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忠臣蔵のドラマツルギー

モーリス・ベジャール振り付けの「ザ・カブキ」のパリ公演のためのパンフレットに「どうして日本人は忠臣蔵が好きなのか」について書きました。
まず日本語で書いて、それを一文ごとにフランス語に置き換えるという作業をしました。
うまくフランス語が思い出せない言葉は日本語を書いている段階ですでに抑制されるので、ふだん日本語で書くときとはかなり違う文体になります。
結論も「フランス人向き」にアレンジしてあります。
この夏パリに行って、バレーを見る機会があったら、パンフレットぱらぱらとめくってみてください。

忠臣蔵のドラマツルギー La dramaturgie de “Chusin gura”

日本では、毎年暮れになると、どこかのTV局で『忠臣蔵』の映画かドラマが放映される。『忠臣蔵』に題材にした新作映画も飽くことなく製作され続けている。外国人の眼からは、定期的に『忠臣蔵』を見るという行為は、日本人が国民的なアイデンティティーを確認するための一種の儀礼に類したもののように見えることだろう。
私たちは『忠臣蔵』についての国民的規模での偏愛を抱いている。いったい、この物語のどこにそれほど日本人を惹きつける要素があるのか。
それを検出するのは、手続き的にはそれほどむずかしいことではない。というのは、『忠臣蔵』の物語には同時代の『東海道四谷怪談』をはじめとして、無数のヴァリエーションが存在するからである。もし、無数のヴァリエーションを通じて、「決して変わらない要素」があるとすれば、それこそが『忠臣蔵』の物語的エッセンス、必須の説話的原型だということになる。
ベジャールのバレー『ザ・カブキ』の基礎となっている『仮名手本忠臣蔵』もまたそのような無数のヴァリエーションの一つである。そこには多くの「歌舞伎的な創意」が凝らされており、それがこの物語を魅力的なものにしているのは事実であるが、例えば、「高師直の顔世御前への片思い」や「お軽、勘平の悲劇」や「力弥と小浪の悲恋」といった『仮名手本忠臣蔵』の中での「愛をめぐる挿話」は、どれも歌舞伎のオリジナルな工夫であって、他のヴァリエーションには採用されていない。だから、この舞台を見て、『忠臣蔵』とは「成就しない愛」の物語であり、それが国民的な人気の理由なのだというふうに解釈する人は短慮のそしりを免れないであろう。
すべての『忠臣蔵』ヴァリエーションが一つの例外もなく共通して採択している物語要素があれば、私たちはそれをこそ忠臣蔵的な物語の本質と名指すべきであろう。
さて、驚くべきことだが、そのような物語要素は実は一つしかないのである。
数知れない『忠臣蔵』ヴァリエーションの中には「松の廊下」の場面をカットしているものがあり、「赤穂城明け渡し」をカットしているものがあり、極端な場合には「討ち入り」の場面をカットしているものさえある。だが、絶対にカットされない場面がある。
それは「大石内蔵助/大星由良之助の京都の茶屋での遊興の場面」である。
そこから私たちはこのエピソードこそ、それ抜きでは『忠臣蔵』という物語が成立しなくなるぎりぎりただ一つの物語要素だと推論できるのである。
『忠臣蔵』では、浪士たちの人物造形にはある程度の自由度が許されている。例えば、堀部安兵衛は浪士たちの中ではもっともカラフルな履歴を誇る武士だが、ヴァリエーションごとに造形が違う。ある物語では彼は思慮深く、温厚な人物として描かれ、別の物語では、好戦的で、軽率な青年として描かれる。どう描こうと、物語の骨組みに影響はないから、そのような自由裁量が許されるのである(そもそも『仮名手本忠臣蔵』に安兵衛は登場さえしない)。
他の登場人物についても同様である。
浅野内匠頭も、幼児的ではた迷惑な人物として描かれる場合があり、筋目の通った爽やかな武士として描かれる場合もある。どちらであっても、物語の骨組みは揺るがない。
だが、大石の場合はそれが許されない。
あらゆる『忠臣蔵』ヴァリエーションを通じて、大石内蔵助を演じる役者には絶対に譲れない役作り条件が課されている。
それは「何を考えているのか、わからない男」であることである。
『忠臣蔵』というのは「不安」のドラマなのである。大石という、仇討ちプロジェクトの総指揮者であり、資源と情報を独占して、浪士たちの生殺与奪の権利をにぎっている人物が何を考えているのか、わからない。
ほんとうに討ち入りはあるのかと疑う同志たちの猜疑心。討ち入りがいつ来るか怯える吉良方の人々の怯え。公的な裁定への暴力的な異議申し立てがなされることに対する統治者の側の不安。血なまぐさいスペクタクルを期待している大衆の苛立ち。主君の仇を討つというヒロイックな企てを浪士たちが利己的な理由で放棄した場合、「武士道倫理の卓越性」という武士による統治の根本原理が崩れることへの武士階級全体の困惑・・・無数の不安が「大石が何を考えているのかわからない」というただ一つの事実の上に累積してゆく。
大石が自分の命を賭して主君の仇を討てば、「武士道倫理」へのクレジットが加算される。彼が現世の快楽と保身を優先させるのであれば「人間なんて、しょせん色と欲で動かされる利己的な生き物にすぎない」というシニックな人間観へのクレジットが加算される。
果たして、大石はパセティックな倫理に賭け金を置くのか、シニックなエゴイズムに賭け金を置くのか、人々は息をつめてみつめている。そして、最後に、大石の決断によって、この過度に引き延ばされた非決定状態は劇的な仕方で解決される。
『忠臣蔵』のカタルシスはそのように構造化されている。
「全権を握っている人間が何を考えているのかわからない」とき日本人は終わりのない不安のうちにさまざまな解釈を試みる。そのときに、日本人の知性的・身体的なセンサーの感度は最大化し、想像力はその限界まで突き進む。中心が虚であるときにパフォーマンスが最大化するように日本人の集団が力動的に構成されている。
たぶんそういうことなのだ。
だから、それが天皇制の政治力学と構造的に同一であることに私はもう驚かない。

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2012年05月02日 10:17 に投稿されたエントリーのページです。

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