人災の構図と「荒天型」の人間について

2012-04-19 jeudi

「東日本大震災における天災と人災」というお題で日本赤十字看護学会というところで講演をすることになった。
抄録の提出を求められたので、次のようなことを書いた。
「いつもの話」ではあるけれど、本番では「いつもの話」じゃないことを話すので、ご容赦ください。

東日本大震災から1年を経過して、これが「天災」であるより以上に「人災」であるという印象を私たちは抱いている。
「天災」は自然現象であり、私たちにはそれを防ぐ力がない。「人災」は人間の力で統御できるし、しなければならない災禍である。
その災禍の広がりを防げなかった。
「人災」を用意したのは私たちの社会を深く蝕んでいる「無根拠な楽観」である。「晴天型の世界観」と言ってもよい。

私たちはある「枠組み」の中で「ゲーム」をしている。賭けられているものは権力とか財貨とか文化資本とか、いずれにせよ「価値あるもの」である。そのやりとりのゲーム、誰かが勝てば誰かが負ける「ゼロサム」の競争をしている。そういう考え方が「晴天型の世界観」である。ゲームに夢中な当人は「これこそリアル・ワールドの生存競争」で、自分ほどのリアリストはいないと思い込んでいる。
彼は競争に夢中になっているアスリートに似ている。フィールドがあり、ルールが決められ、審判がいるゲームをしているものにとってはたしかに「勝ち負け」が何より重要である。
だが、アリーナがゴジラに踏みつぶされたり、地割れに呑み込まれたりするときには、「生き延びること」がそれに優先する。
そのような想定外の危機のときでも、適切にふるまって、人々に適切な指示を与えて、被害を最小化することのできる人間がいる。
国際関係論では、「管理できる危険」を「リスク」、「管理できない危険」を「デインジャー」と呼び分ける。「晴天型」の競争主義者は「負けるリスク」のことしか考えない。だから「デインジャー」については何も考えない。
「グローバル競争」とか「グローバル人材」というような言葉をうれしそうに口にするのはこの類の人間である。このタイプの人間は危機的局面では腰を抜かしてものの役に立たない。
だが、集団が生き延びるためには、社会組織の要路に一定数の「デインジャー対応能力のある人々」が配置されていることが必要である。
そのような常識がかつてはあった。デインジャー対応の「人材」(それは「晴天時」にはまったく無用の人間のように見える)がついにその生涯に一度も役に立たなかったことを喜ぶような実証性に裏づけられた常識があった。今はもうそのような常識は存在しない。
集団の存立を支える必須の「柱」である制度資本(司法・行政、教育、医療)には、どんなことがあっても、「荒天」と「カタストロフ」に備えることを本務とする人々が一定数(全部である必要はない)配置されていなければならないと私は考えている。
震災と原発事故は、私たちの国の基幹的な組織が「デインジャー対応能力」のある人間を重用する習慣を失って久しいことを露呈させた。むろん、単独の行動者としては散在していた。その人たちが自己判断・自己責任でシステムの全的崩壊を局所的ではあるが防いだのである。
今、検察や警察の組織的な堕落、医療崩壊、教育崩壊というかたちで私たちの社会の「荒天対応能力」は底なしに劣化している。
震災と原発事故後、さすがに危機感をもった人々の口から社会制度の抜本的改革の必要が言われているが、「荒天型人材」の育成の急であることを言う人のあることを寡聞にして知らない。だが、制度をいじっても、そこにいる人間の質が劣化し続けては、何の改革にもならないと私は思っている。

社会の「柱」を支えている制度の内側でも、心ある人は「どうふるまっていいかわからないときに、どうふるまっていいかわかる人間」、マニュアルもガイドラインも「上からの指示」もないときに、適切にふるまって、人々を救うことのできる人間とはどのようなものか、どのようにして育成できるのかを真剣に考え始めていると私は思う。今のところは願望に過ぎないが、それに取り組まない限り、「人災」はさらに規模を拡大して繰り返し私たちを襲うことになるだろう。