市民的成熟に教育行政の当局が何の関心も持っていない。ほんとうに末期的だと思います。

―モノや資源のレベルでも、教育のレベルでも、色んな意味での持続可能性というのは、一人一人がそういった知のマップを作ることだと思います。このマッピングをどうやって可能にして、共生の知恵をもった社会に作ることができると思われますか。

今の日本の制度劣化は危険水域にまで進行しています。いずれ崩壊するでしょう。ですから、目端の利いた連中はもうどんどん海外に逃げ出している。シンガポールや香港に租税回避して、子どもを中等教育から海外に留学させて、ビジネスネットワークも海外に形成して、日本列島が住めなくなっても困らないように手配している。彼らは自分たちが現にそこから受益している日本のシステムが「先がない」ということがわかっているんです。でも、「先がない」からどうやって再建するかじゃなくて、「火事場」から持ち出せるだけのものを持ち出して逃げる算段をしている。
僕は日本でしか暮らせない人間をデフォルトにして国民国家のシステムは制度設計されなければならないと思っています。でも、日本語しか話せない、日本食しか食えない、日本の伝統文化や生活習慣の中にいないと「生きた心地がしない」という人間はグローバル化した社会では社会の最下層に格付けされます。最高位には、英語ができて、海外に家があり、海外に知人友人がおり、海外にビジネスネットワークがあり、日本列島に住めなくなっても、日本語がなくなっても、日本文化が消えても「オレは別に困らない」人たちが格付けされている。こういう人たちが日本人全体の集団としてのパフォーマンスを高めるためにどうしたらいいのかというようなことを考えるはずがない。どうやって日本人から収奪しようかしか考えてないんですから。
この仕組みを何とかしないといけない。そのために学校教育とは別のラインに、若い人たちの市民的成熟を支援する場を立ち上げなければならないと思って凱風館という私塾を僕は始めたわけです。でも、こういうことを考えたのは僕一人ではなくて、ほとんど同時期にまわりの友人たちも次々と私塾を立ち上げて若い世代のための教育事業に取り組んでいます。鷲田清一、平川克美、釈徹宗、名越康文、茂木健一郎・・・みんなこの二三年の間に、凱風館と相前後して私塾を開設しています。そういう流れが来ているんだと思います。
ネット社会というのはどういう「ハブ」に繋がるのかで力量が問われるわけです。「誰に繋がっているのか」ということが死活的に重要なわけです。ツィッターがそうですけれど、「誰をフォローするか」によってその人の情報リテラシーの質が決定される。数百万の発信者のうちから、良質な情報発信源を「この人」と特定するためにはそれなりの力が要ります。そして、自分自身も流れ込んでくる無数の情報の中から「これ」というものを選別して次に流してゆく。そういう何層かのスクリーニングを通過して伝播した情報は良質のものと見てよい。これも集合知です。複数の人のピア・レビューを経て伝播する情報は信頼性が高い。
ジャンク情報というのは情報のスクリーニングを経由しない情報のことです。均質的なイデオロギーや言葉づかいの人たちの間だけで共有されている情報は、どれほど拡散していてもいずれ厳密なレビューには耐えられない。だから、情報の階層化は急速に進行することになる。
ネット社会では「誰とネットワークを結ぶか」という集団の選択がその人の情報リテラシーだけでなく、その後のキャリアパスの広がりや、社会的地位までをも決定することになります。
個人ではなく集団が社会的活動の単位となるべきだというのは人類史的な経験知ですが、それが現代ではさらに切迫したものとなってきたということでしょう。

―−−−本日は長時間にわたり非常に内容の濃いお話を盛りだくさんお話ししていただき、どうもありがとうございました。