体罰と処分について

2013-01-16 mercredi

大阪市立桜宮高校バスケットボール部主将の男子生徒が顧問の男性教諭の体罰を受けた翌日に自殺した問題で、橋下徹市長は15日に記者会見を開き、「(男子生徒が所属していた)体育科は生徒の受け入れ態勢ができていない」として、今春の体育科とスポーツ健康科学科の入試を止めるべきだと市教委に伝えたことを明らかにした。
入試を変更する権限は市教委にあり、長谷川恵一委員長は「非常に大きな問題であり、今すぐには受け入れがたい」と、21日に改めて判断する考えを示した。
橋下市長は午後4時から約3時間20分にわたり市教育委員と意見交換。その後、長谷川委員長らと共同で記者会見し、再発防止策を発表した。その中で市長は、桜宮高の体育科は「指導において体罰が黙認され、歯止めがかけられない状態」と指摘。「いったん入試は止めてもらって、実態解明をする」「そのまま入試をすれば大阪の恥」として、体育系2学科の入試中止を強く市教委に求めた。ただし「入試が迫っているので混乱を最小限にとどめる」ため、体育科とスポーツ健康科学科の計120人を普通科の定員へ振り替えることを提案したという。
体育科とスポーツ健康科学科の入試は、2月20日に学力検査と運動能力検査、21日に運動技能検査が予定されている。(朝日新聞1月16日)

市長は「廃校も検討」とまで踏み込んだ発言をしているが、二学科の入試が中止になるかどうか、まだわからない。
この時期における入試の変更は受験生への影響が大きい。
おそらく市長の指示通りにはならないだろうと私は予想している。
「あんな学校は廃校しろ」というような声が市民から澎湃として湧き出てくるとも思わない。
当然だろう。
「不適切な指導の結果、生徒が自殺したら生徒在籍の学科は入試中止、場合によっては学校そのものを廃校とする」ということが行政の判断として適切であるということになれば、そのロジックに基づいて、「いじめ」や「体罰」で自殺者を出した学校はことごとく廃校候補になるからである。
もちろん、それでも構わないという人もいるだろう。
そのせいで、日本の学校が三分の一に減っても構わないという人もいるだろう。
それでも構わないという人は、どういう「大義」に基づいてそう考えているのだろうか。
「生徒の人権保護はあらゆることに優先する」ということなのだろうか。
なるほど。人権主義の立場からそうおっしゃっているわけだ。
では、そういう人にお訊きしたい。
そのルールを敷衍すると、「上司の不適切な管理の結果、部下が自殺したら、そのものが在籍した組織は活動停止、場合によっては廃業」ということがコロラリーとして導かれる。
違うだろうか。
生徒が不適切な教育指導の結果自殺するのは学校の失態だというロジックが成り立つなら、社員が不適切な業務指導の結果自殺するのは組織の失態だということになる。
そうでなければ話の筋目が通るまい。
だが、自殺者を出した企業に対して行政がきびしい訓告を与え、場合によっては営業停止や廃業を示唆したという前例のあることを私は知らない。
そんなのは行政の仕事ではないと思っているからだろう。
大阪府でも大阪市でも公務員の自殺者はあった。だが、それについて府知事や市長が市民に陳謝し、辞表を出したという前例のあることを私は知らない。
社員や役人が自殺するのはあくまで「自己責任」であり、「組織の失態」ではない。
たぶんそういうことなのだろう。
「ひとりの人間の命は地球より重い」という黄金律は汎用性があるわけではないということである。
「命が重い場所」があり、「命が軽い場所」がある。
市立高校は「命が重い場所」で、企業や役所は「命が軽い場所」である、と。
命の重力が場所によって違うというのは、あるいはほんとうなのかも知れない。
では、いったいどういう基準でそれは分別されているのだろうか。
誰かその基準をご存じだろうか。
自殺が「組織の失態」とされる場所と「自己責任」として放置されるかの分岐線はどこに引かれるのだろう。
私はそれを知りたい。
「教育機関は営利企業や役所とは別だ」ということなのだろうか。
教育機関には一般企業より厳しいルールが適用されて当然だということなのだろうか。
ほんとうにそうなのか。
少し前に、大阪府下の大学で、学生が同じ大学の学生を殺して埋めるという事件があった。
その大学に対して、どのような行政的な処分がなされたのか、私は知らない。
募集停止や廃校勧告がなされたという話は聞いていない。
大阪の国立大学でも、在学生が殺人事件を起こしたことがあった。
このときも学長以下の謝罪記者会見はあったが、「組織的失態」の責任を問うて、在学していた学科の廃止や大学廃校を論じたものはいなかった。
刑事上の重罪を犯す構成員がいることは「組織的失態」としては重く問わないというのが日本の教育機関についてはどうやら「常識」のようである。
良いか悪いかは別にして、これまでは、そういうことになっている。殺人については、教育機関にその組織的瑕疵を問わない、と。
今回は、自殺した生徒が出たことが教育機関としてきわめて不適切であるとされている。
その判断に基づいて、入試中止や廃校、さらには教育委員会の改組や、政治家の教育行政への関与の必要性など、「学校内で殺人事件があったときも議論にならなかったトピック」が論じられている。
それほどまでに常軌を逸した大罪がなされたという話になっている。
この判断は適切なのであろうか。
今回事件を起こした教員の行為がどこまで重い罪を問われるべきか、軽々には判断することができない。
現に、この教員がスポーツ指導ではなやかな実績を上げていた限りでは、その体罰行為は同僚のみならず生徒や保護者を含む関係者から黙認されてきていたからである。
同じような体罰をいまも日常的に繰り返しているスポーツ指導者は日本中に何千人何万人といる。
市長自身、この事件が起きるまでは学校における体罰を支持する立場を明らかにしていたし、政治的同志である石原慎太郎は人も知る「体罰有用論者」である。
「自分は潔白であると思う人間だけが石もて打て」という条件を課した場合、「この教員は社会通念を逸脱しており、許しがたい大罪を犯した」という批判をほとんどの人は口にする権利がないだろう。
誤解して欲しくないが、私はこの教員を擁護しているのではない。
体罰によって、あるいは心理的な抑圧によって短期的に心身を追い込んで「ブレークスルー」をもたらすというのは頭の悪いスポーツ指導者の常套手段であり、その有効性を信じている人間が日本には何十万人もおり、私はそういう人間が嫌いである。
ほとんど憎んでいる。
けれども、それでも、この教員「だけ」が、この教員のいる学校「だけ」が、この教員の在籍している自治体の教育機関「だけ」が政治的処罰の対象になるという事実に対しては「それはフェアではない」と言わざるを得ない。
そのような教員を野放しにしてきた人々、それをむしろ支援してきたような人々がここを先途と「処罰する側」に回って、ひとを罵倒しているさまを形容するのに「アンフェア」という言葉はあまりに穏やかすぎる。
この「組織的失態」をレバレッジにして、市長は教育行政に対する自己の支配力をさらに強化することをめざしている。
この生徒の自殺は、政治的水準では、教育現場への強権的干渉を正当化する「千載一遇の好機」として功利的に活用されようとしている。
「ひとの痛み弱みを功利的に利用して成果を上げる」技術の有効性を信じているという点で、この人々は私の眼には重なって見える。
私たちが批評的に対象化すべきなのは「処罰の恐怖のもとで人間はその限界を超えて、オーバーアチーブを達成する」という人間観そのものだと私は思う。