陸軍というキャリアパスについて

2013-01-30 mercredi

寺子屋ゼミでは1936年の二・二六事件と現在の「空気」の近さが話題になった。
統制派と皇道派の対立の賭け金は何だったのか?
なにが蜂起した青年将校たちの「政治的正しさ」を主観的には根拠づけていたのか?
資料的なことは私は知らないが、大筋はわかる。
二・二六はテロリズムだから、皇道派の「求めたもの」が浪漫的に脚色されすぎて、見えにくくなっているものがある。
このテロ事件にはもっとリアルなものが伏流していた。
ポストである。
その前年に相沢事件というものがあった。
統制派の首魁、永田鉄山陸軍少将が皇道派の相沢三郎中佐に軍務局長室で斬殺された事件である。
陸軍内部に二つの勢力があり、そのポスト争いは平時に軍人同士が殺し合うほど深刻なものだったというのは冷静に考えるとかなり異常なことである。
ふつうの組織でも、派閥はあるし、ポスト争いもある。
でも、人は殺さない。
軍内部の人事異動(直接には真崎甚三郎教育総監の更迭)の「黒幕」だという風説を信じて相沢は永田を殺した。
これを説明するためには、「教育総監」というポストが軍内部でどれほどの意味を持っていたのかを考えなければならない。
統帥権というものがある。
陸海軍への統帥権で大日本帝国憲法では天皇に属していた。
戦略の決定、軍事作戦の立案、指揮命令、陸海軍の組織編制・人事職務の決定にかかわる権限である。
形式的には天皇に属するけれども、まさか天皇が軍内部の人事異動まで起案できるはずがない。そういうものは軍で作って、「こんな案でいかがですか?」と上奏する。
通常はそのまま裁可される。
この権限を「帷幄上奏権」という。
この権限を持つのが陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、陸海軍大臣、そして陸軍教育総監であった。
帷幄上奏によって軍事にかかわるすべての勅令は下るわけであるが、政府や帝国議会はこれに介入することができなかった。
軍縮条約への調印とか、軍事予算の審議まで、政府が行うことを「統帥権の侵犯」と言って、軍部がクレームをつけることがしばしば行われた。
1930年のロンドン海軍軍縮条約は兵力編制にかかわる決定であるが、浜口雄幸総理大臣は海軍軍令部からの「統帥権干犯」という抗議を抑えて議決し、天皇の裁可を得た。これは当時国論を二分する論争となり、そのために浜口はテロに遭った。
その後、西園寺公望の推挽で総理になった犬養毅も軍縮に手をつけようとして五・一五事件で殺害された。
以後、政府や議会による統帥権干犯は絶対の禁忌となった。
軍事費が毎年の国家予算の50~70%を占めるような国家において、帷幄上奏権をもつものはもはや総理大臣よりも大きな権力を行使できたのである。
そのような強大な権力の座に、軍内部での「出世競争」を勝ち抜きさえすれば、手が届いたのである。
これほど狭い集団内部での競争で国家権力の中枢までの「キャリアパス」が通ったことは歴史上希有のことである。
この時期のとくに陸軍に関する記述を読んだ人は陸軍軍人たちの「略歴」に必ず「陸軍士官学校の成績順位」と「陸軍大学での成績順位」が記載されていることに気づいたはずである。
日本の近代史に登場する無数の人々のうちで、「学校の成績順位」がその人の最も重要な属性の一つであり、その人の行動の意味を説明する重要な根拠となっているような人物は陸軍軍人の他にない。
略歴に「陸大を首席で卒業」と書いてあれば、私たちは「なるほど」と思う。
それは彼が順調に出世すれば、いずれ参謀総長か陸軍大臣か教育総監か、帷幄上奏権の保持者になることを高い確率で意味していたからである。
「勉強がめっぽうできる」ということが「天皇の君側で総理大臣以上の権限をふるう」ことに直結するような職業は戦前の日本には陸軍しかなかった。
私たちは「軍隊」という言葉から、つい「武略」とか「士魂」というような浪漫的な気質を想像するが、戦前の日本について言えば、陸軍こそは「勉強ができること」がそのまま国家中枢への道に直接つながる、「すばらしくコスト・パフォーマンスのよいキャリアパス」だったのである。
そして、その「合理的なキャリアパス」の合理性を阻んでいるのが、陸軍の「長州閥」、海軍の「薩州閥」であった。
統制派も皇道派も、いずれも藩閥によるポスト独占にははげしく批判的であった。
皇道派の重鎮荒木貞夫は旧一橋家の出、真崎甚三郎は佐賀、相沢は仙台藩、前出の永田は信州諏訪、統制派の東条英機は岩手。どれも藩閥の恩恵に浴する立場にない。
1921年に永田ら陸軍16期の秀才たちがひそかに合意した「バーデンバーデン密約」は軍制の近代化をめざしたものだが、人事的には「陸軍における長州閥打倒」ということに尽くされた。
その長州閥は1922年の山縣有朋の死で後ろ盾を失い、1929年、田中義一の死によって途絶えた。
このときに、陸軍内部にはある種の「人事上のエアポケット」が生じた(のだと思う。専門家じゃないから資料的な根拠はないので、以下は私の暴走的思弁である)。
その中で人事上のヘゲモニーをめぐって統制派と皇道派の対立が急速に過激化する。
だから、両派はイデオロギー上の違いによって截然と分かたれたゲマインシャフトというよりはむしろ「パイの分配」をめぐってアドホックに形成されたゲゼルシャフトだったと考えることができる。
現に、林銑十郎のように、皇道派と統制派の間に立って、どちらの派閥についたら「有利か」を考えていた軍人は少なくなかった。
この推理にどれほど妥当性があるのか、わからない。
でも、一般論として、「強大な権限にアクセスするための『ショートカット』が存在する」という場合に、人間はだいたいろくなことはしないというのは経験的に真である。
強大な権限にアクセスする資格は、いくつもの「修羅場」を生き残り、その人格識見のたしかさについてたかい評価を得てきた人に限定する方が国は安全である。
私たちがとりあえず覚えておくべきなのは、統帥権という擬制によって、軍内部での人事異動という「内輪のパワーゲーム」に勝ち残りさえすれば、一般国民がその人物についてほとんど知るところのない軍人たちが帷幄上奏権を保持して、国政を左右できるというシステムが1930年頃に成立して、わずかな15年でそのシステムが国を滅ぼしたという事実である。