「先生はえらい」韓国語版のための序文

2012-06-20 mercredi

『先生はえらい』韓国語版序文を書きました。
韓国語には、これまで『下流志向』、『寝ながら学べる構造主義』、『若者よマルクスを読もう』(石川康宏先生との共著)、『私家版・ユダヤ文化論』、『日本辺境論』が出ています。
『先生はえらい』は来月くらいに出るそうです。
韓国では教育関係者にけっこうウチダ本の読者がいるようですが、その人たちから「先生はえらい」というタイトルの本をぜひ訳してくださいというリクエストがあって、訳されることになったようです。
最初にこの本のタイトルを考えたときに、筑摩の吉崎さんと「日本だけで教職員が80万人いますからねえ」「じゃあ、50万部は堅いですなあ」というような気楽な会話をしたことを思い出しました。
そうか、世界中にいるんじゃないですか、先生は。
というわけで、韓国の先生がたどうぞよろしく。

では序文です。


韓国のみなさん、こんにちは。内田樹です。
『先生はえらい』お買い上げありがとうございます。まだ買う前で、書店で立ち読みしている方も、お手に取ってくれてありがとうございます。これもご縁ですから、ぜひ「まえがき」だけでも読んでいってください。

『先生はえらい』というのは、筑摩書房という出版社が企画した「ちくまプリマ-新書」というシリーズの中の一冊です。これは中学生・高校生を対象にして、ものごとを本質的に考えるための手がかりを提供しようという趣旨のシリーズでした。
「ものごとを本質的に考える」あるいは「ものごとをラディカルに考える」というのは、私たちがふつうに使っている言葉の「ほんとうの意味」や、私たちが当たり前だと思っている制度や儀礼は「もともと何のために作られたのか」を問うということです。
例えば、貨幣とか、市場とか、資本とか、欲望とか、交換とかについて、改めて「それほんとうはどういう意味なの?」と中学生に訊かれて、「それはね」と即答できる大人がどれほどいるでしょう。「オレはできるよ」という人がいるかも知れませんけれど、ほんとですかね。相手は中学生ですよ。「資本」について、中学生にもわかるように説明するのはかなりの力業です。とりあえず僕は「ちょっと待ってね」と言って、一週間くらい余裕をもらって準備しないととても答えられません。
そういうものです。私たちがふだん「その言葉の意味は自明であり、みんな熟知している」つもりで使っている言葉のほとんどについて、私たちは、「そのほんとうの意味」を中学生に問われて、ただちに説明できるほどには理解していません。
「ちくまプリマ-新書」はそういう問いに答えるための本ということで企画されました。
僕の『先生はえらい』はシリーズナンバー002ですので、シリーズ二冊目の本でした。
一冊目は橋本治さんの『ちゃんと話すための敬語の本』です。
橋本治さんは現代日本を代表する作家です。橋本さんの小説やエッセイが韓国語訳されているかどうか、私は不案内で存じ上げませんが、機会があれば、ぜひ韓国の若い人たちに読んで欲しい日本人作家のひとりです。
橋本さんは「敬語とは何か」ということを古典から日常会話まで縦横に引用して説明しました。橋本さんの本に横溢していたのは、中学生たちに対する「愛」でした。「キミたち、敬語とは何かということを、きちんと理解して、その使い方を覚えておいた方がいいよ。それはこのワイルドで、苛烈な社会でキミたちが生き抜いて、自分のたいせつな感受性を守るためのひとつの武器にもなるんだから」というのが橋本さんのメッセージだったように思います。
私は橋本さんのこの「シリーズナンバー001」をまず読んで、それから自分の書く物の計画を立てました。橋本さんと同じように若い読者への「愛」に貫かれた書物を書きたいと思いました。
そのとき、編集者から「内田さんが、今の中学生高校生にいちばん言いたいことはなんですか?」と訊かれたので、「『先生はえらい』かな・・・」と答えて、それが本の題名になりました。
この本は「学校」、「教師」、「学び」という、ごく平凡な、日常的に私たちが意味がわかって使っているつもりの言葉を取り上げて、その「ほんとうの意味」について書いたものです。中学生が読んでもわかるように。そして、中学生がこの本を読み終えたあとに顔を上げて、すこし頬を紅潮させて、「よし、学ぶぞ!」と決意を新たにすることを願って、書きました。
私は教師という仕事を30歳から始めて、ちょうど30年間やってきました。大学の教師という仕事は去年退職したことで終わりましたが、武道(合気道)の師範として若い人たちに教える仕事は変わらず続けています。その実践的経験からひきだした、「どうすれば、子どもたちはその潜在可能性を爆発的に開花して、ブレークスルーを成し遂げるか?」という問いへの答えが、この本に記されています。
子どもたちが目の前で、殻を破って脱皮する蝶のように、鮮やかな変身を遂げる場面を私は教師として何度も見てきました。
これは素晴らしい経験でした。
私は「子どもは必ず成長する。すべての子どもの中には豊かな可能性が潜在していて、じっと開花の機会を待っている」というずいぶん楽観的な教育観の持ち主ですが、それには私自身のこの幸福な経験が深く与っています。
そのような「開花の瞬間」に立ち会った経験から私が導き出したのは、人が「学び」をめざして、、自分を閉じ込めている知的な檻を押し破るのは、「先生はえらい」という言葉を素直に、屈託なく、笑顔で、口にできたときである、ということでした。
「先生はえらい」というのはある種の「信仰告白」のようなものです。
それはある意味で「私は神を信じる」という言葉と同じものです。
そう言った人に向かって、「神なんか存在しない。存在するというなら、ここへ連れてき、見せてみろ」というような不敬な人はあまりいません。
「先生はえらい」もそれと同じです。
でも、神さまと違って、「お前は『先生はえらい』というけれど、あの先生のどこがえらいんだ。オレはぜんぜんえらいと思わないよ。つまらん男じゃないか、あいつ」というようなことを言う人はけっこうたくさんいます。そう言われると、先生のどこがえらいのかを挙証することはむずかしい。実は、証明は原理的には不可能なんです。「お前、いったいあの女/男のどこがいいんだ?」という問いに誰も十分に説得力のある答えで応じることができないように。
「先生はえらい」というのは、信仰にも似ているし、恋愛にも似ている。それは「えらい」と思った人にとってのみ意味のある、決定的なできごとなんです。誰にとっても「えらい」先生、万人が認める「えらい」先生などというものは存在しません。
「えらい先生」というのは、理想的には「この世界で、私にとってだけえらい先生」なのです。それがもっとも激しい学びへの起動力をもたらします。というのは、「この先生のえらさを理解できるのは私だけだ」という思い込み(錯覚でもいいんです)だけが、人間をして爆発的な学びへ誘うからです。
なにしろ、「先生がえらい」ということを何よりも雄弁に立証できるのは「その先生に就いて学んだ当の私が、これこのようにちゃんとした大人になれたではないか」という事実だからです。自分自身の知性的な成長と感性的な成熟によってしか「先生はえらい」という言明の真理性は証明できない。逆に言えば、自分が成長するという当の事実によって、過去の自分の言明の正しさはあますところなく立証される。
よくできたシステムだと思いませんか?
「先生はえらい」というのは、自らが成長することなしにはその真理性を証明できない「宣言」です。
どう考えても、そういう宣言は、人生のなるべく早い時期にした方がいいし、できることならたくさんの先生について「先生はえらい」という言葉を向けた方がいい。だって、それによって限りなく利益を得るのは宣言した自分自身であり、私がそんな宣言をしたせいで損をしたり、困ったりする人はひとりもいないんですからね。
ですから、どうして日本の若い人たちが「先生はえらい」という言葉を惜しむのか、それがもったいないなあと思って、この本を書いたのです。
たぶん、誰かに向かって、「先生、どうぞ教えて下さい」と懇願するのは、「自分の弱さを暴露するみたいで、格好悪い」とか「借りを作るみたいで、イヤだ」という理由でその宣言を惜しんでいるのだろうと思います。そんなところで我慢をしていたら、ついに死ぬまで子どものままでいるしかないのに。もったいないですね。
でも、現実に日本の子どもたちは「先生はえらい」という言葉を惜しみました。そして、いくぶんかはそのせいで、学ぶ意欲を失い、学習時間を減らし、学力をどんどん低下させました。今の日本の子どもたちは「近代史上最も勉強しない子ども」です。誰にも頭を下げず、誰にも「教えて下さい」と膝を屈さなかったことによって、子どもたちはささやかなプライドや主体性は守り抜いたのかも知れません。でも、代償として失ったものはあまりに大きいように思います。
事情は日本と韓国でもそれほど違わないのではないかと思います。
メディアから伝えられる情報では、韓国の子どもたちは世界でいちばん勉強しているようです(日本とは比較になりませんね)。でも、その烈しい努力の目標が、「有名校への入学」や「有名企業への就職」や「高い年収・高い威信・大きな権力・豊かな文化資本」というような「私的利益」であるなら、その学習努力は申し訳ないけれど、「成熟」とは無縁のものです。だって、それはどれも「6歳の子どもでもその価値がわかるもの」ですからね。
大人とは「子どもにはその価値がわからないものの価値がわかる人」のことです(「大人」の定義は他にもたくさんありますが、とりあえずそのうちの一つはこれです)。
私たちが学ぶのは「子どもに見える世界」より外側に踏み出すためです。お金が欲しい、いい家に住みたい、みんなにちやほやされたい、レベルの高い配偶者を手に入れたい・・・というようなことが人生の目的だという人は、たとえ60歳であっても「子ども」です。その年になるまで、ついに学びと無縁だった人だったということです。
私は若い人たちには、できれば全員が「大人」になって欲しいと願っています。まあ、全員は無理なんですけどね。でも、できるだけ多く。
そういう願いを込めてこの本を書きました。もともとは中学生(15歳くらい)を想定読者にして書きました。でも、小学生が読んでも、大学生が読んでも、「読むに耐える」だろうと思います。そして、「子どもを成熟に導く」ことはあらゆる共同体に共通の責務なわけですから、日本だけでなく、韓国でも、もちろん中国でもインドでもアメリカでもヨーロッパでも、どこの国の読者にとっても、切実な問題を論じていると思います。
長くなりましたので、このへんにしておきます。
この本を読んで、韓国のみなさんがどんな感想を持たれたか、ぜひ知りたいと思います。
では、また別の本でお会いできるといいですね。

最後になりましたが、この本の韓国語訳の出版のためにお骨折り頂きました訳者、編集者、出版社のみなさんに心からお礼を申し上げます。
どうもありがとうございました。