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『聖地巡礼』まえがき

釈先生との『聖地巡礼』がいよいよ刊行の運びとなりました(ぱちぱち)。
つきましては、みなさんに「予告編」ということで、「まえがき」をご紹介いたします。
どぞ。

みなさん、こんにちは。内田樹です。
今回は釈徹宗先生との『聖地巡礼』というちょっと変わった対談本でおめにかかることになりました。
「ちょっと変わった」というのがどういうことであるかについてご説明して、「まえがき」に代えたいと思います(この「・・・に代えたいと思います」っていう言い方って、いつごろから日本語の語彙に登録されたんでしょうね。記憶する限り、僕の少年時代に大人が挨拶の最後にこんな定型句を入れたことはありませんでした。だいたい「おめでとうございます」って言っておいて「これを以てお祝いの挨拶に代えたいと思います」っておかしくありません? お祝いの挨拶、あなた現にしているじゃないですか。何を何に代えたんですか!って心の中で思うことありませんか? ないですか。じゃあ、いいです・・・)。
僕の「代えたいと思います」はその語の正しい意味における「代えたいと思います」で、以下「まえがきのようなもの」を書きますけれど、それを以て「まえがき」としてご嘉納頂きたい、と。そういうことであります。
 
この本が対談本として「ちょっと変わっている」のは次のような理由によります。
その一、ふつう対談というのは静かな部屋でテーブルを囲んで対話者がみつめあって行うものです。公開の場所でやることもありますけれど、原則として静止した状態で行う。ところが、この対談では全体のほぼ90%が移動しながらに行われております。止った状態で話しているのは、巡礼の終わりに毎回釈先生がしてくださる法話とその後の短いやりとりだけで、あとはバスの中、道を歩きながら、神社仏閣をめぐりながら、つまりA地点からB地点に移動しながらなされている対談なのであります。
これはけっこう珍しいことです。
あまり指摘する人がいませんが、人間というのは移動しながらおしゃべりをしていると、「突拍子もないこと」を思いつくという傾向があります。これはほんとうです。僕はときどきドライブしながらあれこれと助手席の人とおしゃべりをしますけれど、そういうときって、ふだんならまず思いつかないような「変なアイディア」が口を衝いて出ることがあります。
なんていうんでしょう、ある場所から別の場所に向かって確実に移動していると思うと、ふっと気持ちが解放される。「やるべきことはちゃんとやっているんだからさ、多少は勝手なことさせてもらってもいいじゃないですか」というようなちょっとアナーキーな気分になる。
むかし、村上春樹さんが『村上朝日堂』で食堂車について心に残る文章を書いていました。食堂車ってもうすっかりなくなってしまいましたが、あれはなかなかいいものでした。村上さんはこんなことを書いています。

「食堂車には何かしら『かりそめの制度』とでもいうべき独特な空気が漂っている。つまり食堂車における食事は『つめこむ』ための食事でもないし、かといって『味わう』ための食事でもない。我々はその中間あたりに位置するぼんやりとした暫定的な想いをもって食堂車にやってくるのである。そして食事をとりながら、何処かへと確実に運ばれていく。せつないといえば、かなりせつない。」(村上春樹/安西水丸、『村上朝日堂』、新潮文庫、1992年、86頁) 

村上さんの言い回しをお借りするなら、釈先生と僕の対談は「とりあえず時間をつぶす」ためのおしゃべりでもないし、かといって「ひとつの主題について徹底的に掘り下げる」ためのおしゃべりでもなく、「その中間あたりに位置するぼんやりとした暫定的なアイディア」の交換という風情のものであったかに思います。これが、なかなか悪くない。
この「聖地巡礼」というプロジェクトで僕たちがめざしたとりあえずの目的は霊的感受性を敏感にして「霊的なものの切迫を触覚的に感じること」でありました(そうだったんですよ、企画の説明が遅くなってすみません)。
ものが「霊的なものの切迫」ですから、あまり「ぼけっ」としているわけにもゆかない。かといって眉間にしわを寄せて、奥歯を噛みしめて虚空をはったとにらみつけるというような肩肘張った構えをとるわけにもゆかない。肩の力は抜けている。でも、感覚は研ぎ澄まされている。口は思いつくままにおしゃべりをしているのだが、五感のセンサーの感度は上がっている。これって、「運転しながらおしゃべりしている」ときの状態にちょっと似ていますよね。口ではどうでもいいようなことを話しているんだけれど、五感は路面の状況や風向きや雨に濡れたタイヤのグリップの変化やエンジン音を休みなくモニターしている。
たぶん、そういう「どっちつかず」の「かりそめ感」がわれわれの聖地巡礼という企図にふさわしいものだったのではないかと思います。
移動しているふたりが「とりあえず移動すること」を主務として、そのあいまに思いつくまましゃべった言葉を全部録音して、それを編集して作品に仕上げるということになると、わが国にはかの『水曜どうでしょう』という輝かしい先例があります。移動中のふたりに好き勝手にしゃべらせておいて、それをあとから編集するというこの本の進め方は東京書籍の岡本知之さんからのご提案ですが、もしかすると彼は心ひそかに『水曜どうでしょう』の活字版を構想していたのかも知れません。違うかも知れませんけど。

この本が「変わっている点」のその二。
もう書いてしまいましたけれど、この本は「聖地を歩く」という実践の記録です。もともとは釈先生と僕が神戸女学院大学で「現代霊性論」という授業をしたときに始まります(この講義録はその後同名の書籍となって講談社から出版されました)。その学期の最後に「では、これまで勉強してきたことの実践編として、実際に聖地を歩いてみましょう」と釈先生が提案されました。それは楽しそうだというので、学生たちやその友人家族まで引き連れて、観光バスを仕立てて遠足気分で京都に繰り出すことになりました。
釈先生のご案内で、東寺の立体曼荼羅を拝観し、五重塔にのぼり、三十三間堂で千手観音の見方を教わり、締めは南禅寺で湯豆腐に昼酒というたいへん楽しいイベントでした。
「これ、楽しいですね」ということで、そのあとカルチャーセンターの仕事にからめて今度は奈良の興福寺で二度目の聖地巡礼を行いました。それからしばらくインターバルがあったのですが、凱風館に「巡礼部」が設立されたことで、再び巡礼活動が活性化してきました。
巡礼部というのは、この本の中で、僕たちといっしょに歩いているみなさんです。これは僕が主宰する「武道と哲学研究のための学塾」凱風館の「部活」のひとつです。
凱風館のメインプログラムは合気道と寺子屋ゼミという僕が直接コミットしている二つの活動なのですが、その他に、塾生たちの自主企画による無数のスピンオフ活動が「部活」として行われています。
公認非公認含めてあまりにたくさん部があるので、もう数え切れないくらいです。創設8年目を迎える甲南麻雀連盟をはじめとして、老舗のうな正会、最大派閥のジュリー部、おでん部、フットサル部、昭和歌謡部、不惑会、ス道会、シネマ部、蹴球廃人連盟、ちはやふる部、そしてラテンバンド江弘毅とワンドロップと、名前からだけでは活動内容が知れないものもありますが、このあまたある部活の中でずんと重い存在感を持っているのが「巡礼部」です。
これはサンチャゴ・デ・コンポステラ巡礼を生涯の悲願とする二人の塾生(前田真理さんと青木真兵くんが)が発起人となって始まったクラブです。「聖地巡礼に行きたいね」と遠い眼をして語りあうだけの文系の部活なのかなと思っていたら、いつのまにかこの「聖地巡礼企画」のアクティブな共同企画者となっておりました。この本の中でおしゃべりが盛り上がっているのは、巡礼部のみなさんと一緒だからです。感度のよいオーディエンスがいてくれると、対談のクオリティはぐっと向上します。その点でも、巡礼部のみなさんはこの本の「三人目の著者」と申し上げてよいと思います。みなさん、ありがとうございます。
そのようにして始まった第二次聖地巡礼は、初回が上町台地縦走、次が京都パワースポット巡り、第三回がまほろばの三輪山、第四回が熊野詣でと続きました。本書には第三回までが収録されています。大阪、京都、奈良と関西の三都をめぐったわれわれ巡礼たちがそれぞれの土地での霊的なもののありようについて熱く深く語り合っております。
なお、大阪の上町台地縦走は中沢新一さんの『大阪アースダイバー』に強くインスパイアされた企画です(釈先生はこの「大阪アースダイバー」の「現地ガイド」として中沢さんと多くの行程に同行されたのだから当然といえば当然ですけれど)。この場を借りて「土地と霊性」というアイディアについてこれまで多くのヒントを与えて下さった中沢さんにもお礼を申し上げます。
われわれの聖地巡礼の旅はこのあと長崎に隠れキリシタンの跡をたずね、佐渡に渡って親鸞と世阿弥と佐渡という土地の関連について考え、出羽三山で山伏のみなさんと語らい、恐山では南直哉さんのお導きで異界との境界線に立ってみたいと、さまざまに夢を膨らませています。いずれルルドとかサンチャゴ・デ・コンポステラもぜひこのメンバーで訪れてみたいと思っております。
というふうに、現在進行中の「部活」の記録であるというのが、本書の「変わった点」その二であります。

ほかにも「ちょっと変わったところ」は多々あります。「おお、来ますね」「来ましたか」というように僕と釈先生がパワースポットでの「ざわざわ感」を語り合っておりますが、このような感覚にはもちろんいかなるエビデンスも存在しません。ですから「勝手なこと言ってないで、どこがどう『ざわざわ』するのか、科学的なエビデンスを出せ」というような野暮を言われても困る。
グルメ本で美食家たちが「おお、このソースのまったりとしてそれでいて・・・」というような読者には経験できない感想を交わしているのに向かって「それを食っていないオレにも実感できるエビデンスを出せ。それが出せないなら感想とか言うな」とか凄まないでしょ、ふつう。それと一緒です。美味しいものを食べたときに背筋に戦慄が走るのも、すばらしい音楽を聴いたときに深く癒やされるのも、「霊的切迫」と経験としては変わりません。その外部からの感覚入力がどういう経路を経てある種の身体感覚を生み出すのかその理路を生理学的に述べよとか言われたって、知りませんよ、そんなこと。

「まえがき」が切りなく長くなりそうなので、この辺で「巻き」にしたいと思います。
たぶん「あとがき」では釈先生が聖地巡礼の意味について、宗教学者としてまた聖職者としてのお立場から、きちんとした学術的なご説明をしてくださっていると思いますので、この「まえがき」を読んだだけではさっぱり本の出版意図がわからないという方はそちらをお読み頂けたらと思います。
では。

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2013年07月06日 10:34 に投稿されたエントリーのページです。

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