田中文科相はいったん不認可とした3大学を新基準で再審査する方針を断念して、現行基準での認可を認めた。
結果的に大臣決定の全面撤回というかたちになった。
それでもなお「大学は多すぎる。大学数を減らすという方向については多くの人の賛同を得ている」と自説の正しさを訴え続けていた。
興味深いのは、田中大臣の方向を官邸が当初は支持していたことである(6日の記者会見で、田中大臣自身が暴露した。)
野田佳彦首相と藤村修官房長官は1日に田中氏から不認可の事前報告を受け、首相は「そのまま進めてください」、官房長官は「大変結構なことだ」と発言したそうである。
事態が紛糾し出してから後も、官邸は大学認可は大臣の専管事項であり、官邸は与り知らないという態度を貫き、結果的に大臣ひとりに罪をかぶせて「スケープゴート」に差し出すというかたちになった。
昨日も書いたことだが、もう少し続ける。
多くの人が「一般論として」は大学が多すぎるということに同意するだろう(官邸もそれに同意したわけだし、私も同意する)。
「じゃあ減らせ」というのももっともである。
だが、それではどうやって減らすのか。
その手立てを考えるときには「なぜこんなに増えたのか」にまず答えなければならない。
体重を減らすときには、「なぜこんなにデブになったのか」にまず答えなければならないのと同じである。
食い過ぎでデブになったのか、運動不足でなったのか、薬物の副作用でなったのか、遺伝的になったのか・・・原因によって「痩せ方」は変えなければならない。
だが、今巷間で垂れ流されている「大学を減らせ」論の中に「なぜ増えたのか」についてのまともな吟味を見ることはまれである(「まれ」というか、「ない」)。
昨日も書いたとおり、大学がこれほど増えたのは大学設置基準を緩和したからである。
誰でも大学設置ゲームに参加できるように、参入障壁を引き下げたのである。
なぜ、そんなことをしたかというと(ほとんどの人は忘れているが)「大学を減らそう」と思ったからである。
大学が増えるのは、「旧態依然たる時代遅れの大学」が淘汰されないでずるずる生き残っているからである。
行政はそう考えた。
こいつらを叩き出すためには、世界標準に準拠した教育プログラム、スマートな教育技術、有用性の高い教育サービスで武装した「新設大学」がどんどん市場に参入してきて、「古顔」を追い出して、それに取って代わるのがよろしい、と。
そう考えたのである。
自由競争による淘汰圧に大学を委ねれば、マーケットは過たず「最低の教育コストで最高の教育効果を上げる大学」だけを残して、あとは一掃してくれるだろう、と。
ふつうのビジネスはそうだからである。
消費者は「新発売!」という商品に飛びついて、昨日まで愛用していた商品を惜しげもなくゴミ箱に捨てる。
新しいiPadを買ったら、ふるいラップトップは(まだ使えるのに)ゴミになる。
それと同じことが大学でも起きるだろう、と。
みなさんそう考えたのである。
でも、そんなことにはならなかった。
大学は「お店」ではなく、教育は「商品」ではないという基本のことを忘れていたからである。
「大学を減らせ」という一般論を語る方は、ほんとうはまず「要らなくなった自分の大学」を捨てるところから始めなければならなかったのである。
自分の子供が二流以下の大学に通っているなら「どうせ勉強してないんだから、大学なんか行くな」と言うべきだったのである。
大学なんか国立と私立が数十校あれば足りるんだから、偏差値60以下の大学なんか存在するだけ税金の無駄だから、そんな学校にはうちの子だけは絶対に通わせないというぐらいのご英断が欲しかった。
もちろん、自分の卒業校についても「あんな大学はなくてもいい」ということであれば、ただちに同窓生に呼びかけて「廃校運動」を起こすべきだった。
「日本の大学教育のレベルを上げるためにも、母校を廃校にして、大学を減らしましょう」というキャンペーンを「なくてもいい大学」の卒業生たちは率先して行うべきだった。
でも、もちろん、誰もそんなことをしなかった。
どんなろくでもない大学でも、自分の子供は大学という名前のところに通わせたいし、どんなろくでもない大学でも、自分の母校が淘汰されて消えることは耐えがたいからである。
つまり「要らない大学」というのは、「大学を減らせ」論者にとっては「自分に関係のない大学に限って」ということだったのである。
大学は減らさなければならないが、「うちの大学」だけは残さなければならない。
子供を大学に通わせているすべての親たちと、大学を卒業したすべての人々がそう考えた。
それでは、大学は減らない。
減るはずがない。
企業の場合にはそういうことはふつうは起らない。
オレはむかしトヨタカローラに乗っていた。いまはベンツに乗っているが、オレが「卒業」したカローラには永遠に存在してほしい。トヨタが経営不振でカローラのラインを消すという話があるのなら、多少の拠金をするにやぶさかではない、と考えるような消費者は存在しない(するかもしれないが、日本全国で30人くらいであろう)。
企業と大学は違うのである。
企業は起業した100社のうち99社は50年後にはもう存在しないが、大学は開学した100校のうち99校は50年後も生き残っている。
生命力が違うのである。
だから、「生命力のない株式会社立大学」からまっさきに淘汰されていったのである。
市場に委ねれば企業は淘汰されるが、大学は生き延びる。
その生命力の差を見落としたからこそ、大学がこれだけ増えてしまったのである。
それでもなお、今からまた「市場の淘汰圧に委ねて大学を減らそう」ということを言い出す人たちがまたぞろ出てくると思う。
そして、その結果、大学はさらに増えてゆくことになるのである。
いい加減学習したらどうか。
論理的に考えて、「淘汰」というのは新しいものの参入を認めないと意味をなさないのである。
新規参入を認めず、今ある大学だけの中で競争させれば、たしかに「出来の悪い大学」は消えて行くが、それは「出来のいい大学」が増えるということではない。
どうしても競争原理に訴えたいなら、いやでも新規参入を認めなければならない。
生存競争を激化したいのであれば、設置基準を緩和するしかない。
それは一時的に(いつまで続くかわからないが)大学が増え続けるということを受け入れることを意味している。
「大学を減らすために、大学をとりあえず増やしてみる」という政策をさらに続けてどうするのか。
逆に、設置基準を一気に厳格化するという方法もある。
こちらの方が目的限定的には合理的である(田中大臣が狙っていたのも、この線だろう)。
定員が一定の比率を割ったら自動的にその学科学部を募集停止処分にする。
もちろん新規参入は一切認めない。
そうすれば大学は確実に減る。
問題は、それが日本の学術レベルが向上したということを意味するわけではないということである。
それはただ研究教育機関の数が減って、その分だけ日本社会から研究教育機会が失われたというだけの話である。
日本人の全体に低学歴化し、平均学力が低下したというだけの話である。
だが、教育行政の主管官庁が「国民の教育機会を減らし、平均学力を下げるため」に組織をあげて努力するというのは、誰が見ても、ことの筋目が違っている。
進むも地獄、退くも地獄。
そういうところにまでわが国の教育行政は追い詰められているのである。
田中大臣の最大の失策は、日本の教育がそこまで追い詰められており、政治家や官僚やビジネスマンたちが提案する「これでたちまち解決、教育改革の秘策」なるものはどれも愚策にすぎないという事実の前に「粛然と襟を正す」ところから始めなかったことである。
(2012-11-08 11:56)