「贈与経済」論(再録)

2012-04-08 dimanche

『呪いの時代』に贈与経済について書いたものを再録しておく。

このアイディアはそのあと岡田斗司夫さんの「評価経済」論との対談でも重要なトピックになった。
岡田さんはじめ、いろいろな人たちがポスト・グローバル資本主義のシステムについて新しいアイディアを提出している。
オルタナティブが必要だということに気づいている人もいるし、これまでの経済システム以外のものを想像できない人もいる。そして、不思議なことだが、「これまでの経済システム以外のものを想像できない人たち」が自分のことを「リアリスト」と呼んでいる。
そういう「リアリスト」たちと訣別すべきときが来ていると私は思う。

ここから下が引用。

商品への欲望が身体的欲求のレベルにまで鎮静したら、資本主義は崩壊してしまうとエコノミストたちは恐怖しています。でも、僕はそうは思わない。何か違うことをやればいい。とりあえず、昔に戻って「贈与経済」をやればいいんじゃないか、と。
贈与経済というのは、要するに自分のところに来たものは退蔵しないで、次に「パス」するということです。それだけ。
「自分のところに来たもの」というのは貨幣でもいいし、商品でもいいし、情報や知識や技術でもいい。とにかく自分のところで止めないで、次に回す。自分で食べたり飲んだりして使う限り、保有できる貨幣には限界がある。先ほども言いましたけれど、ある限界を超えたら、お金をいくら持っていてもそれではもう「金で金を買う」以外のことはできなくなる。それで「金を買う」以外に使い道のないようなお金は「なくてもいい」お金だと僕は思います。それは周りの貧しい人たちに「パス」してあげて、彼らの身体的要求を満たすことに使えばいい。ご飯や服や家や学校や病院のような、直接人間の日常的欲求をみたすものに使えばいい。タックスヘイブンの銀行口座の磁気的な数字になっているよりは、具体的に手で触れる「もの」に姿を変える方がいい。
別に突拍子もないことを言っているわけではありません。本来、貨幣というのは、交換の運動を起こすためにあるものなんですから、誤って退蔵されているなら、それを「吐き出させ」て、回すのが筋なんです。その方が貨幣にしたって、「貨幣として世に出た甲斐」があろうというものです。
「パスをする」と簡単に言いましたけれど、これはよく考えると、けっこうむずかしいことなんです。
例えば、みなさんの手元に今お金が1億円あるとします。とりあえず使い道のないお金です。これを「使う」のと「贈る」のとどちらがむずかしいと思いますか。
みなさんは「使う」方がむずかしいと思っているでしょう。誰かに「贈る」のは簡単だけれど、使うのはむずかしい、と。
でも、違いますよ。1億円をまさか行きずりの人にいきなり渡すわけにはいかない。まずふつうは怪しんで受け取ってくれないし、うかつな人に申し出たら、「バカにするな」と怒られたり、「そんなに余ってるなら、もっとよこせ」といって家に乗り込んできて身ぐるみ剥がされるかも知れない。適切な額を、適切な仕方で、適切な相手にピンポイントで贈るというのは、デパートに行って1億円散財するよりはるかにむずかしい。
贈ったことで、その相手に屈辱感を与えたり、主従関係を強いたり、負い目を持たせたり、あるいは恨みを買ったりすることがないように、気持ちよく、生産的にお金を渡すことができ、かつ、そのお金がその人においてもまた退蔵されずに、その人が救われて、さらにその人が次の人にパスしてゆくときの原資となる。そういう「パスのつながる」プロセスを立ち上げるような仕方で贈り物をするのは、実はきわめて困難な事業なのです。
というのは、適切な贈りものをするためには「贈る相手」をあらかじめ確保しておかなければならないからです。もらってから考えたのでは遅すぎる。
1億円ぽんともらっても、「おお、これはありがたいわ」と、しかるべき「贈る相手」にすぐにさくっと贈ることができる人がいたとしたら、その人は受け取るに先だって、すでに「贈り先」のリストをちゃんと作成していたということです。パスが滞りなく流れ、それがどこにも退蔵されたり、停留したりすることがなく、結果的にそのパスが10人、100人、1000人というふうに広がってゆくためには、自分がパスを受けたときには、すでにパスの送り先についての膨大なリストを持っており、さまざまなタイプのパスのシミュレーションを済ませていなければならない。そういうパスをめぐるネットワークがあらかじめ構築されていなければならない。パスのネットワークがすでに構築されていない限り、適切な贈与ということはできないのです。未熟な人間でもお金を蕩尽することはできるが、成熟した市民でなければ適切な贈与はできない。そういうことです。
法外なお金持ちがたくさんいるにもかかわらず、贈与経済がなかなかうまく機能しない理由がそれでわかりますね。贈与がうまくゆかないのは、贈与経済そのものが荒唐無稽な制度だからではありません。そうではなくて、贈れるだけの資産をもっている人たちが、それにもかかわらず贈与を行うだけの市民的成熟に達していないからです。適切なる「贈る相手」をきちんとリストアップできていないからです。パスを送ったときに、「ありがとう」とにっこり笑って言ってくれて、気まずさも、こだわりも残らないような人間的なネットワークをあらかじめ自分の周囲に構築できていないからです。貧乏なとき、困っているとき、落ち込んでいるときに、相互支援のネットワークの中で、助けたり、助けられたりということを繰り返し経験してきた人間だけがそのようなネットワークを持つことができる。その日まで、自己利益だけ追求して、孤立して生きてきた『クリスマス・キャロル』のスクルージ爺さんみたいな強欲な人が、ある日株で儲けたから、宝くじで当たったからと言って、このお金を貧しい人たちにあげようと思い立っても、どうしていいかわからない。贈りますと言っても、たぶんみんな気味悪がって、受け取ってくれない。
そういうものなんです。今、ぽんと大金が入ってきたら、「どんなふうに使えばみんなが喜ぶだろう」という想像をいつもしている人間だけが効果的な贈与を果たすことが出来る。そういう想像をしたことがない人は「ぽんと大金」が入ってきても、飲んで騒いでラーメン食った後は定期預金にするくらいしか思いつかない。そんな人に「ぽんと大金」を渡しても意味ないから、そもそもそんな人には誰も贈与しない。その人がエンドユーザーであるような人間には誰からも贈与が届かない。贈り物を受け取ったときに、目にも止まらぬ速さで次の贈り先にそれがパスされるような人のところにしか贈り物は届かない。そういうものなのです。
贈与経済が成り立つための要件は、ですからある意味きわめてシンプルです。市民的に成熟していること。それだけです。自分より立場の弱い人たちを含む相互扶助的なネットワークをすでに作り上げており、その中で自分が「もっぱら持ち出し」役であることを愉しむようなマインドをもつ人であること。そういう人のところに選択的にリソースが集中するシステムが贈与経済システムです。
かつて青島幸男は「ぜにのないやつぁ俺んとこへこい 俺もないけど心配すんな 見ろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう」というすばらしいフレーズを植木等のために書きましたが、こういうセリフがさらっと言える人間が「ぐるぐる回る」活動のハブになる。そういうのが理想の社会だと僕は思っています。
今は夢物語に聞こえるかも知れませんけれど、僕は「交換から贈与へ」という経済活動の大きな流れそのものはもう変わりようがないと思っています。そのうちに、ビジネス実用書のコーナーに「どうすればともだちができるか」「後味のよい贈り物のしかた」というような本が並ぶようになっても、僕は怪しみません。