「辺境ラジオ」で話したこと

2011-12-25 dimanche

名越康文先生と西靖さんとのコラボ、『辺境ラジオ』の公開収録がクリスマスイブのMBSで行われた。
名越先生が最初から飛ばして、ずいぶん過激な内容となった(と書くとまるで名越先生のせいみたいだが、もちろんそれに応えて暴走したのは後の二人も同じです)。
放送は25日の25時半(というのは深夜放送の言い方)。『辺境ラジオ』はそのうち活字化される予定である(発行元は140B)。
その中でいくどか社会制度そのもののとめどない劣化(政治、経済、メディア)について言及された。
政治過程の劣化はすさまじいが、これまでそれなりに(ぎりぎり)合理的にふるまってきたように経済活動についても、ビジネスマンたちの思考は混濁し、5年10年というスパンについて見通しを述べられる状態にない。
思考停止している人間の特徴はすぐに「待ったなし」と言うのでわかる。
「待ったなし」というのは「選択肢の適否について思考する時間がない(だから、とりあえず一番でかい声を出している人間の言葉に従う)」ということしか意味していない。
だから、「待ったなし」で選択された政策はそれがどれほどの災厄を事後的に引き起こした場合でも、その政策を選択した人間は責任をあらかじめ解除されている(「待ったなし」だったんだから、最適解を引き当てられるはずがないという言い訳が用意されているのである)
ひどい話だ。
メディアもしかり。
このままでは新聞もテレビも雑誌も情報の発信源としての信頼性の下落を食い止められないだろう。
オルタナティブとしてのネットについても、私の見通しはあまり明るくない。
ネットに繁殖している言葉の多くは匿名であり、情報源を明らかにしないまま、断定的な口調を採用している。
ネットは実に多くの利便性をもたらしたが、それは「匿名で個人を攻撃をするチャンス」を解除した。
今ネット上に氾濫している言葉のマジョリティは見知らぬ他人の心身の耗弱をめざすために発信される「呪い」の言葉である。
呪いの言葉がこれほど空中を大量に行きかったことは歴史上ないと私は思う。
名越先生が昨日も指摘されていたが、「抑鬱的、攻撃的な気分で下された決断は必ず間違う」という心理学的経験則に従うなら、ネット上で攻撃的な口調で語られている言明のほとんどは構造的に間違っていることになる。
誤解して欲しくないが「間違う」というのは、その時点での整合性の欠如や論理の破綻やデータの間違いのことではない(そういう場合も多々あるが)。
そうではなくて、「間違った言葉」というのは結果的にその言葉を発した人間を不幸な生き方へ導く言葉のことである。
抑鬱的な気分の中で、攻撃的に口にされた言葉は事実認知的に「間違っている」のではなく、遂行的に「間違っている」のである。
発している当人たちを後戻りのできない「不幸な生き方」へと誘う言葉がネットの上に大量に垂れ流されている。
「呪いの言葉」は「自分に対する呪い」として時間差をおいて必ず戻ってくるという人類の経験知は誰もアナウンスしない。
あれもダメ、これもダメ。
そうやって指折り数えると、まるで希望の余地がないようであるが、これほどシステマティックにものごとが悪くなるというのは、ふつうはない。
ふつうはないことが起きたときは、解釈規則を変えた方がいい。
シャーロック・ホームズもそう言っている。
「うまく説明できないこと」が重なって起きれば起きるほど、それを説明できる仮説(まだ誰も立てていないが)は絞り込まれるからである。
私の解釈は、この制度の全体的劣化は「システムそのものの根本的な作り直し」について私たちのほぼ全員が無意識的に同意を与えていることと解すべきだろう、というものである。
「根本的」というのはほんとうに根本的ということである。
2011年はさまざまな「問題」がランダムに提示された一年だった。
2012年はこれらの問題群に伏流している「論理的な構造」がしだいに露出してくる一年になるだろう。
それがどのような構造なのか、私たちが選ぶことになるオルタナティブとはどのようなものなのか、それについてはこれからゆっくり考えたいと思う。
「ゆっくり考えている余裕なんかないんだよ。事態は待ったなしなんだ」と怒号する人々がきっといると思うけれど、彼ら自分たちが「古いシステム」と一緒に「歴史のゴミ箱」に投じられるハイリスクを冒していることに気づいた方がいいと思う。
いや、ほんとに心配してるんです。