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「学力と階層」解説

苅谷剛彦さんの『学力と階層』が朝日文庫から文庫化されて出た。その解説を書いた。
苅谷さんの「意欲格差」や「学習資本」というアイディアに私はつよい影響を受けており、『下流志向』や『街場の教育論』で展開した考想は苅谷さんの『階層化日本と教育危機』がなければ書かれなかったはずのものである。
その感謝をこめて書いた解説である。とりあえずこれを読んでから、書店に走ってください。


最初に読んだ苅谷剛彦さんの本は『階層化日本と教育危機』で、その頁を開いたのは、講演のために東京から千葉に向かう総武線の車内でのことだった。手に赤鉛筆を持って、傍線を引きながら読み進んだ。しだいに赤線が増えてきて、ついに一頁全体が真っ赤になったころに、降りる駅についた。本を閉じるときに、文字通り「後ろ髪を引かれる」思いがしたことを、駅前の寒空とともに身体がまだ記憶している。
日本の教育危機の実相について、私の現場の実感とこれほど精密に対応する言葉に私はそれまで出会ったことがなかった。とくに、「自分探し」イデオロギーを深く内面化した子どもが社会階層下位に集中していること、階層下位の子どもたちほど学習機会を放棄する自分に自尊感情を抱いていることを統計から明らかにしたその手際の鮮やかさには動悸の高まりを禁じ得なかった。

『階層化日本と教育危機』を読んだ後、私は苅谷さんのつよい影響下に『下流志向』という教育論を書いた。その中で私は、現代の日本の子どもたちの「学力」の崩壊も、ニート・フリーター志向も、もっぱら教育への市場原理の侵入と、子どもたちの消費者化の帰結であるという議論をなした。そういうおおざっぱな議論をたぶん苅谷さんは好まれないだろうが、私としては苅谷さんの教育論のアイディアが別の領域にも適用可能であることを証明してみたかったのである。
本書は『階層化日本と教育危機』に続く時期に書かれた一連の教育についての論考である。この中で私たちは「学習」と「努力」という、すでに語義が一義的に確定していて、普通名詞化していると思われている言葉の洗い直しを求められる。そして、それらの語が隠蔽している社会の実相に直面させられる。
苅谷さんの知見のうちで、私がもっとも重要だと思うのは、前著では「インセンティブ・デバイド」(意欲格差)という言葉で語られ、本書では「学習資本」という言葉で語られる、「学ぶことへの意欲」そのものが社会構築的な能力だというアイディアである。
ひさしく「詰め込み教育」批判やゆとり教育を駆動していた基本的な教育観は、「誰でもがんばれば学習目標を達成できる」という「努力の平等」論であった。学習成果に差が出るのは、「がんばりが足りなかった」からであり、「がんばる」か「がんばらない」かは一次的に本人の自己決定に委ねられている。学習機会はすべての子どもの前に平等に開かれている。学力や体力には個体差があるが、「努力する能力」は万人に均等に分配されている。というのが、近代日本において、一度として懐疑されたことのなかった「努力主義」イデオロギーである。
苅谷さんはこれがある種の歴史的状況のもとで生まれた、一個の臆断であり、それによって日本の教育が深く損なわれていることを指摘する。これは教育学史上に残る卓見だと私は思う。
たしかに、「努力する能力」は万人に均等に分配されているわけではない。努力する能力は子どもたちの出身階層に深く影響される。階層上位の家庭の子どもたちは、「努力する」ことの意味と効用を信じ、努力することによって現に社会的成功を収めた人々に取り囲まれている。階層下位の子どもたちは個人的努力と社会的達成の間には正確な相関がないから「努力するだけ無駄だ」と信じている人々を周囲に多く数える。この社会的条件の違いは、子どもたちの「努力することへの動機づけ」そのものに決定的な差をもたらすだろう。だが、その事実はこれまでほとんど主題化することがなかった。
「どれだけがんばるかを、個人の自由意志の問題とみなすかぎり、その背後に社会階層の影響があることに目は向きにくい。(・・・)努力=平等主義を基調とする日本型メリトクラシーにおいて、メリトクラシーの信奉は、能力の階層差を隠すにとどまらない。それは努力の階層差をも隠すことにより、教育達成の不平等を二重に隠蔽するイデオロギーとして機能するのである。」(『階層化日本と教育危機』、有信堂高文社、2001年、p.159)
そして、ひさしくわが教育観を覆い尽くしてきた「だれでも努力すれば・・・」イデオロギーは、外見上の平等主義とはうらはらに、格差を再生産し、社会の階層化を強化してきた。それは今も変わらない。
今の日本の子どもたちは「自分が一番がんばれること」を探し出して、それにすべての人間的資源をつぎ込みなさいと学校教育でも家庭教育でも誘導をされている。もちろん、寝食を忘れて打ち込めるような対象がふつうの子どもたちにいくつもあるはずがない。芸人になりたい、アイドルになりたい、スポーツ選手になりたい、声優になりたい・・・というようなことを洩らす子どもたちは、彼らの幼い日常生活の中で「寝食を忘れて」夢中になれる対象がせいぜいテレビかネットかゲームの中にしかないという文化環境の貧困を告白しているに過ぎない。だが、子どもたちがさしあたり唯一「がんばれること」のが「それ」だと言い張るなら、子どもたちが「それ」をめざして「がんばる」ことを止めるロジックを大人は持っていない。もちろん、ほとんどの子どもたちはその「夢」と現実の絶望的な落差にいずれ気づいて、いずれ「がんばる」ことを止めてしまう。それまで「がんばれ」を煽ってきた大人たちは、子どもの努力放棄に対して不意に無表情になる。それは「努力する能力」が遍在しているということを半ば信じ、なかば信じていない人々に固有の反応のように私には見える。いずれにせよ、今の日本の子どもたちの過半は、人生のはやい時期に「努力すること」に対してシニックな態度をとるように仕向けられている。
その一方で、私たちの社会のエスタブリッシュメントはいまだに「努力することへの動機づけ」を安定的に備給されている人々がいる。そのような階層の子どもたちは「努力すればいいことがある」というタイプの利益誘導型のロジックにではなく、むしろ「あなたは人に倍して努力することを義務づけられている」という選良意識に従って努力をしている。そのような「努力することができる」集団と、「努力する能力を早い時期に損なわれた」集団が日本社会には解離的に存在しており、その隔たりは、日々拡がっている。階層上位の人々は、「強者連合」的な相互扶助・相互支援のネットワークを享受しているが、階層下位の人々は分断され、孤立化し、社会的流動性を失っている。それが苅谷さんが「『学習資本』の階層差」と呼ぶ事態である。
この階層化はもっぱら「努力することへの動機づけを欠いた集団」ばかりが増大してゆくというかたちで推移している。つまり、学習資本を持たない子どもたちが大量に、組織的に今学校で作り出されているのである。それが私たちの直面している喫緊の問題である。
「十分な学習資本を持たない若者が大量に社会に放り出される」とどうなるか。非正規化圧にさらされている若年労働者が「学校時代に身に付けるべきことを身に付けないまま、職業に就いてからも十分な職業訓練の機会を与えられない」(本書、24頁)ままであれば、いずれ彼らを支援するための社会的コストは破滅的な規模のものになるだろう。
私たちはあらゆる手立てを尽くしてそのような事態の到来を防がなければならない。だが、教育行政にかかわる人々も、政治家も、メディアも、この問題に対して、ほとんど関心を示さない。ただ「最近の子どもは学力が下がった」ということを不満げに言い立て、「できる」子どもに報償を与え、「できない」子どもに罰を与える「人参と鞭」戦略をさらに強化せよという声ばかりが高まっている。
だが、教育史が教えるのは、「人参と鞭」戦略は必ず失敗するということである。
同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子どもたちの集団全体としての学力は必ず下がる。
それは子どもたちが「自分の同学齢の子どもたちができるだけ無能で愚鈍であることから利益を得る」モデルになじんでしまうからである。受験競争では、自分の学力が上がることと、他人の学力が下がることは、同義である。子どもたちは、無意識的には、自分以外の同学齢集団の子どもができるだけ勉強をしないことを望んでいる。同世代の子どもたちが、できるだけ知的に不活発であることを望んでいる。その方が競争において自己利益を確保する上で有利だからだ。「努力する子どもたち」は機会があれば、他の子どもたちを「努力する気を失うような無力感」のうちに叩き込もうとする。個人的な性情の善悪とはかかわりがない。彼らは、合理的な判断として、「他人の努力を妨害する」ことを、ごく自然なふるまいとして行うようになるのである。
それが現代日本で起きていることである。そして、この「努力する能力」の階層的偏りと、努力する動機づけそのものの劣化・空洞化を、わが国の教育行政にかかわる人々も、教育を声高に論じる人々も、ほとんど理解していない。ただ、教え方が悪い、学習時間が短い、格付けと差別化が不徹底であるというような、この危機的状況をさらに悪化させるような愚かしい議論に明け暮れている。
教育をめぐる議論の底知れぬ退廃をどこかで防ぎ止めなければならない。そう私は思っているが、その方法について、確かなことを言える立場にはない。とりあえず、私と不安を共にしている皆さんには「まず苅谷剛彦さんの本を読んで下さい」と言うことにしている。苅谷さんの本には実践的なことについて、指図がましいことは何も書かれていない。何をなすべきかを思量し、実行に移すのは、私たちひとりひとりの仕事である。
私はとりあえず苅谷さんの本を読んで「私塾を作ろう」と決意した。文科省のいかなる教育政策にも掣肘されることのない教育機関が必要だという私の決断に、苅谷さんの教育社会学的知見は深く与っている。
そんなことを言われても、苅谷さんは当惑するばかりかも知れないが。

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2012年08月08日 09:00 に投稿されたエントリーのページです。

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