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新年のご挨拶がわり

大晦日なので、何かたのしいことを書きたいのだが、書くことがない。
しかたがないので、ある媒体の新年号に寄稿したものを転載する。
年頭所感ということで書いたものである。
平川くんが『移行期的混乱』について自注している文章と併せて読んでもらうと、話の筋目が見えてくるかもしれない。
http://www.radiodays.jp/blog/hirakawa/


震災と原発事故から1年半が経った。この1年半で日本人は変わっただろうか?考え方やものの感じ方や、生き方が変わっただろうか?
変わったはずである。変わらなければ困る。だが、社会の表層を見ている限り、大きな変化は検知されていない。むしろ、2011年よりも退行しているような印象がする。
この文章を書いているのは衆院選挙戦の翌朝だが、選挙では「原発再稼働」やTPPだけでなく、「改憲」や「徴兵制」や「核武装」といった幻想的なイシューが「熱く」語られていた。
そういう論点を前景化する人たちが何を実現しようとしてそうしているのかは私にはよくわからない。
だが、彼らが震災と原発事故の話は「もうしたくない」と思っていることはよくわかる。「厭な話」はもう忘れたいのだ。
それよりは、どうすれば経済が成長するか、どうすれば税収が増えるか、どうすれば国際社会で威信が増すか、どうすれば国際競争に勝てるか。そういう話に切り替えたがっているのはよくわかる。震災だの原発事故だのという「辛気くさい話」はもう止めたいのだ。それよりはもっと「景気のいい話」をしようじゃないか。相当数の日本人がそういう気分になっている。その苛立ちが列島を覆っている。
それに対して、震災や原発事故の被災者に継続的な支援を続けてきた人たちの姿はしだいメディアの後景に退いている。
もともと彼らを駆り立てていたのは、個人的な「惻隠の情」であった。被災者を支援しない奴は「非国民」だというような攻撃的な言葉遣いで被災者支援を語る人間は私の知る限りどこにもいない。他者の痛みや悲しみへの共感は政治的な語法となじみが悪いのだ。
でも、「口を動かすより手を動かす」という謙抑的な構えをとる人たちにメディアはすぐに関心を失ってしまう。メディアは、その本性からして、「ぺらぺら口を動かす人間」「何かを激しく攻撃している人間」を好むのである。
そういうふうにして日本人はいつのまにか二極化しつつある。それが「ポスト3・11」のもっとも際だった日本社会の変化ではないかと私は思う。
一方に「賑やかだが空疎な言葉をがなり立てる人たち」、「何かを激しく攻撃する人たち」、「他責的な言葉づかいで現状を説明する人たち」の群れがいる。メディアはこの「うつろな人たち」の言動を好んで報じている。
だが、他方に、個人としてできることを黙々と引き受けている人たちがいることを忘れたくないと私は思う。誰かを責め立てても事態がすぐに好転するはずがないことを知っており、まず自分の足元の空き缶一個を拾うところからしか秩序を再構築することはできないということを知っている人たちがいる。この人たちの声は小さく、表情は静かである。だが、彼らこそ「地の塩」だと私は思っている。
私が今の日本社会を見ていて、あまり絶望的にならずにいられるのは、周囲にいる若い人たちのうちにいくたりもの「地の塩」を数えることができるからである。誰に強制されたのでも、教え込まれたのでもないし、「そうすればいいことがある」という利益誘導に従ったのでもなく、黙って「空き缶を拾う」ような仕事を淡々と担っている若者たちの数はむしろどんどん増えているように思われる。苛立ち、怒声を上げている若者たちは目立つ。だから、世の中には「そんな若者」ばかりだと人々は思っているかも知れない。だが、静かな声で語る、穏やかなまなざしの若者もまたそれと同じくらいに多い。彼らに日本の希望を託したいと私は思っている

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2012年12月31日 12:03 に投稿されたエントリーのページです。

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