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さよなら民主党

「プレス民主」の取材で、有田芳生さんを聴き手に民主党政治の総括をした。
いくつか話したけれど、二点だけここに録しておく。
一つは「政治主導」というスローガンについて。一つは「民主党分裂」について。

民主党は2009年の総選挙で「政治主導」「官僚政治打破」を唱えて、圧倒的な有権者の支持を集めた。
けれども、それは「霞が関の官僚は邪悪で、利己的である」ということについて国民的な規模の疑念が形成されたということであって、必ずしも、官僚の上に立つことになった政治家たちの方が官僚たちよりも、善良であり、フェアであり、政策判断において適切であるという判断を国民が下したということではなかった。
「政治主導」というのは、要するに「政策の適否については、専門家に吟味させるよりも、直近の選挙で多数を得た政党に『好きなようにやらせる』方が、正しい政策を選択する可能性が高い」という「アイディア」のことである。
理論的にも、実践的にもたしかな根拠のある「アイディア」ではないが、とにかく2009年時点では、有権者はこれに「理あり」とした。
それまで、自称専門家たちが、個々の政策を決定するに際して、その決定がなぜ適切であるかを有権者に説明する努力をあまりに惜しんだことに、有権者たちが腹を立てたせいだろうと思う。
「政治主導」というのは、その限りでは「政治過程を有権者にわかりやすいように開示してほしい」という有権者のがわの期待を担ったものだった。

けれども、それはいきなり鳩山内閣の普天間基地問題で頓挫を余儀なくされた。
普天間基地問題は日米の安全保障、もっとスペシフィックに言えば、核抑止力にかかわる問題である。
核抑止力は米軍の専管するマターであり、日本政府はこれについて、いかなる決定権も持っていない。
情報開示を要請する権利さえない。
だから、日本の総理大臣が勝手に「基地の国外移転」を言ったことについて、米軍はつよい不快感を抱いた。
少なくとも「米軍とホワイトハウスはつよい不快感を抱いたに違いない」と「忖度」する日本人政治家・官僚・メディア知識人がたくさんいた。
彼らは全力を尽くして「鳩山おろし」を企て、それに成功した。
だが、それ以前に、鳩山首相はなぜ、「迷走」と言われるような、発言のダッチロールを行ったのかについてもう少し冷静に考えるべきだったと私は思う。

鳩山首相は基地問題でアメリカと交渉を試みたときに、「申し訳ないけど、あなた勘違いしてません?日本政府はね、安全保障については自己決定権がないんですよ」とぴしゃりと言われた(のだと思う。想像ですけど)
そのやりとりは、そのまま情報開示されるべきだったと私は思う。
鳩山首相は「迷走」の理由を問われたときに、「えーと、ちょっと勘違いしていましたけれど、日本はアメリカの軍事的属国なので、安全保障については主権国家としてのフリーハンドを持っていないのでした」と答えるべきだったのだ。
それを明らかにすれば、彼の政策決定(というよりは不決定)をめぐる政治過程は透明性を獲得しただろう。
でも、彼もまた、歴代の総理大臣たちと同じように、「日本があたかも安全保障政策について自己決定できる主権国家であるかのように」ふるまう道を選んだ。
主権国家でない国があたかも主権国家であるかのように言葉を取り繕えば、言うことは支離滅裂になる。
「私たちは安全保障について主権的な決定を下すことができません。敗戦国ですから。まことに屈辱的なことではありますが、これが現実なのです。でも、私たちはここから出発するしかありません。一歩ずつ基地撤去にむけてがんばりましょう」と鳩山首相がそのときカミングアウトしていれば、民主党は日本の戦後政治史の新しいフェーズに踏み出すことができただろう。
でも、鳩山首相はそうしなかった。
していたら、loopy どころか、アメリカの政府筋からは crazy とか traitor と呼ばれていたであろう。
どちらが日本の国益に資することになったのか、私には判断ができない。
でも、このときに重大な政策決定(というより不決定)について、そのプロセスを開示できなかったことによって、「政治主導」という語はそこに託された歴史的意味を失って、空語になった。

その後に起きたことは、ご案内の通りである。
菅首相時代の震災復興・原発処理も、野田首相時代の増税・原発再稼働も、いずれも「なぜ、このような政策が採択され、他の政策は棄却されたのか」についての合理的な説明を統治者自身が放棄するというパターンを繰り返した。
「わかりやすい政治」を求めた国民の「政治主導」への期待はかき消え、ついにその言葉さえ誰かも口にしなくなった。

いや、「政治主導」を最大限に活用した人がいないわけではない。
維新の会がそうだ。
この政党の最大の特徴は、自分たちの政策の適切性についての説明努力よりも、反対派の人々の資質的な不適切性を言いたてることに優先的にエネルギーを備給することにある。
反対派の非をどれほどならしても、それ自体は彼らの政策の適切性を証明することにはならない。
けれども、有権者は「直近の民意」を代表している政党は、政治過程全体を主導する権利があるという主張に頷いて見せた。

2001年の小泉純一郎から始まった「劇場型政治」は、2005年の「郵政選挙」、2009年の「政権交代選挙」を経由して、2012年の「維新の会ブーム」に至り着いた。
「政治主導」はもともと「わかりやすい政治」を目指していたはずである。
今、何が起きているのか、それがたとえ不都合なことであっても、あえて開示することで、外見的には意味不明に見える政治行動の内在的な合理性を国民に「説明」すること。
それが「政治主導」に有権者が託していたものではなかったか。
あるいは、私の誤解だったのかもしれない。
だが、私は「政治主導」という言葉をそのように理解していた。
主権がないなら「主権がない」とはっきりいい 言い、金がないなら「金がない」とはっきり言い、打つ手がないなら「打つ手がない」とはっきり言う。
その上で、国民的な統合と叡智の結集と非利己的な献身を求めるのが「政治主導」の本道ではなかったのか。
政治家の人気投票をしただけで、あとは彼らに「丸投げ」して、政策の適否について説明責任さえ求めないというような没主体的な有権者のふるまいを指してそう呼んだわけではないだろう。

民主党は今、彼らに立候補者330に対して308人の当選者を与えた2009年の総選挙での選挙公約のほとんどを放棄し、首相は「しない」と約束した消費税増税に「政治生命をかける」と呼号している。
なぜ、選挙公約がこれほど組織的に放棄されなければならないのか。
これについて、為政者には説明責任があるだろう。
けれども、消費増税についても、原発再稼働についても、首相の口から「情理を尽くした説明」が語られたようには思われない。
政策が歴史的状況の変化によって転換されるのは当然のことである。
だが、その場合には、なぜ過去のある時点では「適切」と思われた政策がその後「不適切」になったのか、その経過を説明する義務があるだろう。
どのような情報を勘定に入れ忘れていたのか。どのような想定外の事態が出来したのか。なぜ、現実には起きてしまった事態を「想定外」に類別していたのか。何を見落とし、何を見誤り、どのような推論上の過誤を犯したのか。
その検証と開示ぬきに、マニフェストを変更することはできないと私は思う。
私は間違っているのだろうか。
選挙は候補者の属人的資質についての信認投票であり、政策の適否を有権者は判断材料にしているわけではないという反論があるかもしれない。
なるほど。
そうであるなら、マニフェストなど、もとより不要のものだし、政策をめぐる論争も無駄なことだ。
有権者は政権公約などは無視して、候補者の中から、それぞれの基準で「好み」の人を選ぶことに専念すればいい。
「政治主導」が日本の政治にもたらしたのは、逆説的なことだが、「個別的な政策について、有権者の支持を求めたいと願うなら、その政策の適切性を説くことが必要だ」という、常識を打ち捨ててしまったことである。
「直近の民意」を代表した政治家は、その事実だけによって、政策判断の正しさを論証する義務を免ぜられる。
この新しいルールは、小泉純一郎によって持ち込まれ、政権交代でピークに達し、維新の会でその究極のかたちを取るに至った。
というのが、私の理解である。

もう一つは、長くなりすぎたので、「巻き」でゆくが、民主党は自民党と連合する勢力と、小沢・鳩山派に別れた方がいいと思う。
つねづね申し上げているとおり、民主党は自民党の旧田中派の流れを汲み、自民党は旧福田派のアバターである。
増税・原発再稼働・TPPに賛成、新自由主義、対米従属、「選択と集中」、競争と格付け、飴と鞭、勝ち組への資源集中による国際競争の勝利は福田派の綱領である。
増税・原発再稼働・TPP反対、一億総中流、都市と地方の格差解消、バラマキ、一律底上げ、対米自立は田中派の綱領である。
両派の考え方は、鄧小平と毛沢東くらいに違う。
でも、このような対立的な世界観をもつ党派が両端にあることで、私たちはそのつどの歴史的条件の中で、より適切な政策を選択する「枠組み」を持つことができる。
私はどちらかの党派を支持しているわけではなくて、このような政策判断上の「枠組み」があった方がいいと申し上げているのである。
私は今の日本には「田中派的なテコ入れ」が必要だと判断をしている。
イデオロギー的に賛成というのではなくて、さしあたり「対症療法的には」田中派政治の方が適切だろうと判断している。
民主党はこのあと、自民党と合流する部分と、消費増税反対・原発再稼働反対を貫く部分に分裂するほうが筋が通ると思う。
「田中派的民主党」が消費税と原発を争点に掲げて、総選挙に打って出れば、とりあえず私たちはこの二つの政策について、結果がどう出ようとも、主権者としてかかわることができる。
そのような「選挙の洗礼」は、国の未来にかかわるこの二つの政策については必要だろうと私は思う。
でも、その考えに与してくれる人はあまりに少ない。

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2012年06月13日 19:06 に投稿されたエントリーのページです。

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