集団的自衛権と忠義なわんちゃんの下心について

2012-09-14 vendredi

日本維新の会の橋下代表は13日、集団的自衛権の行使について「基本的に認めるべきだ」との立場をはじめて明らかにした。
集団的自衛権の行使は許されないとするこれまでの日本政府の立場を否定して、「権利があるけれど行使できないなんて役人答弁としか言えない」と批判、「主権国家であれば当然認められる。」とした。
この人は何か勘違いしているようだが、集団的自衛権というのは、これが制定された歴史的文脈に即して言えば、わが国のような軍事的小国には「現実的には」認められていない権利である。
それが行使できるのは「超大国」だけである。
集団的自衛権というのは平たく言えば「よその喧嘩を買って出る」権利ということである。
安全保障条約の締結国や軍事同盟国同士であれば、同盟国が第三国に武力侵略されたら、助っ人する「義務」はある。
でも、助っ人にかけつける「権利」などというものは、常識的に考えてありえない。
よほど、戦争をしたい国しか、そんな権利は行使しようと思わないからである。
実際、そのような歴史的文脈において、集団的自衛権という「概念」は「製造」されたのである。
自国が侵略された場合にこれを防衛するのは「個別的自衛権」と言って、国際法上「固有の権利」とされている。
だが、集団的自衛権という概念がこの世に出たのは、20世紀になってから、米ソの東西冷戦構造の中においてである。
米ソはそれぞれNATOとワルシャワ条約機構という集団的自衛のための共同防衛体制を構築した。
だが、同盟国内におきた武力紛争にこれらの地域機関が介入するためには国連憲章上は「安全保障理事会による事前の許可」が必要とされる。
米ソはもちろん安保理の常任理事国として、相手側の共同防衛機構の軍事介入を拒否するに決まっている。
そこで、安全保障理事会の許可がなくても共同防衛を行う法的根拠を確保するために集団的自衛権が国連憲章に明記されることになったのである。
要するに、超大国が自分の支配圏内で起きた紛争について武力介入する権利のことである。
だから、冷戦期には米ソ両大国はその「属邦」の内部で、少しでも「宗主国」から離反の動きが見えると、武力介入を行い、集団的自衛権をその武力行使の法的根拠とした。
集団的自衛権の行使例は次のようなものがある。
ハンガリー動乱(1956年 ソ連)
レバノン派兵(1958年 アメリカ)
ヨルダン派兵(1958年 イギリス)
チェコスロバキア「プラハの春」(1968年 ソ連)
ドミニカ軍事介入(1965年 アメリカ)
ベトナム戦争(1965年 アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドなど)
アフガニスタン軍事介入(1979年 ソ連)
チャドへ派兵(1983年 フランス)
ニカラグア軍事介入(1985年 アメリカ)
ご覧になればわかるとおり、集団的自衛権の発動はほとんどの場合外部からの武力攻撃が発生していない状態で行われている。
従属国内で「傀儡(パペット)政権」の倒壊のリスクが高まると、「パペットマスター」が登場する。
その強権発動の法的根拠を「集団的自衛権」と呼ぶのである。
ハンガリー動乱やプラハの春では、主権国内部で親ソ政権を民衆が倒しかけたときに、民衆を武力制圧するためにソ連軍の戦車が市民たちをひき殺すためにやってきた。
集団的自衛権とは、平たく言えば、「シマうちでの反抗的な動きを潰す」権利なのである。
他国の国家主権を脅かす権利を超軍事大国にだけ賦与するという、国際法上でも、倫理的にも、きわめて問題の多い法概念だと私は理解している。
だから、どうして、日本がこのような権利を行使すべきだと橋下徹や安倍晋三が考えるに至ったのか、私にはその理由がよく理解できない。
だって、日本は例外的な軍事大国なんかじゃないからである。
だいたい「シマ」がない。
どこか日本の「シマうち」(そんなものが存在すれば)で反日的な民衆運動があったり、反日的な勢力の侵入があったら、ただちにそれを潰さなければならないという「理屈」はわかる。
でも、いったい、それはどこの国のことを想定しているのであろうか?
アメリカ?
まさかね。
日本がアメリカに対して集団的自衛権を発動する場合は二つしか考えられない。
ひとつは、これまでの発動例と同じように、アメリカの民衆が「日本のくびきからアメリカを解放せよ」と言って、「日本の傀儡政権」であるホワイトハウスにおしかけたときに、それを潰しにかかるという場合である。
でも、たぶんそういうことにはならないと思う。
このような政治的リスクを真剣に考慮して、その場合の自衛隊派遣軍の編制やロジスティックスや反日運動制圧後の「アメリカ臨時政府」の布陣などについてシミュレーションしている外務官僚や防衛官僚がいたら、私が彼の上司なら「君ね、そのレポートはオレに出すんじゃなくて、SF大賞に応募したらいいよ」とサジェッションすることであろう。
もうひとつはロシアや中国や北朝鮮やイランやキューバやニカラグアがある日アメリカに武力侵攻してきて、カリフォルニアとかテキサスが占領されてしまったという場合である(ジョン・ミリアスの『若き勇者たち』的シチュエーションだ)。
この場合、日本は「権利」ではなく、日米安保条約第五条に規定された「義務」の履行として、アメリカ出兵に法的根拠が与えられるので、集団的自衛権を権原に求める必要はない。
ただ、アメリカが他国に侵略された場合に、日本政府は太平洋を越えて出兵するだろうか?
私はためらうだろうと思う。
というのは第五条にはこうあるからだ。
「両国の日本における、いずれか一方に対する攻撃が自国の平和及び安全を危うくするものであるという位置づけを確認し、憲法や手続きに従い共通の危険に対処するように行動することを宣言している。」
「おい、コネチカット州が中国に占領されたらしいけど、それって『日本の平和及び安全を危うくするもの』かな。」
「コネチカットって、どこよ?」
「いや、いいんだ。忘れてくれ」
というような展開になる蓋然性はきわめて高い。
それにここには堂々と「憲法」と書いてある。
憲法九条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とある。
これは別に日本だけの条項ではなく、同じような平和憲法を掲げている国は世界にいくつもある。
そもそも憲法九条第一項は1928年のパリ不戦条約の文言をコピーしたものである。
不戦条約には、アメリカもソ連もイギリスもドイツもフランスもイタリアも、もちろん日本も署名している。
条約にはこうある。
「第一条
締約國ハ國際紛爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ嚴肅ニ宣言ス
第二條
締約國ハ相互間ニ起ルコトアルヘキ一切ノ紛爭又ハ紛議ハ其ノ性質又ハ起因ノ如何ヲ問ハス平和的手段ニ依ルノ外之カ處理又ハ解決ヲ求メサルコトヲ約ス」
不戦条約には脱退規定も失効規定も存在しないので、国際法上はいまも有効である。
日本国憲法と不戦条約と日米安保条約を法的根拠とした場合には、「コネチカット州に中国が武力侵攻した場合」というようなSF的ケースにおいても、「憲法や不戦条約の整合性を考えると、にわかにはわが国の方針は決しがたく。安保理の採決を待って・・・」といってごにょごにょして時間稼ぎをするということは国際法上可能である。
可能であるというか、世界中のすべての国が、とりあえず「様子見」をするはずである。
まして、日本の場合、外交と国防については「後見人であるアメリカが決める」ことになっているのである。
その後見人がピンチなのである。
ということは、そのうち、後見人が別の国に変わるかもしれないし、もう被後見状態を解除します。好きにして、と言われるかもしれない。
そう思ったら、とりあえず「様子見」と判断するのは主権国家として国益を守るために当然のことである。
だから、総理大臣が「まず情勢を十分に見きわめて、適切な時期に適切な行動をとることで、国際社会の期待に応えたいと存じます」というようなことをもごもご言っても、日本国民は「まあ、そうかな」という話になると私は思う。
アメリカ救出義勇軍とかそういうものをつくって、ボートで太平洋を渡ったりする奇特な人がいるかも知れないが、集団的自衛権というのは残念ながら個人が行使できる権利ではない。
となると、いったい橋下代表は「どういうケース」を想定して、集団的自衛権のことを言っているのかがわからなくなる。
新聞によると「自衛隊がイラクやアフガニスタンで米国と共同行動をすることがねらい」と書いてある。
なるほど。
それなら、わからないでもない。
先行事例でこれに類するものとしては、ベトナム戦争での米国の軍事作戦へのオーストラリア、ニュージーランド、韓国の派兵がある。
この戦争も「米国の傀儡政権からの支援要請に応えて、国内の反政府=反米勢力を制圧する」ためのものであった。
だが、ご存じのとおり、ベトナム戦争にコミットしたことでアメリカは多くのものを失った。
私たちは「アメリカがベトナム戦争で多くのものを失った世界」の住人なので、アメリカが戦争に踏み込まなかった場合の世界の歴史については想像をめぐらせるしかないが、とりあえず「ベトナムの泥沼に入り込むのを自制したアメリカ」は「今のアメリカ」よりも軍事的にも経済的にも倫理的にも国際社会で「圧倒的な優位性」を保っていただろうということは想像できる。
その点でいうと、アメリカのベトナムでの集団的自衛権の行使については「よしたほうがいいぜ」と言ってあげるのが友邦のなすべきことだったと私は思っている。
友邦だったら。
でも、日本はアメリカの友邦ではない。
アメリカの属邦である。
従属国家である。
だから、「主人」の家が焼け落ちようと、「主人」の地所が切り取られようと、「主人」の執事が惨殺されようと、ぼんやり眺めていることしかできないし、ぼんやり眺めている「権利」を持っている。
従属民ゆえに外交や国防について主体的に判断できないように日本のシステムを作り込んだのは他ならぬ「ご主人さま」である。
そして、そのことについて、日本人はアメリカに対して深く抑圧された憎しみを感じている。
だから、日本は友邦のような顔をして、アメリカが没落への道を歩むときには、いつもにこやかにその「背中を押してあげよう」とするのである。
現に戦後、世界中の国がアメリカに向かって「それはよしたほうがいいよ」と友情あふれる忠告をなしたときに、いつも日本だけは「私は全幅の同意をお寄せします」と犬のような忠義面をしてみせた。
忠義面して、主人の放蕩や蛮行をアシストする臣下がほんとうは何を考えているのかは誰にもわからない。
たぶん日本人自身にもわかっていない。
日本人は無意識のうちではアメリカの没落を願っている。
そして、それを「アメリカのやることを(どれほどの愚行でも、愚行であればあるほど)すべて支持する」というかたちで実現しようとしている。
日本がこれからアメリカの中東や東アジアにおける軍事行動にこまめにコミットして、反米運動を暴力的に叩き潰す活動に鋭意邁進すれば、その分だけアメリカとその同盟国である日本は世界の人々の怨嗟の的となり、日米の同時的没落の時は早まるだろう。
アメリカと心中したいというのが「集団的自衛権の行使」を言い立てている人々の抑圧された欲望であるという可能性は決して低くない。
小泉純一郎はそうだった。安倍晋三も石原慎太郎もたぶんそうだと思う。
きっと橋下徹もそうなのだろう。
だから、アメリカの国務省内部では「日本の政治家たちが集団的自衛権の行使を言い立てている」という現況についてはすでにリサーチが進んでいると思う。
そして、きっとこのブログなんかもたまにチェックしている国務省の日本担当の小役人がいて、上司へのレポートには「日本人でアメリカに忠義面してすり寄ってくるやつを信用しないほうがいいって日本人がブログに書いてました」と書くことであろう。
上司はそのレポートを「既読」のボックスに放り込んで、鼻を鳴らして、こう言うのだ。
「なに今頃言ってんだよ。そんなこと、ルース・ベネディクトが70年前に国務省宛のレポートで書いてたじゃないか」