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いじめについての続き

ある媒体で、「いじめ」についてコメントした。それは昨日のブログに書いた通り。
それについて追加質問が来たので、これも追記として書き留めておく。

Q: 学校という場は社会の雰囲気とは切り離されたものではなく、一定程度の影響を受けていると思います。現実に、リストラが激しくなる一方ですし、1分1秒ごとに自己成長を求められる息苦しい世界になりました。この状況にあって、学校だけを過度な競争社会から切り離してある種のユートピアにすることは可能なのか、それとも競争を是とする今の社会を根底から変えない限り、社会に蔓延するいじめ体質はなくならないのか。この点はどう思われるでしょうか。

A: 学校は本来は苛烈な実社会から「子供を守る」ことを本務とするものです。それは学校というものの歴史的発生から明らかだと思います。
ヨーロッパで近代の学校教育を担った主体のひとつは、イエズス会ですけれど、それは「親の暴力から子供を守る」ためでした。当時のヨーロッパで子供たちは親の所有物とみなされており、幼年期から過酷な労働を強いられ、恣意的な暴力にさらされておりました。イエズス会は「神の前での人間の平等」という原理に基づいて、「親には子供を殺す権利はない」としたのです。

学校の歴史的使命は、何よりもまず「子供を大人たちの暴力から守る」ことでした。それは今も変わりません。

子供を幼児期から実社会の剥き出しのエゴイズムの中に投じると、どのように悲惨な結果を生じるかは、マルクスの『資本論』の中の19世紀イギリスの児童労働についてのレポートを読むとよくわかります。

子供を心身ともに健全に育て、強者からの暴力や収奪から自分を守ることができるだけの力をつけさせるためには、彼らを一時的に世俗から切り離し、一種の「温室」に隔離することが必要だったのです。

学校に弱肉強食の競争原理を持ち込んで、「子供の頃から実社会の現実を学ばせた方がいい」としたりげに言う人々は、その考えが学校教育の本質の一部を否定しているということを自覚していません。

質問に対するお答えは、ですから「学校に競争原理を導入すべきではない」というものです。最優先するのは、「子供を暴力と収奪から守る」ということです。

「いじめ」は学校に滲入してきた「外の原理」です。
学校で子供がまず学ぶべきことは、相互支援と共生の原理です。
でも、今学校では、何よりもまずその原理を教えていると胸を張って言える教師が何人いるでしょう。
「きれいごとを言うな。社会はそんな甘いものじゃない」と言う人がいるかも知れません。その人には、毎年200人の子供が学校でのことを苦にして自殺しているという事実を「甘い」と言えるかどうか、本気で考えて欲しいと思います。

Q:また、学校の役割が市民的成熟を支援するための組織である、よき市民を生み出すための組織であるという点については全面的にその通りだと思います。ただ、戦後の教育を見た時、そういった市民的成熟の培地だった期間が本当にあったのか、と考えると、よく分からない面があります。私自身、昭和50年代後半~平成初期にかけて学生生活を送っているので、そう感じているだけかもしれませんが・・・。学校や教育委員会は次世代育成という重大な役割をなぜ忘れたのでしょうか。

A:学校が次世代の成熟した市民を育成するための場であるということを人々が忘れたのは、戦後67年日本が例外的に豊かで平和な時代を享受できたせいです。
豊かで平和な時代が続けば、社会の成員たちは共同体を維持するために身銭を切るという仕事を免ぜられます。そういう公共的な仕事は税金を払っておけば行政がやってくれる。個人はただ自己利益の追求と、「自分探し」とか自己実現とかいうことに専念していればいい。
だから、日本から「大人」がいなくなったのは、平和のコストだと私は思っています。
でも、あまりに長く続いた平和と繁栄のせいで、ついに日本社会から「大人」らしい大人がほとんどいなくなってしまいました。自分のことしか考えない幼児的な市民ばかりになってしまった。
自己利益よりも公共の福利を優先的に配慮する「大人」が一定数いなければ、社会は保ちません。
今の日本のすべての制度劣化は「大人がいなくなった」ためだと私は思っています。
でも、今のような危機的状況が続けば、どこかで誰に言われなくても、「せめて私だけでも大人にならなければならない」と思う若者たちが散発的に出てくるはずです。

それは自分のまわりで「いじめ」が行われたときに、黙って立ち上がって「やめなさい。それは人間として恥ずかしいふるまいだ」と言えるよう若者というかたちで現れるはずです。(そのような若者は年齢がどうであれ、もう「子供」ではありません。それは「青年」と呼ぶべき存在だろうと思います)。

そのような若者たちを支援する体制がいまの学校には存在しませんし、教育行政もそのような若者の育成には一片の関心も持ちません(彼らが欲しがっているのは、「グローバル人材」のような「能力が高くて、賃金の安い、規格化された労働者」だけです)。

子供が大人になることを、この社会では誰も求めていないのです。

そんな社会で、有形無形の無数の抑圧をはじきかえして、「やめなさい。それは人間として恥ずかしいことだ」ときっぱり言えるためには、どれほどの勇気と決断が要るか。

学校の教員や教委を「いじめる」暇があったら、そういう若者たちの登場をどうやったら支援できるのか、私たちはそれについて考えることに限られた資源を投じるべきではないのでしょうか。


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2012年07月13日 10:32 に投稿されたエントリーのページです。

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