140字の修辞学

2011-07-31 dimanche

Twitterに「愚痴」、ブログに「演説」というふうに任務分担して、書き分けることにしたら、ブログへの投稿が激減してしまった。
たしかにTwitterは身辺雑記(とくに身体的不調の泣訴や、パーソナルな伝言のやりとり)にはまことに便利なツールであるけれど、ある程度まとまりのある「オピニオン」を書くには字数が足りない。
わずかな字数でツイストの効いたコメントをするというのも、物書きに必要な技術のひとつではあろうが、「それだけ」が選択的に得手になるのは、あまりよいことではない。
というのは、「寸鉄人を刺す」という俚諺から知られるように、「寸鉄」的コメントは破壊においてその威力を発するからである(「寸鉄人をして手の舞い足の踏むところをしらざらしめる」というような言葉は存在しない)。
何より、一刀両断的コメントは、書いている人間を現物よりも150%ほど賢そうに見せる効能がある。
一刀両断的コメントの名人に「引き続き、そのテーマを5000字ほど深めて頂きたい」と頼んでも、出てくるものはずいぶん無惨な出来栄えであろう。
むろん、「寸鉄型」コメンテイターだって、物理的に「長く書く」ことはできる(同じ話を繰り返しせばいいんだから)。
でも、それでは読んでいる方がすぐ飽きる。
長く書いて、かつ飽きさせないためには、螺旋状に「内側に切り込む」ような思考とエクリチュールが必要である。
そして、そのためには「前言撤回」というか、自分が前に書いたことについて「それだけではこれ以上先へは進めない」という「限界の告知」をなさなければならない。
おのれの知性の局所的な不調について、それを点検し、申告し、修正するという仕事をしなければならない。
それがないと、「内側に切り込むように書く」ということはできない。
前言撤回を拒むものは、出来の悪い新書の書き手のように、最初の5ページに書いてあることを「手を替え品を替え」て250ページ繰り返すことしかできない。
最初の5ページに書いてあることのうちにはすでに情報の欠如があり、事実誤認といわぬまでも事実評価に不安があり、推論上の不備があるということを、「最初の5ページを書いている、当のその時に」開示できるものだけが、「内側に切り込む」ように書くことができる。
私はそう思っている。
「寸鉄型」のコメントに慣れるものは、それによって得られるわずかな全能感の代償として、多くのものを失う。
自分の命をかけられるような命題は140字以内では書けない(1400字でも、14000字でも書けないが)。
だから、そこに書かれる言葉は原理的に「軽い」ものになる。
誤解してほしくないが、私は「軽い言葉」を語るなと言っているわけではない。
「軽い言葉」だということを自覚して語って欲しいと言っているだけである。
というようなことを書くと、「ふざけたことを言うな」というご批判が早速あると思うが、如上の理由により、私宛のご批判は「5000字以下のものは自動的にリジェクト」させて頂くので、皆さまの貴重なプライベートタイムはそういうことに浪費されぬ方がよろしいであろう。