ラジオについて

2011-08-24 mercredi

子守康範さんのMBS「朝からてんこもり」に三月に一度ペースで出演している。
早起きするのがたいへんだが、ラジオにかかわっている人は、なぜかみんな気分のいい人ばかりで、仕事はたのしい。
同じメディアなのに、どうしてテレビや新聞とラジオとでは、こんなにキャラクターが違うのかとときどき思う。
たぶんラジオは「声」だけでリスナーとつながっているからだと思う。
声はその人の「正味のところ」がかなりむき出しになる。
話している内容のコンテンツがうまく理解できなくても、その人が「自分に向かって語りかけている」かどうかは理解できる。
それはその人が発する声の中に「自分の声域と周波数が合う音」が含まれているからである。
価値観が合うとか、趣味が似ているとか、イデオロギーや信教になじみがいいとか、そういう顕在的なレベルの出来事ではない。
もっと身体的で、もっと深いレベルの出来事である。
「声の深い人」というのがいる(子守さんはそういう人のひとりである)。
声の深い人は、「多声的」(polyphonique)である。
一人の人間なのに、その声の中に「複数の声」が輻輳している。
大人の声に少年の声がまじり、おじさんの声におばさんの声がかぶり、謹厳なサラリーマンの声にやさぐれた悪漢の声が唱和する。
だから、その中のどれかに聴き手は「自分の周波数と合う音」を聴き出すことができる。
多声的な人は、いわば「ひとりオーケストラ状態」を実現している。
聴き手はそこに「和音」を聴くこともできるし、ある一つの楽器のフレーズだけを選択的に聴くこともできる。
この聴き手に与えられている「居住域の広さ」が聴き手に「ほっとする」感じを与えるのである。
何度も書いたが、太宰治は多声的な文体を操る天才であった。
「子供より親が大事と、思ひたい」とはご存じ『桜桃』の冒頭の言葉だが、この言明は「子供より親が大事なはずがない」という否定言明を同時に発信している。
同一の言明のうちに、肯定否定のふたつの命題が輻輳している。
こういう言葉の使い方を「多声的」と私は呼んでいる(「倍音的」という言い方をするときもある)。
こういう多声的なエクリチュールを使えるその人のうちでは、現に「複数の人格が共生している」という事態が起きている。
だから、その人が一言発するごとに、それに「セコンドします」という賛同の声も、「ちょっと・・・どうかな」という懐疑の声も、「ふざけたことを言うな」という否定の声も、「あ、そういえばさ」と「ずらす」声も、相次いで聞こえてくる。
そういう声を聴いていると、私たちは「ほっとする」。
というのは、そこで語られているコンテンツの正否についてはとっさには判断できないのだけれど、「こういう語り方をする人になら、ついていっても、たぶん『それほど悪いこと』は起こらない」ということは最初の一声で確信されるからである。
間違いなくその人のステートメントのうちには「自分の声」も含まれているからである。
この人は(たとえ部分的にではあっても)、私の気分や意見をも代表してくれる。
そういう確信がすると、私たちは緊張を解いて、なんだかゆったりした気分で人の話を聴くことができる。
そういう「被代表感」(変な日本語だけど)を聴き手に与えることができるパーソナリティがラジオでは重用される。

テレビのワイドショーやバラエティやトーク番組には、こういうタイプの「深い声」の人はまず出てこない。
視覚優位なテレビメディアでは、音声的には「わかりやすいコンテンツ」が最優先で要求されるからである。
視覚優位メディアでは、「画像」の構成に制作費のほとんどを割いているという費目配分ゆえに、視聴者が「絵より音に」その関心を振り向けることを構造的に望まないのである。
声はできるだけ「平板」で、「一意的」な方がいい。
テレビ番組の制作者は無意識のうちに、そう思っている。
たぶんそうだと思う。
だから、ほとんどの人は「テレビの画面を見ないで、音だけ聞く」という視聴態度ができない。
それを長時間強制されたら、たぶん相当数の人はそれを「拷問」に近いものに感じるだろう。
自分が聴いているコンテンツの意味がさっぱりわからないからである。
きんきんとして、奥行きのまったくない声を聞き続けることに耐えられなくなるからである。
でも、テレビはわざと「そういうふうに」作ってあるのである。
テレビを「ラジオのように画像ぬきで聴いても十分に面白い」というかたちで制作することは、このメディアにとって自己否定だからである。

ここまで書いたら、テレビよりラジオが好きな理由がすこしわかった。