「14歳の子を持つ親たちへ」韓国語版への序文

2013-01-24 jeudi


みなさん、こんにちは。内田樹です。
『14歳の子を持つ親たちへ』の韓国語版が出ることになりました。
これで、『下流志向』、『街場の教育論』、『先生はえらい』、『若者よマルクスを読もう』、『私家版・ユダヤ文化論』、『日本辺境論』、『寝ながら学べる構造主義』に続いて、僕の本の8冊目の韓国語訳ということになります。短期間にこれだけ集中的にひとりの外国人の著述家の本が韓国語に訳されるというのは、かなり珍しい現象ではないかと思います。
訳されたのは僕が書いた本のうち、「学校教育にかかわる書物」と「ヨーロッパの哲学にかかわる書物」の2ジャンルに属するものです(『日本辺境論』だけがこの二つのカテゴリーのどちらにも入りません)。
それはたぶん「学校教育への市場原理の導入に対して批判的なテクスト」と「西欧哲学をわかりやすく解説するテクスト」の二種類のものが、韓国においては「ニーズがある」ということを意味しているのだと思います。「ニーズがある」と言ってもいいし、「サプライがない」と言ってもいい。たぶん、そこに韓国と日本の言説状況の「ずれ」があるのだと思います。序文として、すこしだけその「ずれ」について私見を述べておきたいと思います。

「学校教育への市場原理の導入に対して批判的なテクスト」と「西欧哲学をわかりやすく解説するテクスト」は扱っている主題もアプローチもずいぶん違いますけれど、共通する点があります。それは「そういうことを書くのは主として西欧哲学の専門家である大学の先生である」ということです。
「学校教育をいかに市場から守るか?」という問いに日頃から思い悩み、それと同時に「自分が専門的な知識を持っている哲学の『読み方』と『使い方』を、できるだけ多くの非専門家に伝えるにはどうすればいいか」をつねづね工夫している大学の教師がいれば、たぶん僕が書いているような書物を書くはずです。そして、そういう先生が一定数いれば、「サプライは足りている」わけで、何も日本人の書いた本を手間暇かけて韓国語訳することはありません。ということは、どうやら今の韓国の言説状況においては、「そういう人」が足りていないらしい。
僕はそんなふうに推論します。とりあえず、そのような仮説を立てた上で話を進めさせて頂きます。

「学校教育をどうやって市場原理から守るか」というのは、どうやら今の韓国ではあまり「人気のある主題」ではない。これはたぶん間違っていないと思います。それは「学校教育は市場原理に従属すべきだ」と思っている人が韓国のメディアではたぶんその反対の立場の人たちよりもつよい影響力を持っているということです。
僕が使っている「市場原理」というのは「学校とは子どもたちに市場から要求される知識や技術やふるまい方を教えるところだ」という考え方のことです。
英語を使える人がたくさん欲しいという社会的要請があるなら、学校では英語を集中的に教えるべきである、コンピュータの知識が必要ならコンピュータを教えるべきである、金融の知識が必要なら金融工学を教えるべきである、介護技術が必要なら介護技術を教えるべきである・・・などなど。それだけ聞くとなかなか合理的に聞こえますけれど、この「市場の要請」はあくまで「市場の要請」であって、学校で学ぶ子どもたちの都合のことは配慮していません。例えばアメリカが没落して、軍事的にも経済的にも覇権を失い、中国が超大国になった場合に「北京官話ができる人がたくさん欲しい」という社会的需要が出てきたら、どうなるでしょう。「英語使いはもう不要」ということになる。学校で英語習得のために必死に努力してきたあげくに「あ、もう要りません」と言われた子どもたちはどうすればいいのか。それに対しては何の支援も言い訳も用意されていません。
別に僕は極端な話をしているわけではありません。日本の大学で1960年代から70年代にかけて理科系でいちばん履修者の多かった第二外国語はロシア語でした。当時、ロシアは宇宙開発でも軍事研究でもアメリカと競争関係にあり、分野によってはアメリカをリードしていました。ですから、最新の科学的知見にアクセスしたいと願っている理系の学生たちは進んでロシア語を学んだのです。その後のソ連の没落によって理系のロシア語履修者は激減しました。たぶん今は限りなくゼロに近いでしょう。
原子力工学も金融工学もそうでした。市場のニーズがあるときはどの大学でも飛ぶ鳥落とす勢いの看板学科でしたが、どちらももう昔日の栄光の影はありません。
そういうものです。ニーズに合わせて教育プログラムをそのつど作り替えてゆくことを市場は学校に要求します。会社の経営者ならそう考えて当然です(僕だって会社の経営者ならそう要求します)。そうすれば、企業が自力で専門家を養成するときにかかるコストを「外部化」できるんですから。そのつど必要な専門的知識を教育するコストを大学に外部化すれば、企業はその分だけ収益を増やすことができる。
企業側からすれば合理的な要求ですけれど、僕は、そういうしかたで学校が市場に従属することには反対です。学校は自律的に教育プログラムをコントロールし、卒業生たちがさまざまな危難に遭遇しても、それを切り抜け、末永く幸福で充実した人生が送れるように、汎用性の高い「生きる力」を身に付けされるところだと思っています。「とりあえず市場が必要とする」知識や技術をオン・デマンドで送り出すファクトリーではありません。
でも、僕のように考える人は日本の教師たちの中にも決して多くはありません。僕は日本でもかなり孤立した立場にいますが、韓国ではもっと孤立しているでしょう。でも、そういう少数の孤立した人たちが僕の本を読んでくれている。そして、「韓国でも日本でも、教育が直面している危機の構造は同じだ」と知って、ちょっとだけほっとしている。同じ危機感を持ち、解決のための方途を探っている人の数は一人でも多い方がいいから。そういうことではないかと思います。
もう一つの僕の仮説は「哲学の『読み方』と『使い方』をできるだけ多くの非専門家に伝える」仕事を引き受けようという人が韓国の知識人の中にはあまりいないというものです。
僕は韓国の大学の実情をほとんど知らないので、これは当て推量ですけれど、こういう「専門家と一般読者の間の架橋をする人」、「二つの界域に同時に共属するもの=トリックスター」的知識人が韓国社会ではあまり高い威信を得られないのではないかと僕は想像しています。もちろん、日本でも事情はそれほど変わりません。トリックスター型の学者には学問的な威信は認められませんし、専門家からはしばしばあらわに侮られます。でも、「そういう仕事を誰かがやらなければいけない」ということがわかっている編集者や読者は少なからずいます。そういう環境があるから、僕のような中途半端な学者でも生きてこられたわけです。
前に聞いた話ですけれど、韓国の大学の先生たちは最近は国内学会でも英語で発表や質疑応答をされるそうですね。グローバルスタンダードが英語なんだから、「世界に向けて発信」するためには英語が公用語で当然だという考え方なんでしょうけれど、それは英語がよくわからない同国民に対していささか敬意を欠いた態度ではないかと僕は思います。
「英語ができる人」は「英語ができない人」のためにその能力を使うべきであって、「英語ができる人」たちだけの閉じられた知的交換の場を設けるというのは、ことの筋目が違うんじゃないかと僕は思います。
専門的知識があるというのは「目がいい」とか「鼻がきく」とか「力持ちである」とかと同じようなたぐいの能力です。「目がいい人」は遠くに見えるものを見えない人に教えて上げられるし、「鼻がきく人」は他の人が気づかないうちに火災の発生に気がついて避難指示ができるし、「力持ちの人」は非力な人のために重いものを持って上げられる。それと同じように、自分が持っている能力は、それを持ってない人のためにこそ優先的に用いるべきだと僕は考えています。「目がいい人」ばかりが集まって「どこまで遠くが見えるか」競うようなことをするより、「目が悪い人」のために遠くを見てあげることの方がずっとたいせつな仕事だ。僕はそう思っていますけれど、こういう考え方をする人間は世界どこでも少数派です。もちろん日本国内でも僕は少数派です。そういう少数派に共感してくれる人が韓国にもたぶんいるんだと思います。
僕と韓国の読者のみなさんとは海を隔てていますけれど、「教育を通じて次世代を守りたい。彼らを市場の消耗品にしたくない」と願っている、「専門知識はまず非専門家のために用いるものであって、専門家同士で優劣を競うために習得するものではない」と思っている。どちらもそれぞれの社会で少数派ではありますけれど、この点については、ボーダーを超えて共感し、連帯することはできる。そういうタイプの「グローバルなつながり」というのがあってもいいと僕は思います。
以上、「最近韓国語訳が多く出た」ことについてひとこと感想を申し上げました。長くなってすみません。

本についてひとことだけ。
この本は精神科医の名越康文先生との対談を収めたものです。対談が行われたのは8年前、僕はまだ大学に勤めていましたし、名越先生はクリニックで思春期の子どもたちのカウンセリングをしていました。教育と医療のそれぞれの現場での知見に基づいて、「日本の家族」について、いまどういう病的症状が出ているのか、なぜそれが発症するに至ったのかについて意見の交換をしました。最終的に二人が到達した結論は、「日本人全体の心理的な未成熟がこれらすべての現象に共通する原因らしい」ということでした。
「心理的な病の理由は心理的な未成熟である」というだけでは同語反復のようですけれど、微妙に違います。「未成熟」は「病的」な様態をとることはありますけれど、それ自体は病気ではありません。成熟すればいいんですから。日本人に必要なのは「治療」ではなくて「成熟」である、というのがたぶんこの本から僕たちが引き出した実践的な結論ではなかったかと思います。日本社会には人を成熟に導くための教育過程がない。そのことを深刻な危機だと思っている人がほとんどいない。ほんとうにいないのです。少なくとも教育行政の当局者にはいません。英語ができるようになれとか、上司の言うことには黙って従えとか、愛国心を持てとか、体力をつけろとかいうことはがみがみ口やかましく言いますけれど、「大人になれ」ということは言いません。一言も言いません。
「大人」というのは、ものごとを自分の個人的な基準に基づいて判断し、その責任をひとりで引き受けることのできる人のことです。でも、それだけではありません。「大人じゃない人たち」の不始末や手抜きを黙って片付ける人のことです。「子どもたち」よりも「大人」である分だけ「よけいな仕事」をしなければいけないということがわかっている人のことです。そういう「大人」が一定数いないと共同体は長くは保ちません。でも、そういう「大人」を育てるための教育システムが存在しないのです。この本で僕と名越先生が話しているのは、そのような危機的状況の諸相についての報告です。そう思ってお読みいただければと思います。

長い序文ですみませんでした。たぶんこの本の後には、朴聖焌先生が訳された『レヴィナスと愛の現象学』が出版されることになると思います。その序文でまたお会いできることを楽しみにしております。
最後になりましたが、翻訳の労をとってくださったPark Dongseop 先生の丹念なお仕事にお礼を申し上げます。いつもありがとうございます。

2013年1月
内田樹