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『時局』インタビュー

名古屋で出されている『時局』という雑誌でインタビューを受けた。掲載誌が送られた来た。あまり手に取る機会のない媒体であるはずなので、一部加筆修正した上で掲載する。


―― 大学を退職後の昨年十一月に合気道道場「凱風館」を開かれましたが、内田先生にとって合気道はどんな存在ですか。
 
内田 大学卒業後、25歳から始めて、稽古に打ち込むようになったのですが、「稽古ばかりやっていてはダメだ」と大学の先生からは言われました。研究者になるつもりなら、寝食を忘れても研究に打ち込んだらどうか――と。でも、夕方六時になると、どうしても全部放り出して稽古に行ってしまう。そんな生活を十五年続けていました。
合気道の稽古と専門の研究の間には本質的な繋がりがあるということを、本人は確信しているんですけれど、言葉では説明できない。三十年くらいやったところで、「研究でやってきたことと、道場でやってきたことは、実はまったく一つの同じことだったのだな」と得心がゆきました。
合気道は武道である以上、敵がいて、自分を攻撃してくるという設定で動くのですが、理想的には、「敵と私」が対立するのではなくて、二人が対になり、同化的に動くことで、それぞれの身体能力を高めていく稽古をめざしています。
競技武道の場合、敵がいることによって、私の側は可動域や動線が制約されたり、動きの選択肢が狭められるというふうにマイナスの方をカウントしていくのですけど、合気道はその逆です。相手がいることによって、自分単独ではできないことができるようになると考える。新たに何ができるようになるのかを考えていく。与えられた環境を「自己実現」を阻害する否定的なものととらえないで、つねに自分の潜在可能性を引き出す新しい機会ととらえる。そういう点では、きわめて汎用性の高い心身の統御法です。だからこそ全世界に広まり、合気道人口が増え続けているのだと思います。

―― 現代人が求めているものがあるということでしょうか。
内田 若い人たちは相対的な優劣を気に病んで、あらゆることを対立的・競争的に考えている。わずかな格付けの上下に反応して、上から目線に対しては「なめるな」と怒り出す。かつては競争は受験やスポーツ競技など限定的な場面だけのものでしたが、今は社会全体に競争原理がゆきわたっている。あらゆる機会に個人の数値的格付けが要求される。でも、本来武道は術者の強弱勝敗巧拙を論じないものなのです。
道場に来る子たち、特に男の子は精神的に痛めつけられているケースが少なくありません。学校や職場の人間関係に苦しみ、追い詰められて、直感的に合気道に救いを求めてやってくる。それが道場で稽古するうちに身体がほぐれ、気持ちが開き、だんだん明るくなっていき、友達もできて、気がつくと仕事も家庭も順調にゆくようになっていた。そういう事例をよく耳にします。でも、当たり前のことなんです。武道的な心身の錬磨というのは、「どうしていいかわからない状況」で直感的に最適解を選ぶ訓練なんですから。自分の置かれた状況を俯瞰的に見下ろし、自分がどこにいるのか、何をなすべきなのかを瞬時に理解するというのが武道家のめざすところですから、武道的な修業が進めば、「仕事ができるやつ」だということになるから、会社でだって出世します。 

―― 状況を俯瞰するとは客観的視点を持つということですか?
内田 「客観的な視点」というようなものは、どこにもありません。でも、相手の身体に同化できると、自分が見える以上のことがわかるということがある。相手の五感が感知している情報が身体を経由して、こちらも部分的に共有される。自分では見えないが、相手が見えているものが見える。自分には聞えないが、相手には聞えている音が聞える。そういうことが起こります。二つの存在が同化すれば、私が単独で存在するよりも、外界についての情報入力が増える。見える範囲も可聴領域も広くなる。その分だけ、判断が正確になる。それを強いて言えば「客観的視点」を持つということになるかも知れません。
でも、その前提にあるものは「他者への共感」なんです。
まずは目の前の一人と同化する。それができれば、やがて同じ空間を共有している三人、四人、五人に同化の輪を拡げてゆく。性も年齢も国籍も宗教も違う人たちと身体的に、感覚的に同化する。その同化が深まるほど視野は広がり、判断も正確になる。でも、ベースになるのは、目の前にいて自分と向き合っている人間の心と身体への共感です。それを日々の稽古で練るのです。

―― インターネット上など身体を伴わない交友ではその共感は得られないと。
内田 ネットのコミュニケーションには身体性が伴いませんから、共感を作り上げるのはむずかしい。人間の感情って、アナログな連続体ですから。「喜び」と「悲しみ」と「悔しさ」と「怒り」の間には別に明瞭な切断線があるわけじゃない。実際には、知っている語彙では言い表せない非分節的な感情が無限にあるわけです。そういう微細な感覚は身体を経由すれば送受信できますけれど、デジタルな記号で伝えようとしたら、相当な筆力がないとできない。
デリケートな感情を伝えるのって、むずかしいんです。「ほのかな好意」とか「泣き笑い」みたいなものは目の前にいて全身を使わないと伝えられない。でも、「バカやろう」とか「死ね」というような薄っぺらな記号でも、憎しみや怒りは誤解の余地なく伝えられる。怒りや憎しみにはほとんど受け手の側に誤解の余地がないんです。だから、ネットコミュニケーションで、少ない記号運用で自分のメッセージを的確に伝えようとする人は「怒り」を選択する。記号利用の費用対効果を考えれば、「怒る」のが一番効率的なんです。
たしかに怒りを放電するツールとして、ネットは効果的です。現に、「アラブの春」で、民衆の「声なき怒り」が爆発的に感染していくときには強い力を発揮しました。しかし、政権崩壊後、新しい政治体制をつくっていくときにはもう機能しません。忍耐力が要る、きめこまかいネゴシエーションは生身の人間が顔と顔を接して進める他ないからです。
政治的対話というのは、最終的には、生身の人間と向き合ったときの「この人は信用できる」という身体的な確信がベースになる。その上に交渉が積み上げられてゆくわけで、レンガを積むのと同じで、基礎がぐらぐらしていては何も建設できない。でも、この「この人は信用できる」という確信はネットコミュニケーションで獲得することは簡単ではありません。やはり、顔が見え、声が聞え、手が届く範囲の具体的な人間関係を経由せずには、十分信頼に足る社会的な信頼関係は築けないと思います。

―― 思想家として言葉を扱ってこられた先生として気になることはありますか。
内田 日本語は今、危機的な状態にあると思っています。
日本語というのはもともと土着の「やまとことば」に大陸から伝来した漢字を取り入れたハイブリッド言語です。外来のテクスチュアルな公式言語をコロキアルな生活言語で受け止め、取り込み、生活言語を富裕化させてゆく。そのような外来語と土着語の緊張関係の中で日本語は豊かなものになってきた。幕末から明治の初めにかけて、ヨーロッパの言語が入ってきましたが、当時の日本人はそれを漢字二字の熟語に置き換えることで、一気に語彙を拡大させました。漢字熟語への置き換えというんは、要するに「外来語を外来語で置き換える」ということですから、土着語の統辞構造まで揺らぐわけではない。だから、外来の概念や術語の取り入れに対する心理的抵抗が少なかった。
日本が東アジアの中で例外的に近代化に成功した理由の一つはこのハイブリッド言語の柔構造が関与していると私は思っています。
でも、現在の日本語は土着語と外来語の緊張関係が希薄になっています。
もう新しい概念を漢字二字の熟語に置き換えるというような手間は誰もかけなくなった。英語は英語のままで済ませてしまう。加えて、まだ漢字もろくに書けない子どもたちに英語教育を行おうとしている。でも、日本語は日常語としてカジュアルに使い、難しい話は英語でするというのは植民地の言語状況ですよ。

―― ハイブリッド言語の機能が生かされなくなってきているのですね。
内田 せっかく土着語と外来語の緊張関係が日本人の言語能力を高い水準のものにしてきたのに、その関係を切断してしまった。今、日本語は急速に貧しい言語になりつつあります。新聞などメディアでも使われる日本語の語彙が年々少なくなってきている。これからビジネスは英語でやりましょう、論文は英語で書きましょうということは、日本語ではもうそういう「ややこしい話」ができなくなってきているということです。日本語の汎用性が失われているということです。

―― どうすればいいと。
内田 日本のメディアが使用語彙に対してもう少し寛容であってくれればいいと思いますね。僕は勝手に漢字二字で新語を造語することがあるんですけれど、新聞社から「こんな言葉は広辞苑にありません」と必ずチェックが入る。でも、広辞苑に採録されている言葉だってすべてもとは「新語」でしょう。漢字二字並べて意味がわかるなら、それでいいじゃないですか。言葉って、もっと生成的なものだと思う。

―― その一方、日常会話的な言葉は次々に生み出され、あっという間に認知されていきますね。
内田 「うざい」とか「ビミョー」とか「真逆」といった新語は、わずかな期間のうちに日本全土に広まりました。メディアに出る前に、もう拡がっていた。聞いた瞬間に意味がわかって、「これは新しい」と感じたら、子どもはすぐに使い出す。
ところが、複雑な感情や概念を表す新語というのは今の日本ではほとんど作られることがありません。このままでは、日本語の語彙はやせ細っていくしかない。最近の新聞で使われる漢字の語彙はもう僕が子どものころに比べても半分以下ではないでしょうか。

―― 深い意味を内包した言葉を生み出せなくなっていると。
内田 そうです。それを作りだすためには、「文章を書く力」が要るのですが、日本の学校教育では「創造的な言葉の使い方」というものを教えない。
たしかに、定型的な言葉の使い方には子供たちはすぐに習熟します。でも、出来合いのストックフレーズの在庫が増えるだけでは言葉が豊かになったことにはならない。どんな話題からでも無理やり自分の得意なところに持ち込み、用意していた台詞を一気に読み上げて、「どうだ!」と押し切るのが、今の日本でいうところの「ディベートのうまい人」です。でも、こんな能力は新しいものを作り出すためには何の役にも立たない。
本当のディスカッションというのは、「自分が知っていること」を言い立てることではなく、「自分がはじめて聞いた話」に反応することなんです。
そうすると、双方とも自分たちの話していることがよくわからない。何となく大事なことを話していることは直感されるのだけれど、気持ちの片づく表現を見いだせない。そういうときに、お互いに協力しながら新しい言葉や概念を作り出していったり、新しい感情の分節を発見したりするのが本来のクリエイティブな言葉の使い方だと思います。
当然、その過程では、口ごもったり、言いよどんだり、言い直したり、言い変えたりということが何度も起こるわけですが、今の若い人たちって、そういう戸惑いを「恥ずかしいこと」、「しちゃいけないこと」だとか思い込まされているんですよ。

―― 学校教育の場だけでなく、家庭でも職場でも、打てば響くように、立て板に水のごとく話すことを求めがちですね。
内田 そうなっていますね。これ、テレビがいけないと思うんです。テレビって制作費がすごくかかっているせいもあって、短い時間の中にメッセージを詰め込まなければいけないという制度的な要請があります。だから早口で、きちんと整理された話を、枠の中にきちんとはめ込むような語り口をするタイプの人しかテレビでは発言できない。
それを見て育った子どもたちは、ああいう話し方をするのが知的な人間であると思い込んでしまう。
討論番組を見ていると、ひどいときは二秒三秒で反論したり、自説の正しさ証明をしたりしなければいけない。でも、それんなことは、よほど話を単純化しない限りできるはずがない。「あなたの言うことも一理あるような気がするけれど、自分の主張も捨てがたい。どうです、ここはひとつナカ取って、玉虫色の落としどころを探しませんか」なんていう味のある対話はテレビでは絶対できない。ひたすら大声で自分が正しいと主張し、相手を黙らせることのうまい人間だけしかテレビには出られない。

―― 和を尊ぶ日本文化とは相反するのでは。
内田 本当にそうですね。僕はほんとうに非常にシビアな対立点がある場合には、相手の言葉にまず「うなずく」ところから始めるというのが、合意形成には非常に役立つと思っているんです。「うなずく」というのは、必ずしも「同意している」ということを意味しません。意見が違う人の話を聞く場合でも、「なるほど、そうですよね、そういうことってありますよね」と、とにかく首肯しながら聞く。身体でそういう動作を行いながら相手の話を聞き、向こうの語りのリズムとか、声のピッチにだんだん身体がなじんでくる。そうすると、なんとなくその人がその主張をなさざるを得ない「やむにやまれい事情」が頭じゃなくて、身体でわかってくる。
「この人がこれだけきっぱり確信している以上、何か切ない事情があるのだろう」と思えてくる。
だいたい議論の対立点というのは、ほとんどの場合、過去の経験則に基づいて、未来の出来事について「たぶんこうなるだろう」と予測していることが違うから起きるんです。事実関係で争っているわけじゃない。未来予測が違うんです。どちらかが正しくて、どちらかが間違っているから対立しているわけじゃない。まだ起きていないことについて、「どちらの予測の蓋然性が高いか」を論じている。お互いに、どういう情報に基づいてそれぞれの未来予測の確かさを根拠づけているかを開示し合えば、歩み寄ることは決してむずかしいことじゃない。

―― ネット上のやりとりでは起こりえないことですね。
内田 こればかりはできないですね。
ネット上で一番難しいことの一つに謝罪があります。「この度は不祥事を起こしまして、関係各位に対してお詫び申し上げます」という定型的な謝罪というのはありますけど、個人的な失言とか、事実誤認に対して個人が固有名において「すみませんでした」と謝ることはまずない。謝るのって、その場に身体がないと難しいんですよ。
例えば、もつれた事態の収拾のために一応謝罪することになった。でも内心は向こうの方が間違っていると思っているとき、手紙とかネットでの文字だけの表現では、謝罪しながら「お前に謝る気なんかないんだぜ」という思いは込められません。ところが身体があるとそれができるんです。まったく謝意がないままに、「申し訳ありません。この通り、土下座いたします」と言って土下座することができるんです。過剰に演技的に振る舞うことによって、「私は謝っているけれど、謝っていない」という無言のメッセージを発信することができる。
 
― 確かに「土下座いたします(笑)」と文字で明記しては、身も蓋もありませんね。
内田 それだと「ふざけるな!」となっちゃいますからね。でも、身体があれば、「(笑)」というメタ・メッセージを言葉の上にかぶせることができる。だから謝れるんです。
勘違いしている人が多いけれど、手紙で謝るより、直接謝る方が、ずっと楽なんです。内心では謝意がなくても、現に土下座されると、謝られた方はそれ以上要求できません。そこでその件は一件落着する。
そうした場合だけでなく、ことが紛糾して、「やばい」と思ったら、とにかく現場に飛び込んでゆく方がいい。現場に身体を放り込むと、何とかなるんです。危機的状況のときに、遠くから事態をリモートコントロールしようとすると、失敗する。人間の身体が持っている力というのは結構たいしたものなんです。言葉だけでやり取りしていると、なかなかほつれた感情はほどけないけど、顔と顔をつき合わせてやりとりすると、割とあっさり、「じゃあ、いいや」「いや、俺も悪かった」で終わることってままありますからね。
特に謝る時には機先を制して「えっ、本人が来ちゃったの?」という気持ちにさせる効果がある。先方が「電話の一本もよこして謝罪しろよ」くらいに思っている時に、本人が来て、「やっ、どうも申し訳ありませんでした」とぺこぺこすると、たいてい、怒りの熱は一気に冷めてしまう。
目の前にいる生身の人間に向かって、その人を激しく傷つける言葉を言うのは、よほど鈍感な人間にしかできませんから。だから、謝罪においては、相手の「間合いを切る」ことが効果的なんです。相手の身近く、手が触れるくらいの所まで行って謝まる。
でも、繰り返し言いますけれど、死ぬほど鈍感な人間が相手の場合は、この手は効きませんよ。

―― 最後に日本の経済環境についてのご意見を。
内田 「後手に回らない」というのが武道の基本なんです。でも、日本というのは本質的に「後手に回る」国なんです。
日本人をせき立てる一番有効な言葉は「バスに乗り遅れるな」ですね。でも、「バスに乗り遅れない」ことに夢中な人間は、「バスの行き先」を決める気もないし、「バスを作る」気もないし、「バスを運転する」気もない。そういうたいせつなことは全部他の人に委ねておいて、自分はゲームが始まってから、参戦して、成功事例の真似をして、何とかいいスコアーを上げようとしている。でも、こういうふうにはじめから「後手に回った」国がゲームを制するということはありえません。
日本は欧米に比べてもアジア諸国に比べても、治安もいいし、民度も高いし、社会的インフラも整備されている。なにより、一億三千万人という巨大な国内市場がある。グローバルな経済競争の「バス」の後を追うよりは、この国内市場だけ成り立つような「小商い」のビジネスモデルを創造すべきだと僕は思います。
国内で成功させ、その安定した基盤を使って、余力があれば世界に出てゆく。国際競争でのトップシェアは「ボーナス」みたいなもので、「月給」は国内市場だけで稼ぐ。そういう発想でいいと思うんです。
十億人、二十億人の市場でシェア一位じゃないとすぐ倒産してしまうというようなビジネスモデルは制度設計それ自体がが間違っている。
日本って独特の国だと思います。欠点もあるけれど、いいところもたくさんある。世界に誇れる厚みのある国民文化を持っている国なんですから、みんなでこの伝統をたいせつにしてゆけば、国際社会の中で名誉ある地位は保てると思います。

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2012年08月10日 12:56 に投稿されたエントリーのページです。

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