農政について

2013-12-30 lundi

JAの雑誌に農政について書いた。これもふつうの方はあまり手に取る機会のない媒体なので、ここに採録しておく。

食糧安保とグローバルビジネス

現在の日本の状況をおおづかみに表現すれば、「過経済化」という言葉で形容することができる。
すべての政策や制度の適否が「収益」や「効率」や「費用対効果」という経済用語で論じられている事態のことである。
経済を語るための語彙を経済以外の事象、例えば政治や教育や医療のありかたについて用いるのは、用語の「過剰適用」である。
むろん、ある領域の術語やロジックがそれを適用すべきでない分野にまで過剰適用されることは、歴史的には珍しいことではない。過去には宗教の用語がそれを適用すべきではない分野(例えば外交や軍事)に適用されたことがあった(十字軍がそうだ)。政治の用語がそれを適用すべきではない分野(例えば文学)に適用されたことがあった(プロレタリア文学論というのがそうだ)。
人間はそういうことをすぐにしてしまう。それは人間の本性であるから防ぎようがない。私たちにできるのはせいぜい「あまりやりすぎないように」とたしなめるくらいのことでだけある。
「神を顕彰するための建築を建てよう」というのは宗教の過剰適用ではあるが、まずは常識的な企てである。「神を顕彰するために、異教徒を皆殺しにしよう」というのは常識の範囲を逸脱している。どちらも過剰適用であることに変わりはないのだが、一方は常識の範囲で、他方は常識の範囲外である。
どこに常識と非常識を隔てる線があるのか、いかなる原理に基づいて適否を判断しているのか。そういうことを強面で詰め寄られても、私に確たる答えの用意があるわけではない。
常識と非常識の間にデジタルな境界線は存在しない。にもかかわらず、私は神殿の建築には反対しないが、異教徒の殲滅には反対する。
これを「五十歩百歩」と切り捨てることは私にはできない。この五十歩と百歩の間に、人間が超えてはならない、超えることのできない隔絶があるからである。私はそう感じる。そして、その隔絶を感知するセンサーが「常識」と呼ばれているのだと思う。私たちはこの隔絶を感じ取る皮膚感覚を備えている。
その話を聞いて「鳥肌が立つ」ようなら、それは非常識な話なのだ。

今日本社会で起きている「過経済化」趨勢はすでに常識の範囲を大きく逸脱している。それは見ている私の鳥肌が立つからわかる。そういう場合には「もういい加減にしたらどうか」と声を上げることにしている。
すでに経済はそれが踏み込むべきではない領域に土足で踏み込んでいる。大阪の市長は「地方自治体も民間企業のように経営されなければならない」と主張してメディアと市民から喝采を浴びた。
だが、よく考えて欲しい。行政の仕事は金儲けではない。集めた税金を使うことである。もし採算不芳部門を「民間ではありえない」という理由で廃絶するなら、学校もゴミ処理も消防も警察も民営化するしかない。防災や治安を必要とする市民は金を払ってそれらのサービスを商品として購入すればいい(アメリカにはそういう自治体がもう存在している)。そういう仕組みにすれば行政はみごとにスリム化するだろう。でも、それは金のない市民は行政サービスにもう与ることができないという意味である。
学校教育も経済が踏み込んではならない分野である。だが、「教育コンテンツは商品であり、教員はサービスの売り手であり、子供や保護者は消費者である、だから、消費者に選好される商品展開ができない学校は市場から淘汰されて当然だ」と考える人たちが教育についての言説を独占して久しい。彼らにとって学校は教育商品が売り買いされる市場以外の何ものでもない。学校教育の目的は「集団の次世代を担うことのできる若い同胞の成熟を支援すること」であるという常識を日本人はもうだいぶ前に捨ててしまった。
医療もそうである。金になるから医者になる、金になるから病院を経営する、金になるから薬品を開発する。そういうことを平然と言い放つ人たちがいる。傷ついた人、病んだ人を癒やすことは共同体の義務であり、そのための癒しの専門職を集団成員のうちの誰かが分担しなければならないという常識はここでももう忘れ去られつつある。

農業も「過経済化」に吹き荒らされている。
最初に確認しておきたいが、食糧自給と食文化の維持は「生き延びるための人類の知恵」であって経済とは原理的に無関係である。
農業が経済と無関係だというと驚く人がいるだろう。これは驚く方がおかしい。農業は「金儲け」のためにあるのではない、「生き延びる」ためにある。今の農政をめぐる議論を見ていると、誰もがもう農業の本質について考えるのを止めてしまったようなので、その話をしたい。

人類史を遡ればわかるが、人類が農業生産を始めたのは、「限りある資源を競合的に奪い合う事態を回避するためにはどうすればいいのか」という問いへの一つの解としてであった。
農業はなによりもまず食資源の確保のために開発されたのである
食糧を集団的に確保し、生き延びること。それが農業生産のアルファでありオメガであり、自余のことはすべて副次的なものに過ぎない。
食糧を、他者と競合的な奪い合いをせずに、安定的に供給できるために最も有効な方法は何か?
人類の始祖たちはそこから発想した。
最初に思いついた答えはまず食資源をできるだけ「散らす」ということだった。小麦を主食とする集団、イモを主食とする集団、トウモロコシを主食とする集団、バナナを主食とする集団・・・食資源が重複しなければ、それだけ飢餓のリスクは減る。
他人から見ると「食糧」のカテゴリーに入らないものを食べることは食資源の確保にとって死活的に重要なことである。自分たちが食べるものが他集団の人々からは「ジャンク」にしか見えないようであれば、食物の確保はそれだけ容易になる。お互いに相手の食べ物を見て「よくあんなものが食える」と吐き気を催すようであれば、食糧の奪い合いは起こらない。他者の欲望を喚起しないこと、これが食資源確保のための第一原則である。
食資源確保のための次の工夫は「食えないものを食えるようにすること」であった。不可食物を可食的なものに変換すること。水にさらす、火で焼く、お湯で煮る、煙で燻す・・・さまざまな方法を人間は開発した。
それでも同じような生態系のうちに居住していれば食資源はいやでも重複する。その場合には競合を回避するために、人々は「固有の調理法」というものを作り出した。調理はもともとは「不可食物の可食化」のための化学的操作として発達した。だから、「できるだけ手間を掛けずに可食化する」ことがめざされたわけであるが、人々はすぐにできるだけ手間を掛ける方が調理法としてはすぐれているということに気づいた。「ジャンク化」と同じアイディアである。特殊な道具を用いて、特殊な製法で行わない限り、可食化できない植物(例えば、とちの実)は、その技術を持たない集団からみれば「ただのゴミ」である。「ただのゴミ」には誰も手を出さない。
主食の調味料に特殊な発酵物を用いる食習慣も同じ理由で説明できる。発酵物とはまさに「それを食用にしない集団から見れば腐敗物にしか見えない」もののことだからである。
食文化が多様であるのは、グルメ雑誌のライターたちが信じているように「世界中の美食」に対する欲望を駆動するためではない。まったく逆である。他集団の人からは「よくあんなものが食える(気持ち悪くてゲロ吐きそう)」と思われるようなものを食べることで他者の欲望を鎮め、食糧を安定的に確保するために食文化は多様化したのである。

農業について考えるとき、私たちはつねに「何のために先人たちはこのような農作物を選択し、このような耕作形態を採用したのか」という原点の問いに戻る必要がある。
原点において、農業生産の目的はただひとつしかない。それは食資源の確保である。それだけである。そして、人類の経験が教えてくれたのは、食資源の確保のためにもっとも有効な手立ては「手元に潤沢にある(そのままでは食べられない)自然物」を可食化する調理技術を発達させることと、「他集団の人間が食べないもの」を食べること、この二つであった。

現在の日本の農政はこの原点から隔たること遠い。
TPPが目指すのは「手元にない食資源」を商品として購入すること、食文化を均質化することだからである。
世界中の70億人が同じものを、同じ調理法で食べる。そういう食のかたちを実現することが自由貿易論者の理想である。そうすれば市場需要の多い商品作物だけを、生産コストが安い地域で大量生産して、莫大な収益を上げることができる。
原理的には、世界中の人がそれぞれ違う主食を食べ、調理法を異にし、他文化圏から輸出されてくる食物を「こんなもの食えるか」と吐き出すというありようが食の安全保障(つまり70億人の延命)という点からは最適解なのだが、グローバル経済はそれを許さない。「全員が同じ食物を競合的に欲望する」というありようがコストを最小化し、利益を最大化するための最適解だからである。
例えば、世界中の人間が米を食うようになれば、最低の生産コストで米を生産できるアグリビジネスは、競合相手を蹴散らして、世界市場を独占できるし、独占したあとは価格をいくらでも自由にコントロールできる。自前の食文化を失い、「市場で商品として売られているものしか食えない」という規格的な食生活にまず人類全体を追い込んでおいて、それからその商品の供給をコントロールする。人々が希少な単一食資源を奪い合い、「食物を手に入れるためには金に糸目をつけない」という世界こそ、アグリビジネスにとっては理想的な市場のかたちなのである
だから、グローバル経済はその必然として、世界中の食生活の標準化と、固有の食文化の廃絶という方向に向かう。これを「非人間的だ」とか「反文明的だ」批判しても始まらない。ビジネスというのはそういうものなのだからしかたがない。アグリビジネスは目先の金に用事があるだけで、人類の存続には特別な関心がないのである。
私が農業について言っていることはたいへんシンプルである。それは、人間たちは「金儲け」よりもまず「生き延びること」を優先的に配慮しなければならないということである。生き物として当たり前のことである。その「生き物として当たり前のこと」を声を大にして言わないといけないほど、私たちの社会の過経済化は進行しているのである。
これまで人類史のほぼ全時期において、食糧生産は金儲けのためではなく、食資源を確保するために行われてきた。でも、今は違う。人々はこんなふうに考えている。食糧の確保のことは考えなくてもいい(金を出せばいつでも市場で買えるのだから)。それよりも、どういうふうに食糧を作れば金になるのかをまず考えよう。だから、「食糧を作っても金にならないのなら、もう作らない」というのが正しい経営判断になる。
だが、これは国内市場には未来永劫、安定的に食糧が備給され続けるという予測に基づいた議論である。こんな気楽な議論ができる国が世界にいくつあるか、自由貿易論者たちは数えたことがあるのだろうか。21世紀の今なお世界では8億人が飢餓状態にある。「費用対効果が悪いから」という理由で食糧自給を放棄し、製造業や金融業に特化して、それで稼いだ金で安い農作物を中国や南米から買えばいいというようなことを考えられる人は「自分の食べるもの」の供給が停止するという事態をたぶん一度も想像したことがない。日本の国債が紙くずになったときも、円が暴落したときも、戦争が起きてシーレーンが航行不能になったときも、原発がまた事故を起こして海外の艦船が日本に寄港することを拒否したときも、食糧はもう海外からは供給されない。数週間から数ヶ月で日本人は飢え始める。それがどのような凄惨な光景をもたらすか、自由貿易論者たちは想像したことがあるのだろうか。たぶんないだろう。
彼らにとって食糧は自動車やコンピュータと同じような商品の一種に過ぎない。そういうものならたとえ輸入が止っても、それはむしろ在庫を高値で売り抜けるチャンスである。でも、食糧はそうではない。供給量があるラインを割った瞬間に、それは商品であることを止めて、人々がそれなしでは生きてゆけない「糧」というものに変容する。たいせつなことなので、もう一度書く。食糧は供給量があるラインより上にあるときは商品としてふるまうが、ある供給量を切ったときから商品ではなくなる。そういう特殊なありようをする。だから、食糧は何があっても安定的に供給できる手立てを講じておかなければならないのである。食糧を、他の商品と同じように、収益や効率や費用対効果といった用語で語ることは不適切であり、それに気づかずビジネスの用語で農業を語る風儀を私は「過経済化」と呼んでいるのである。
同胞が飢えても、それで金儲けができるなら大歓迎だと思うことをグローバルビジネスマンに向かって「止めろ」とは言わない(言っても無駄だ)。でも、お願いだから「日本の農業はかくあらねばならぬ」というようなことを言うのだけは止めて欲しい。他は何をしてもいいから、農業と医療と教育についてだけは何も言わないで欲しい。