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大瀧詠一の系譜学

2013年12月31日、大瀧詠一さんが亡くなられた。
むかしばなしを一節語って供養に代えたい。
1976年の3月に野沢温泉スキー場で『楽しい夜更かし』を聴いたのが最初の大瀧音楽経験だった。スキー場から戻ってすぐにレコード店に行って『Niagara Moon』を買い、以後37年忠実なナイアガラ-として過ごした。
大瀧さんとはじめてお会いしたのは2005年8月21日。そのときの感動については当時の日記に詳しいので再録。

「行く夏や明日も仕事はナイアガラ

長く生きているといろいろなことがある。
まさか大瀧詠一師匠にお会いできる機会が訪れようとは。
お茶の水山の上ホテルの玄関で、キャデラックで福生にお帰りになる大瀧さんを石川くんとお見送りして、ただいまホテルの部屋に戻ってきたところである。
午後3時から始まった対談は二次会のホテルのレストランから「営業時間終わりです」と言われて追い出されるまでなんと8時間半続いた。
いやー、話した話した。
30年間のナイアガラーとして大瀧さんに訊きたかったあのことこのこと、もう訊ける限り訊いた。
8時間半の話はとても文藝別冊『大瀧詠一/大滝詠一』特集号には収録しきれないだろうから、残念ながらみなさんにお読み頂けるのはそのごくごく一部である。
小学四年生のときの「右投げ左打ち」転向のことから始まって、中学高校時代のレコードライフへの耽溺、布谷文夫さん細野晴臣さんとの出会い、はっぴいえんど時代、『Each Time』からの15年の音楽活動、『幸せな結末』録音秘話、山下達郎、伊藤銀次両君にまつわる逸話の数々、音韻論にもとづく歌唱法、エルヴィスのオリジナリティ、楽曲を提供した数々の歌手の話、遠藤実、船村徹、星野哲郎、小林信彦、ムッシュかまやつ、高田渡、植木等、ハナ肇、上岡竜太郎さんらとのインタビュー・バックステージ話、竹内まりやとのSomething stupid 録音の経緯、太陽族映画と現代政治との関連性・・・と話頭は転々奇をきわめて録することがかなわない。
敬して止まない師匠の「分母分子論」以来の系譜学的思考のほとばしるような叡智のおことばを全身に浴びて、私はこの希有の人と同時代を生き、まみえることのできた喜びに手の舞い足の踏むところを知らなかったのである。
昨年の『ユリイカ』の「はっぴいえんど」特集に私は「大瀧詠一の系譜学」と題する短文を寄せた。
大瀧さんはこれをお読みになって私の述べるところを諒とされて、私と石川くんという「ナイアガラー第一世代」との交歓のひとときを快諾せられたのである。
実際にお話しを伺ってみて、私は自分がいかに大瀧さんのものの見方に深い影響を受け、その思想を知らぬまに血肉と化していたことを改めて思い知った。
このような機会を恵んで下さった編集の足立さん、ソニー・ミュージックの城田さんはじめ関係者のみなさんに御礼を申し上げたい。
なにより、『ユリイカ』に「大瀧詠一について書くなら、ウチダさんでしょう」と推輓の労をとってくれた増田聡くんにお礼を申し上げる。彼は私の人生の節目節目に登場して思いがけない出会いへと私を導いてくれる守護天使のような人であることがだんだんわかってきたよ。
そして、私のナイアガラー・ライフを30年にわたって支えてくれた石川茂樹くんの友情ある忍耐に感謝。」

上に記した「大瀧詠一の系譜学」も再録しておく。


大瀧詠一の系譜学

1・
「大瀧詠一の系譜学」と言っても、別に大瀧さんの故事来歴をご紹介するわけではありません(ご紹介したくても、知らないし)。そうではなくて、これは一「ナイアガラー」によるところの、大瀧さんの(ふつうはこういう文章では敬称を略するのですが、どうにも抵抗感があるので、敬称つきで続けさせて頂きます)系譜学的な音楽史の卓越性を讃える試みであります。
私は大瀧詠一さんの音楽史こそは(ミシェル・フーコーを学祖とする)構造主義系譜学の日本における最良の実践例の一つだとつねづね考えてきました。
今回、縁あって、いささかの紙数を『ユリイカ』編集部からお借りすることができましたので、この論件について、広く日本全国の皆さまのご理解を賜るべく、以下に思うところを述べたいと思います。
最初に、二点だけ確認させて頂きます。
第一に、本稿は冒頭で名乗っております通り、「ナイアガラー」という党派的立場からなされる論考です。はなから「ナイアガラの擁護と顕彰」のために書かれたテクストでありますから、「そういうもんだ」と思ってお読み下さい。「学術的中立性が欠けている」とか言われても困ります。
第二に、本稿が扱うのは、大瀧さんの音楽史の方法でありまして、その音楽そのものではありません。大瀧さんはみずからの方法についてきわめて自覚的な人で、83年の「分母分子論」以来、折々にその理論的基礎づけを行ってきていますけれど、ナイアガラーの皆さんの中に、大瀧さんの方法の卓越性について検証された向きは、これまではおられないようです。私はさいわいフランス現代思想が専門ですので、そのささやかな知見を動員して、いまだなされていない方面からのアプローチを試みてみたいと思います。
『ユリイカ』の「はっぴいえんど特集号」をご購入のみなさんの中に、「ナイアガラー」の語義をご存じない方はたぶんおられないと思いますが、一応念のためにひとこと解説しておきます。
「ナイアガラー」というのは、大瀧詠一さんが実践してきた音楽活動(には限定されないもろもろの活動)をフォローすることを人生の一大欣快事とする人々の総称です。
ナイアガラーが通常の音楽ファンと違うところは、この「フォロー」行為が、新譜購入や追っかけやツァーでも「出待ち入り待ち」といった定型的なファン活動のかたちを取らない(というより「取れない」)点にあります。
というのは、ご承知のとおり、歌手「大滝」詠一氏は『Each Time』のあと『幸せな結末』まで13年間作品をリリースしませんでしたし、コンサートも『ナイアガラ・ツァー』を最後に20年以上停止してきているからです。
ナイアガラーたちを「失望を織り込み済みの期待」のうちにとどめおいていた17年ぶりのニューアルバム企画『2001年 ナイアガラの旅』(仮題)も発売されることなく終わりました。けれども、それに不満をもらすような狭量な人間は、そもそも「ナイアガラー」とは呼ばれないのであります。
では、ナイアガラーたちは何で「満たされている」のかと言いますと、大瀧さん自身のことばを借りて言えば、大瀧さんの「広義における音楽活動」によってなのであります。
「広義における音楽活動」とは何のことでしょうか?
山下達郎さんとの『新春放談』(99年)で、大瀧さんは「音楽活動」について独特な定義を下しています。同じ年の1月にNHKで放送されるラジオ番組『日本ポップス伝2』について論じたときのことです。大瀧さんはこう語っています。

「大瀧:自慢じゃないんだけどさ。あれは今回、自分のアルバム以上のものなんだよ(笑)。音楽活動ということがアルバムづくりとかシングル製作だけに集約されるということ自体がね、おれは非常に偏った考え方だと思ってるわけ。音楽なんてそんな狭義なものじゃないんだよ。ものすごく、広義のもんなんだよ。だからあれがおれのニューアルバムなんだけど、どうせ分ってもらえないだろうな、とはなから思ってるんだ(笑)。」(『新春放談』、1999年、1月3日)

 『日本ポップス伝』は大瀧詠一さんの「ライフワーク」とでもいうべき仕事で、明治以来の近代音楽史の読み直しをめざした壮大な企図のものです。その全五回、八時間に及ぶ音楽史講義は、大瀧さんの持論であるところの「分母分子論」を実際の楽曲を資料に、徹底的に考究したものです。ですから、ナイアガラーの条件は、このような学術的講義を「大瀧詠一のニューアルバム」として満腔の歓びをもって享受することができる人、ということになります。録音テープをすり減るまで繰り返し聴くのでは足りず、テープ起こしを「写経」と称して楽しむナイアガラーまでいたんですから。

2・
では、本題に入りましょう
大瀧詠一さんの音楽史の方法は構造主義系譜学の方法を実践している。私は上にそのように書きました。
「構造主義系譜学」とはどういう方法のことなのか。具体的な方が話が早そうなので、ピーター・バラカンさんとのラジオ対談の中での、次のような発言からご紹介しましょう。
「ビートルズって、今見ると、変なスーツ着てるし、別に大騒ぎするほどロングヘアーでもないし、不良っぽくないじゃないですか。あれをどうして当時のイギリスの人はショッキングに感じたんですか」というリスナーからの質問にピーターさんはこう答えました。
「バラカン:ショッキングになんか感じませんでしたよ。だから、ショッキングに感じないように、マネージャーのブライアン・エプスタインがわざわざあんなスーツ着せていたわけですから。ジョン・レノンは非常に嫌っていたようですけどね。髪の毛の長さは、そりゃ90年代の基準から考えれば、もちろん短く見えますけどね。ビートルズ以前のことを考えれば、それは長かったんですよ。」
 大瀧さんはそれにこう続けています。
「今の基準で考えれば短いけれども、って言うけれど、何でも今基準にして考えちゃいけません。どちらかというと、昔から流れて来ているから今があるんですからね。歴史を逆に見ちゃいけないということですよ。」(FM横浜、『我が不滅のリバプール』、1997年2月7日)
ここで大瀧さんは若いリスナーに発想の切り替えを要求しています。
それは「今・ここ・私」を中心としてものを見ることを自制せよ、ということです。系譜学的思考の第一条件は何よりもまずこの「節度」です。
学問的方法の条件が「節度」であるなんて言うと変に聞こえるでしょうけれど、「節度」というのは実は学問的にはとても大切なことなのです。というのは、人間は例外なく自分の判断の客観性を過大評価する傾向にあるからです。それはことばを言い換えると、「今・ここ・私」の批評性を過大評価するということです。
「ビートルズの髪はそれほど長くない」という判断を自明のものとするためには、かなりの自己中心性と愚鈍さが必要です。大瀧さんはラジオ放送のときに、きびしい口調でこのリスナーの自己中心性をたしなめました。おのれにとって「自明」であり「自然」と思えることを、そのまま「現実」と思い込まないこと。自分の「常識」を他の時代、他の社会、他の人間の経験に無批判的に適用しないこと。それが系譜学者にとって、第一に必要とされる知的資質です。

3・
私たちの自己中心性と愚鈍さの核にあるのは、判断基準のでたらめさではありません。むしろ、判断基準のかたくなさです。
マルクス主義が支配的なイデオロギーである時代が終わった今でも、多くの人々は依然として歴史は「鉄の法則性」に従って粛々と「真理の実現」に向かって流れていると信じています。これは、ほんとうです。
さすがに人間社会が「未開」から「文明」へ直線的に進化していると素朴に信じている人は少なくなりましたけれども、いまここにあるものだけが存在するに値するものであり、存在するに値しないものは消滅した(あるいは、消滅したものは、存在するに値しなかったものだ)という「歴史の淘汰圧」についての信頼はにわかには揺るぎません。
「これからは・・・の時代だ」とか「・・・はもう古い」ということばづかいの前提にあるのは、この歴史の淘汰圧への盲信であると言ってよいでしょう。
このような考え方を本稿では「歴史主義」と呼ぶことにします。
歴史主義は音楽史を語るときの私たちの考え方にも深く浸透しています。現に、いまだに「今・ここで・私が」聴いている楽曲こそ、歴史の審判と市場の淘汰を生き延びた、もっとも洗練され、もっとも高度で、もっとも先端的な音楽であると、何の根拠もなく信じているリスナーは少なくありません。人々の嗜好が変わり、ひとつの音楽ジャンルが衰微すると、それにつれて、それまで我が世の春を謳歌していたプレイヤーもソングライターもプロデューサーも・・・次世代に席を譲って、表舞台から退場する・・・という諸行無常盛者必衰の歴史主義が声高に語られ、リスナーはそれを信じ込まされています。もちろん、音楽商品が短期的に無価値になる方が資本主義的にはベネフィットが大きいからです。
けれども、音楽の「変化」(それは決してレコード会社や音楽評論家たちが信じさせようとしているように「進化」ではありません)はほんらいもっとランダムで、もっとワイルドなものだったのではないのでしょうか?
キャロル・キングの音楽的遍歴について山下達郎さんと語った中で、大瀧さんは「ひとりの音楽家にひとつの音楽ジャンルでの活動しか認めない」硬直した歴史主義に鋭い批判を突きつけています。

「山下:大瀧さんは『ロコモーション』から始まってずっと来て、自分でプロになって、はっぴいえんどをやるときにバッファロー・スプリングフィールドになるわけじゃないですか。だけど、結局あの、バーズとあの周辺のウェストコーストのああいうもので、いきなりあそこで出てくるじゃないですか、キャロル・キングが再び。
大瀧:再び出てきたわけよ。何なんだ!と思ったよ、だから。『ユーヴ・ガッタ・フレンド』で。キャロル・キングでしょ。
山下:どう思いました?
大瀧:何してんのと思ったよ。ずうっと、お化粧変えてさ。何なんだと思って(笑)。でも、その曲って、ヒットしてるじゃない。知らなかったから。それでキャロル・キングって言うからさ。はあっと思ったよ。あ、歌っていうのは歌なんだ。つまりさ、『ロコモーション』はダンスナンバーだ、『ユーヴ・ガッタ・フレンド』はシンガーソングライターだ。そんなことはどうでもいいんだ(笑)。なあんだ、歌は歌じゃねえか。そう思ったのよ。(・・・) だからさ、同じ人間がいろんなタイプの曲作っていいわけよ。(・・・) 船村(徹)さんがね、自分だって、『ダイナマイトが百五十屯』とか、いろんなああいうの作っていたんだと。やっていくうちに『王将』が出て、『王将の船村、船村の王将』ってことになって、まわりがみんな、ああいう曲じゃなきゃあ、という感じになってきて・・・というのがよくわかったんだよ。」(『新春放談』、2002年1月13日)

ここで大瀧さんは「同傾向の楽曲を繰り返し聴きたい」というリスナーたちの欲望(とそこから利益を引き出すビジネスの要請)が、音楽家をひとつのジャンルに縛り付け、彼らの「曲を作る自由」を抑圧し、ジャンルと運命を共にすることをほとんど強要することで成立しているという事情を指摘しています。
音楽家たちは収益の高そうなジャンルに縛り付けられます。例えば、演歌というジャンルの収益率が高ければ演歌ジャンルにリソースが集中され、それが売れなくなれば、ジャンルごと「歴史のゴミ箱」に棄てられる。そして、収益の高そうな次のジャンルに人々は雪崩打つ・・・音楽ビジネスはそんなふうに、ジャンルを短期的に使い捨てにすることで収益を上げてきました。そして、そのビジネス戦略のためには、「音楽史はそのつど最高の音楽ジャンルが継起的に出現する不可逆的な進化のプロセスである(つまり、最新の音楽が最高の音楽である)」というほとんどヘーゲル的な歴史主義イデオロギーをリスナーと分かち合うことが必要だったのです。
大瀧さんの音楽史のねらいの一つはこの素朴な進歩史観を退けることにありました。
歴史主義への痛烈な反証として、大瀧さんは、ジャンルの消長にもかかわらず、つねに「同じ音楽家」が、そのつど異なるジャンルで良質の作品を提供し続けているという(業界内部的には熟知されているけれど)リスナーにはあまり知られていない事実を示します。
60年代のボビー・ヴィーやクッキーズのアイドル歌謡から、エヴァリー・ブラザーズの『クライング・イン・ザ・レイン』、『ロコモーション』、スティーヴ・ローレンスのバラード、70年代の『タペストリー』まで、ジャンルにとらわれず縦横無尽の活躍をしたキャロル・キングは、ご存じの通り、大瀧さんの変わることのない敬愛の対象です。そのことは、大瀧さんの伝説的なDJ番組『Go! Go! Niagra』(ラジオ関東)がキャロル・キング特集から始まったことからも窺い知ることができます。
その敬意の理由は、もちろんキャロル・キングの音楽性(大瀧さんのカテゴライズによると「教条主義的・啓蒙主義的な匂いのある」曲想)に対する嗜好もありますけれど、彼女が「歌っていうのは歌なんだ」というきっぱりとした主張を貫いて、音楽における歴史主義に対する「生きた反証」となっていることへの共感もおそらくはかかわっているのではないでしょうか。
『ロング・ヴァケーション』がキャロル・キングへのオマージュであることは、大瀧さん自身も認めています。

「山下:ぼくこのあいだキャロル・キング特集、自分で三週間やってみて、何がいちばん面白かったかというと、いかに大瀧さんがね。キャロル・キングに、とくに『ロンバケ』。ナチュラルにぱっとああいうふうに出したときに。キャロル・キングをいかに大瀧さんがよく取っているかと思う。そう思うほどにキャロル・キングがよくわかっているんだなということが、ぼくはよくわかった。だって、聴くとわかるんだもん。
大瀧:1、2、3は完璧にキャロル・キングですよね。」(『新春放談』、2002年)

大瀧・山下ご両人の伝説的プログラム『新春放談』(これはナイアガラーにとっては20年来の、年に一度の「お年玉」です)でもっとも頻繁に言及されるミュージシャンの名前は、キャロル・キングとエルヴィスと小林旭とフィル・スペクターですが、私の記憶が正しければもう一人います。それはハル・ブレインです。
ハル・ブレインは、存じの通り、ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』以後のフィル・スペクターのほとんどのセッションに参加し、ビーチ・ボーイズ、アソシエイション、ママス&パパス、バーズ、サイモン&ガーファンクルに至るまで、60年代―70年代にかけて数百のヒットナンバーのレコーディングに参加した伝説の「レッキング・クルー」ドラマーです。何度も聴いているうちにヴォーカルもギターもだんだん印象が薄くなって、いつしかドラムばかり聞こえるようになる・・・という不思議な経験はハル・ブレインならではのものです。
このハル・ブレインに対する大瀧・山下ご両人の高い評価はもちろん何よりもまずその卓越した技量に対するものなのですが、それと同時に(キャロル・キングの場合と同じく)、「ジャンルの消長に伴って、古いミュージシャンは新しいミュージシャンによって駆逐される」という歴史主義イデオロギーをハル・ブレインの存在そのものがきっぱりと否定していることへの共感によるものではないかと私は思います。
系譜学者の第二の条件、それは「歴史はある法則性に従って、粛々と進化している」という物語を決して軽々に信じないこと、これです。

4・
すぐれた音楽家は、どのような音楽的リソースからも自由に楽想を引き出すことができる。「歌は歌だ」という大瀧さんのことばを私なりに書き換えると、こんなふうになります。「どのような」に傍点をふったのは、ぜひその点を強調したいからです。
大瀧さんは前出のピーター・バラカンさんとの対談の中で、(ピーターさんの嫌いな)ハーマンズ・ハーミッツの『ヘンリー八世くん』を掛けたあとに、次のような驚くべき指摘をしています。
「大瀧:皆さん、お聴きになりましたか、いまのエンディング。『シェー』いうてまんねん、これ。(笑)ほんとだよ。ちょうど『おそ松くん』がはやっているとき、日本に来たのよ。それで、『シェー』が気に入って、帰って行ったの。いや、マジ、マジ。ほら、これ見て、日本に来たとき、みんな『シェー』してるでしょ。写真、証拠写真。来日したとき、『シェー』が気に入って。『ヘンリー八世くん』のエンディングは『シェー』なんですよ。知らなかったでしょう?」
大瀧さんはここで、全米、全英のヒットチャートをにぎわした『ヘンリー八世くん』(ほんとにひどい曲だけど)のエンディングが赤塚不二夫からの「盗用」であったというトリビアな情報を披露しているのではありません。そうではなくて、私たちが「ロックは英米発のもので、日本人リスナーはそれを受動的に享受することしかできない」という前提に立って、「だからなんとかして英米の流行にキャッチアップしなきゃいけない」という歴史主義の論法を(それは今日では「グローバリズムの論法」というのとほとんど同じことですね)無反省的に採用していることについて、自制を求めているのです。
音楽の伝播というのは、人々が思っているほど一方向的なものではないし、時代とともに「進化する」というものでもありません。それは時間と空間を行きつ戻りつし、さまざまな非音楽的なファクターをも吸い寄せて、絶えざる変容と増殖を続ける不定形的でワイルドな運動なのです。
ピーター・ヌーンがおのれの「出っ歯」的風貌の戯画的な達成を赤塚が造型した「イヤミ」の図像のうちに見い出して、深い親しみを覚え、そこから音楽的アイディアを得て、全世界に発信した・・・というようなことは「ロック英米渡来説」を素朴に信じる限り、なかなか理解しがたいことです。けれども、「イヤミ」のモデルがトニー谷であり、トニー谷がアメリカのボードヴィリアンの戯画であったことを考え併せると、そこにはおそらく俗眼には見えにくい「因果の糸」が紡がれているのです。

5・
大瀧さんの音楽史の真骨頂は、この「目に見えない因果の糸」を自在に取り出す手際にあります。この名人芸を支えるのは、もちろん大瀧さんの膨大な音楽史的知識であるわけですが、通常の音楽評論家と大瀧さんの違いは、その音楽史が過去から未来にではなく、しばしばそこでは時間が現在から過去へ向けて逆走する点にあります。そして、このような逆送する時間意識こそ、系譜学者の第三の条件なのです。
歴史学者と系譜学者の発想の違いを一言で言うと、歴史学者は「始祖」から始まって「私」に達する「順-系図」を書こうとし、系譜学者は「私」から始まってその「無数の先達」をたどる「逆-系図」を書こうとする、ということにあります。
歴史学的に考えると、祖先たちは最終的には一人に収斂します。『船弁慶』の平知盛が「われこそは桓武天皇九代の後胤」と告げるのは典型的に歴史主義的な名乗りです。
しかし、これはよく考えるとかなり奇妙な計算方法に基づいたものです。というのは、私たちは誰でも二人の親がおり、四人の祖父母がおり、八人の曾祖父母・・・つまり、私のn代前の祖先は2のn乗だけ存在するはずだからです。平知盛の九代前には計算上は512人の男女がいます。にもかかわらず、知盛が「桓武天皇九代の後胤」を名乗るとき、彼は残る511人をおのれの「祖先」のリストから抹殺していることになります。
たしかに、歴史学的な説明はすっきりしています(しばしば「すっきりしすぎて」います)。系譜学はこの逆の考え方をします。「私の起源」、私を構成している遺伝的なファクターをカウントできる限り算入してゆくのが系譜学の考え方です。ファクターがどんどん増えてゆくわけですから、これをコントロールするのは大仕事です。けれども、まったく不可能ということはありません。それは、炯眼の系譜学者は、ランダムに増殖するファクターのうちに、繰り返し反復されるある種の「パターン」を検出することができるからです。
歴史学者がレディメイドの「ひとつの物語」のうちにデータを流し込むものだとすれば、系譜学者は一見すると無秩序に散乱しているデータを読み取りながら、それらを結びつけることのできる、そのつど新しい、思いがけない物語を創成してゆくことのできる人のことです。
『日本ポップス伝2』で、大瀧さんは遠藤実さんの曲を時間を逆送しながら聴くことで、それまでどのような音楽史家も思いつかなかったような「物語」を提出してみせます。
千昌夫の『星影のワルツ』をかけた後、大瀧さんは「この曲の前に、遠藤さんはこのタイプの曲をつくっています」として、同じワルツ形式の舟木一夫の『学園広場』に遡航します。
「こうなると遠藤さんのその前の曲というのを聴きたくなってきますね。島倉千代子さんの『襟裳岬』というのをちょっと聴いてみましょう。」(『襟裳岬』をかける)
「これが島倉千代子さんの『襟裳岬』ですけれど、『襟裳岬』というと、みなさんはこちらの方の曲を思い起こすのではないかと思われます。」(森進一の『襟裳岬』をかける) 
「誰が聴いても、『襟裳岬』というと、今はもうこれを思い出すと思うんですけれども、島倉さんのヴァージョンの方が先な訳ですよね。(・・・)偶然だと思うんですけれど、私思うには、これは決して偶然じゃないんですね。偶然なんですけど、歴史的な必然が実はあるんです。なぜか、襟裳岬を選んでしまったと思うんですね、岡本おさみさんは。実はそのオリジナルが遠藤実さんだったんですよ。で、この吉田拓郎ヴァージョンと島倉ヴァージョンに何の関係があるかというと・・・次の曲を聴くと分る、ということになっています。」(千昌夫『北国の春』をかける)
「『北国の春』、千昌夫なんですけど。これ遠藤実さんなんですよね。(・・・)70年代の日本の若者によって作られたフォークというジャンルがあるんですけれど、島倉さんよりも拓郎ヴァージョンの方が有名になりました。けれど、実は本家は遠藤実さんだったんですよ。で、遠藤実さんも、負けてはいられないのというので、『襟裳岬』の後に『北国の春』でその位置を奪還したんじゃないかなと思います。
70年代フォークというと吉田拓郎さんですけれど、その前に岡林信康さんがいて、その前にさらに千昌夫さんがいたんですよ。日本のフォークというのは遠藤実さんが創始者である、と私は思います。
といいながらもね・・・実は千昌夫さんにも先達がいるんです。歴史というのはそういうものですね(笑)。千昌夫さんの先達はこの人です。」(『新相馬節』をかける)
「これが三橋美智也さんの『新相馬節』です。(・・・) この人が歌謡曲に本格的な民謡の小節を入れた最初の人なんですね。この人以上にうまく入れてる人は他には後は出てこないんすね。最初の人のすごいところというんでしょうか。で、結局、日本のフォークはこの人が原点だったんですよ。三橋美智也が。『北国の春』は70年代の一つの頂点でしたけれど、三橋さんの頂点はこの曲でした。」(『達者でナ』をかける)
「これがもう日本のフォークの祖ですね。(・・・)日本のフォークはこれです。これが原点なんです。誰が何て言っても。」
日本のフォークの中興の祖には岡林信康さんがいて、はっぴいえんどはそのバックバンドとして活動した時期があります。ですから、大瀧さんが概括したこの流れには、大瀧詠一さん自身を含む風景が描かれているわけです。よく知られている通り、はっぴいえんどはバッファロー・スプリングフィールドをドメスティックに解釈するところからスタートしたわけですが、大瀧さん自身は、そのはっぴいえんどの代表曲『春よ来い』が三橋美智也さんの『リンゴ村から』に深いところでインスパイアされたものであり、それゆえに70年代の(尻尾にいまだ「前近代」をひきずっていた)聴衆に支持されたのだという音楽史の「必然」を過たず見据えています。
このようなファクターは、「ジャンルの消長」という「単純な物語」で音楽史をとらえる立場に立つ限り、決して主題化されえないものだと私は思います。
系譜学者の第四の、そしてもっとも重要な条件は、自分自身を含む風景を俯瞰する視座に立つ知性です。

『ユリイカ』編集部から与えられた紙数をすでに大幅に超過してしまったので、「分母分子論」と系譜学の関連についてさらに論及することはできなくなりました。最後に大瀧さんのみごとなことばで私の論考を締めさせて頂きます。
「分母でも地盤でもいいけど、思ったのは、その下のほうにあるものをカッコにしてしまわないで、常に活性化させることが、やっぱり上のものがあるとすれば、そこがまた活性化する原因だと思うんですよ。だから、そのひとつとしてパロディ作品にトライしてみるとか、確認作業とか、そういうことをやってるんですよね。だから、常に一面的な見方の地盤というんじゃなくて、その地盤も変幻自在に変わっていく部分もあると思う。そこを見つめていくことが大事じゃないかって考えてるんです。」(「分母分子論」、『FM fan』、83年4月号)
 過去を歴史のなかに封印することなく、つねに活性化させ続けること。大瀧さんのこの方法論的自覚こそ、系譜学的思考の核心をひとことで言い切っていることばだと私は思います。

(ナイアガラ関連の資料提供につきまして、30年来のナイアガラー・フレンドである石川茂樹くんのご協力に深く感謝いたします。) 

 


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2013年12月31日 14:54 に投稿されたエントリーのページです。

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