今朝の日経発表の世論調査によると、野田佳彦内閣の支持率は36%で、11月末から15ポイント急落した。
不支持は14ポイント上昇の56%で、9月の内閣発足以来はじめて支持率を上回った。
内閣発足から3ヶ月で支持率が30ポイント以上下がったのは2008年の麻生内閣以来。
とくに福島第一原発の事故について首相が16日に原子炉の低温停止状態を受けて「事故収束」を宣言したことについての不満が高く、「納得できない」が78%で、「納得できる」の12%を大きく上回った。
争点の消費増税については、15年頃までに段階的に10%まで引き上げる政府案に賛成が38%、反対が53%。前回調査より賛成が7ポイント下落、反対が6ポイント上昇。
興味深い数字である。
なぜ、これほど急落するのか、私には理由がよくわからないからである。
たぶん政権発足3ヶ月でできることは「せいぜいこの程度」だろうと私は思っていた。
日米関係が劇的に改善されて普天間基地問題が片付くとか、尖閣諸島問題や竹島問題に交渉のめどが立つとか、拉致問題が解決するとか、東北の復興が急ピッチで進むとか、原発事故の原因と現状が徹底的に検証されて、官邸発の原発情報の信頼性が高まるとか、そういうことがほんとうに起こると日本国民の多くが期待していて、3ヶ月で「そうなっていない」という理由で支持から不支持に転換したというのなら、わかる。
そのような無根拠な楽観的期待を抱いたご本人の政治的見通しの不適切は脇へ置いても、話の筋は通っている。
問題は「そんなことははじめから期待していなかった」という方々である。
その方々がなぜ支持から不支持に切り替わったのか、その理由が私にはわからない。
基地問題も領土問題も拉致問題も三ヶ月では解決しないだろうし、解決のめども立たないだろう。経済指標も好転しないだろう。雇用も創出できないだろう。税収も増えないだろう。公務員制度改革も進まないだろう。財政規律も保てないだろう。
私はそう思っていた。たぶん多くの人もそう思っていたはずである。
そのような人が、この三ヶ月の野田内閣の実績を見て、「支持」から「不支持」に変わるということの理由が私にはよくわからないのである。
それほど劇的な失政があったと私は思っていない。
できる範囲内では(それが狭いというのが問題だが)一生懸命仕事をしているのではないかと思っている(さしたる成果が上がっていないというのが問題だが)。
でも、首相の器量も内閣の短期的な成果見通しも、内閣発足時点で「たぶんこの程度だろう」ということは私たちの多くにはわかっていたのではないのか。
その予想通りであった政治的達成に対して「劇的に評価を変える」ということはふつう起こらない。
ふつう起こらないことが起きた場合には、特殊な仮説を立てる必要がある。
それまでこの種の現象については適用されない仮説を案出する必要がある。
私が言っているのではなくて、シャーロック・ホームズが言っているのである。
前にも引いたが、もう一度。
「君にはもう説明したはずだが、うまく説明できないもの(what is out of the common)ものはたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理する(reason backward)ということだ。このやり方はきわめて有用な実績を上げているし、簡単なものでもあるのだが、人々はこれを試みようとしない。日常生活の出来事については、たしかに『前進的に推理する』(reason forward)方が役に立つので、逆のやり方があることを人々は忘れてしまう。統合的に推理する人と分析的に推理する人の比率は五〇対一というところだろう。」
(Sir Arthur Conan Doyle, A Study in Scarlet)
「前進的に推理する」人たちはAという出来事があり、Bという出来事が時間的に後続した場合に「AがBの原因である」というふうに推論する人である。
Bという出来事があったときにその前段を振り返ると、「いかにも原因顔をした出来事」たちがずらずらと並んでいる。「前進的に推理する人」たちは、その中からいちばん使い勝手のよいAを選んで、「これが原因だ」という仮説を立てる。
今の場合であると、出来事Bは「野田内閣の不支持率の急上昇」。
ほとんどの人はこの出来事の「原因」として、「野田内閣の失政」を選ぼうとする。
「遡及的に推理する」というのは、その逆。
Bという出来事があったときに、遡及的に振り返ってみて、その中に「うまく説明できないもの」を探すのである。
今の場合なら、「野田内閣の失政として際立った失敗がない」というのが「うまく説明できないもの」である。
そこから私たちは仮説を案出する。
際だった失政がないにもかかわらず、「劇的に」支持率が低下したのは、有権者たちが今政治過程に求めているのは、「劇的なもの」それ自体だからである、というのが私の提出する仮説である。
彼らは「劇的に支持率が低下した」という事実そのもののうちに、「政治過程に期待するもの」をすでに見出して、それなりの「満足」を得ている、というのが私の仮説である。
「劇的な破綻」、「劇的な制度崩壊」、「劇的な失敗」・・・そういうものが「緩慢な破綻」や「進行の遅い制度崩壊」や「弥縫策が奏功しない失敗」よりも選好されている。
人間的諸活動のtheatricalization (劇化)と呼んでもいい。
社会制度が破綻することによって自分自身が「いずれ」受けるはずの苦しみよりも、社会制度が劇的に破綻するのを「今」鑑賞できる愉悦の方が優先されている。
このままゆけば野田内閣はあと半年保つまい。
野党は総選挙を望むだろう。マスコミもそう言うだろう。
民主党は大敗して、政権の座から転げ落ちるだろう。
けれども、自民党にも公明党にも少数政党のどこにも日本を混迷から引き出すような骨格の太い見通しを語れる政治家はいない。
ここを先途と、秦の始皇帝が死んだ後や隋の煬帝が死んだ後の中原のように、天下を狙うポピュリストやデマゴーグがわらわらと出てきて、総選挙報道は諸勢力の合従連衡を論じて、ヴァラエティショー的な興奮で沸き立つだろう。
人々は「それ」が見たいのである。
その気持ちは私にもわかる。
でも、そんな政治過程の「劇化」をおもしろおかしく享受している間、日本の政治過程は停止し、傷みきった制度はさらに崩れてゆく。
そのことについては、誰も考えないようにしている。
考えても仕方がないからである。
それよりは「目先の楽しみ」だ。
とりあえず長い間社会の柱石であった諸制度ががらがらと壊れて行くさまを砂かぶりで見ることだけはできる。
屋根が崩れ、柱が折れたあと、どうやって雨露をしのぐのか、それについては考えない。それよりも屋根が崩れ、柱が折れるのを眺める爽快感を楽しみたいのである。
制度が崩れるのを見る権利くらい自分にはあると思っている人が増えている。
「制度はオレに何もしてくれなかった。だから、そんなものが崩れたって、オレはすこしも困らない」
そう思っている人たちがたぶん増えている。
そのせいで、医療制度がまず崩れ、続いて教育制度が崩れ、行政制度も崩れつつある。
どんな社会制度も耐用年数が過ぎれば壊れてゆくのは当たり前である。
でも、「その先」にどのような社会制度を構築するのか、そのプランについて創造的な議論がないままに、ただ制度の崩壊を喜んでいると、制度解体のあとに、一時的に「カオス」が到来する。
カオスというのは、誤解している人が多いが、社会全体が混乱し、みんなが苦しむということではない。
局所的には秩序があり、条理が通り、正邪理非の判定が下されているのである。そこでは「だいたい今まで通りの暮らし」ができる。
でも、そうではない「不条理な界域」がしだいに増えてくる。
そこでは、ものごとの適否の判定基準が効かない。約束とか信義とかいうものが成り立たない。誰もがおのれひとりの自己利益確保を最優先する。
だから、「不条理な界域」では、長期的な計画が立てられない。集団で何かを共同所有したり、共同管理するということもできない。他人に自分のたいせつなものを負託することもできない。
人々は自分の手元に自分の資源を後生大事に抱え込み、つねにそれを背負って生きることを強いられる。
「人を見たら泥棒と思う」人々で埋め尽くされた界域で生きることの非能率がどれくらい個人のパフォーマンスを低下させるかは、誰でも想像すればわかるだろう。
カオス的社会というのは、「そこそこ条理の通る局所的秩序の内側に住む人」と「無-底の不条理界域に置き去りにされた人たち」に二極化する社会のことである。
「共同的に生きる知恵と技術をもつ人々」と「誰も信じず、自己利益だけを追求する人々」が「上層」と「下層」に決定的に分離する社会のことである。
階層間で、集団的な営為の質において、知的生産において、乗り越えがたい断絶が深まる社会のことである。
今日本はゆるやかにではあるが、すでにカオス化の兆しを示している。
上に書いたように、それは一時的・過渡的な制度の機能不全であり、必ずしも社会全体を覆い尽くすわけでもない。
けれども、「一時的」とは言っても、それが30年、50年というスパンのものであれば、人によっては「一生をカオスのうちで過ごした」という人も出てくる。
社会全体を覆い尽くすわけではないといっても、「局所的な秩序」に帰属できず「生まれてから死ぬまで、暮らした場所のすべてはカオスだった」という不幸な人も出てくる。
「制度的時間」と「人間的時間」はスケールが違う。
「百年後には平和と繁栄がきます」とか「ここではない場所では人々は幸福に暮らしています」と言われたからといって、今自分が味わっている苦痛や貧困が耐えやすくなるということはない。
制度が生成し、壊れ、また再生するときの「制度的な時間の流れ」と、人間が生まれ、育ち、死ぬまでの「人間的な時間の流れ」は、人間にとってはまるで違うものなのである。
(2011-12-26 12:17)