私の紙面批評

2013-02-26 mardi

朝日新聞の「私の紙面批評」に体罰とスポーツについて書いた。
掲載時には紙面用にすこし添削が要請されたので、これがオリジナル。


大阪市立桜宮高校の体罰自殺事件に続いて、女子柔道園田監督の暴力に対する選手たちからの告発報道があり、紙面はこの話題が続いた。この件について2月19日付け本紙の片山杜秀氏のコメントが、私が読んだ範囲では、もっとも射程の長い考察だったと思う。
片山氏によれば、体罰による身体能力操作の悪習は日露戦争に淵源を持つ。「持たざる国」日本は火砲に乏しく、「大和魂」に駆動された歩兵の絶望的な突撃と悲劇的な損耗によって薄氷の勝利を収めた。このとき火力の不足は精神力を以て補いうるのだと軍人たちは信じ、その結果、大正末期から一般学校にも軍事教練が課された。以来「しごき」によって戦闘能力は短期間のうちに向上させられるという信憑は広く日本社会に根づいた。今日の学校体育やスポーツ界に蔓延する暴力はその伝統を受け継いでいると見る片山氏の指摘は正鵠を射ていると私は思う。
日露戦争より前、西南の役において、農民出身の鎮台兵を短期の訓練で前線に投じる「速成」プログラムの整備が陸軍の喫緊事であると説いたのは山縣有朋であった。「速成」が要請されるのはいつでも同じ理由からである。「ゆっくり育てている時間がない」というのだ。短期で精兵を仕上げるためには、青少年の心身の自然な成長を待つ暇がない。「負けてもいいのか」という血走った一言がすべてを合理化する。
私はひそかにこれを「待ったなし主義」と名づけている。近代日本の組織的愚行の多くは「待ったなし」という一語を以て合理的な反論を遮り、押しつぶし、断行されてきた。今もそれは変わらない。
スポーツにおける体罰を正当化する指導者たちもまた例外なく「待ったなし主義者」である。「次のインターハイまで」、「次の選考会まで」、「次の五輪まで」という時間的リミットから逆算する思考習慣をもつ人にとって、つねに時間は絶対的に足りない。だから、アスリートの心身に長期的には致命的なダメージを与えかねない危険な「速成プログラム」が合理化される。
その一方で、「待ったなし」主義はアスリート自身にも不条理な指導を受け容れるための心理的根拠を提供する。というのは、「あそこまで我慢すれば、この苦しみも終わる」という「苦しみの期限」があらかじめ開示されているからである。
私が大学入試の面接官をしていた頃、推薦入試の自己アピール欄に高校でのスポーツでの実績を掲げていた受験生に幾人も出会った。「大学でも続けますか?」という私の問いにほとんどの受験生は気まずそうな表情で応じた。「まさか」と苦笑するものもいた。そのときわかった。彼らにとって、競技での好成績は「苦しみの代価」として手に入れた高校時代の誇るべき達成だったのである。ようやくその「苦しみ」から解放されたのに、どうして大学に入ってまで・・・という高校生の素直な驚きのうちに私は現代の学校体育の歪みを見た思いがした。
体罰と暴力によって身体能力は一時的に向上する。これは経験的にはたしかなことである。そうでなければ、暴力的な指導がここまではびこってくるはずはない。恫喝をかければ、人間は死ぬ気になる。けれども、それは一生かかってたいせつに使い延ばすべき身体資源を「先食い」することで得られたみかけの利得に過ぎない。
「待ったなしだ」という脅し文句で、手をつけてはいけない資源を「先食い」する。気鬱なことだが、この風儀は今やスポーツ界だけでなく日本全体を覆っている。